III 6月(3)-18
申し訳なさそうな表情を佐野は田中に見せていた。
(そんな顔になることは全然ないのだが)
田中は佐野の表情に気づくと視線をそらした。
らしくないのは自分でなくとも苦手に感じてしまうのだった。
駅に呆気なく到着すると、時間帯のためか、各駅停車しか止まらないからか、人気はかなり少なかった。
ガラガラのエスカレーターを使ってホームへ上ってみても、同じことであった。
ホームが高い位置にあるのは見晴らしが良くていいものだと田中は思った。
佐野は田中から離れた位置で肩にかけているくすんだ緑色のバッグをごそごそしていた。
黙って見守っていると佐野は焦茶色の表紙をした手帳を取り出した。
それを開くと、裏表紙に近いページを一枚、綴じ目近くで丁寧に折り目をつけてからその線に沿って破いた。
無地のページであった。
佐野はさらにどこからかボールペンらしきものを取り出すと、器用に何事かをそこにしたためた。
「田中くん、よかったらこれ、受け取って」
佐野は手帳をしまうとついさっきまで白紙だったページを田中へ差し出した。
「私の連絡先。実家だけど」
田中は黙ったまま何気なく受け取った。
受け取ったからには見ておく必要があるだろうと思った。
田中は佐野が書いたばかりの文字を見た。
名前、電話番号、住所。
几帳面な字を書くヤツだ、と思った。
(なんでオレに?)
田中は佐野の意図が分からなかった。
(佐野の連絡先をもらったところで、どうすりゃいいんだかな……)
もらってしまった以上は自分の連絡先を教えるべきなのかどうか、田中はちょっと迷ったが、すんなりと口頭で自分の電話番号を佐野に教えた。
口頭にしたのは佐野のように紙を用意する気にはならなかったからだった。
佐野は手帳を再度取り出すと、アドレス欄に田中の名前と知ったばかりの電話番号を記入したようだ。
「これで合ってる?」
佐野は田中に並ぶとアドレス欄のチェックを田中に求めた。
(なんで名前は書いてねえんだ?)
田中は自分が苗字だけの存在になっていることを知った。
「せっかく教えてもらえたのに、間違ってたら無意味になっちゃうから」
「合ってるが、オレが嘘を言ったとは思わねえのか?」
田中はそんな面倒なことをする性格ではなかったが、試しに佐野に訊いてみた。
「田中くんはそんなことする人じゃないでしょう」
佐野は合ってることに満足したのか嬉しそうだった。
「そうだ、田中くんの下の名前、ちょうどいい機会だから教えて」
「ん? 知らねえんだっけか?」
田中はとっくに佐野が自分のフルネームを知っているものとばかり思い込んでいたので驚くことになった。
「うん、見たことも聞いたこともないから」
言われてみれば佐野は自分とは別の学科だし、佐野にまともな自己紹介をした記憶はないし、陽美でもいない限り田中を「正彦」と呼べるような人間はこの付近に存在しない気がした。
それに佐野は「マアくん」のことも知らないようだ。
「オレの名前はだな……」
あらたまってしまうと、どういうわけか田中は名前を教えることを気恥ずかしく感じてしまった。
マサヒコと伝えただけで終わるとは思えない。
漢字ではどう書くのか訊かれるだろう。
心の森の奥にある湖で魚が軽く跳ねた。
田中はいつぞやヒデカズに名前を教えたときの状況を思い出した。
(こんなことなら文学史の教科書とノートには「TANAKA」と書かずに普通に記名しときゃよかった)
今更なので田中は腹をくくり、マサヒコは漢字でどう書くのかまで佐野に説明した。
佐野はアドレス欄の「田中」に続いて「正彦」と記入できた。
「ありがとう、これでさっぱりしたわ」
佐野は如何にも満足気な笑顔であった。
「友だちの本名や連絡先を知らないなんて、あってはならないことだもんね」
(佐野の意図はこれか)
田中は気がついたが、間抜けなひとことしか返せなかった。
「そんなもんかねえ」
佐野に「友だち」と認定された田中は、もうひとりの「友だち」をすぐに連想していた。
(オレは恵子の連絡先が分からんし、恵子に電話番号を教えてもいねえぞ)
田中は佐野曰く、「あってはならないこと」をしでかしているのだと判明した。
それはつまり、「人間としてどうなのか」を問われているのに等しいと田中は感じた。
(こいつは実にマジいっ、最低じゃねえか)
ルーズ・リーフのお礼どころか、それ以前の大問題に気づいていなかったとは……。
田中は次第に気分がそわそわし始めた。
(現実に気づかせてくれた佐野に、オレは感謝せねばならん)
田中は佐野に消しゴム以来の借りができたと思った。
「……ヒゲさんのお店では言えなかったけど、もうひとつ、訊いてもいい?」
佐野が思いがけないことを言ったので田中は我に返った。
「こんな場所でか? 誰かに聞かれちまうぞ」
「平気よ」
「は?」
「あんまり人はいないし、いたとしても他人のことなんてそんなに気にしないものだと思うから」
(そうなのか?)
そうだとすると、自分は少々自意識過剰気味かもしれない。
田中はそう思った。
「別に目立つようなこともしてないし」
(ちょっと待て)
オレはともかく、佐野の服装はけっこう目立つと思うのだが。
田中は口には出さず、水を差すのを避けて黙っていることにした。
「この世界のどこかにね、『運命の人』がいるってよく言うじゃない?」
「ん?」
「『赤い糸』で結ばれてる、とか」
「はあ」
「こんな私でもね、そういうのってなんかいいなあとは思うのよ。ただ、今の自分には当てはまらないような、まだその時期じゃないなあっていう感じがあるのよね」
「はあ」




