III 6月(3)-19
田中は佐野が何を言おうとしているのか皆目見当がつかなかったので、間抜けな相槌を繰り返していた。
「田中くんは――」
「は?」
ガタゴトとのんびりした音を響かせながら、各駅停車が田中と佐野がいるホームへとやってきた。
その音のせいで佐野が何を言ったのか田中にはよく聞こえなかった。
小さな声だとしても、いつもよく響いて聞こえる佐野の声が、これしきの騒音に消されるなんておかしいのではなかろうか?
田中は少し気になったが、とにかく佐野を促して各駅停車に乗り込んだ。
各駅停車の中は駅よりもさらにガラガラだった。
どこでも好きな場所に座れるどころか、寝転がっても問題なさそうである。
田中は開いたドアのすぐ隣のシートに腰を下ろした。
田中の右側はすぐにドアという位置である。
佐野が田中の左側に並んで腰を下ろすと、田中は佐野に近づきすぎない程度に左に寄って自分の右側に青いバッグを置いた。
佐野は自分の膝の上にショルダー・バッグを置いた。
各駅停車は快速電車の通過待ちのためにしばらく停車しているらしかった。
ドアがすぐに閉まる様子はなかった。
「スマン、さっきはなんと言ったんだ?」
田中は前屈みになっていたが、顔はしっかり佐野に向けて訊いた。
佐野は困っているのか、妙な表情になっていた。
「じゃあ、もう一度言うね」
佐野はそう言うと表情を引き締めて田中へと向き直った。
「田中くんは……」
「おお」
「……『愛してる』って、言われたり、言ったことある?」
「なんだって?!」
今度は田中が珍妙な表情になっていた。
「『好き』って言葉と、『愛してる』って言葉とでは、『愛してる』の方がずっと大きなパワーがあるような気がするのよね。真剣に、本当にそうなんだっていう気持ちをぶつけられるような……」
佐野は一度言葉を区切ったが、慌てたように続けた。
「あ、今のはセリフの話だからね。もしそんな場面になったらどんなふうに思ったり、感じたりするのかなと、気になっていて」
(セリフかどうかはいいとして、だ)
田中は思った。
(佐野は佐野なりにずいぶんいろいろと考えてるってわけだな)
田中は佐野に申し訳なくなってきた。
(役に立てなくてスマンな、まったく)
田中は「好き」という言葉から陽美と恵子を思い浮かべた。
(ハルちゃんはどこまで本気なのか分からんことをよく言うが、オレを好きでいてくれているのは分かる。オレが生まれたときからほとんど一緒にいてくれたわけだし……)
恵子にも好かれているらしいのは分かっているつもりではある。
かと言って、「愛」となるとそれがなんなのかハッキリしないから意見が出せない。
実は弘美から「愛してる」と言ってもらったことはあった気がする。
気がする、というのは弘美の言葉をうまく受け取れなかったからだ。
受け取れなかった自分には、もちろん言うことはできなかった。
実感が伴わない言葉は嘘と同じになると思ったのだ。
「『愛』って、ずいぶん深くて、重い気がするのよ。そのことがいいかどうかということじゃなくて、単純に考えてだけど、簡単に言ってはいけないような気がして」
佐野は真剣な表情でそう言うと、視線を落とした。
実感しているから言えるのだと田中は思った。
「やっぱり難しいなあ、恋愛って」
佐野は自分自身の足元を見ているようだった。
「そのとおりだと、オレも思うが」
賛同するしかない田中であった。
自分でもいつかは真面目に考えてみるべきなのだろうか?
今の自分の日常からはかけ離れているが。
「恋人同士がさ、周囲に認めてもらえなくて、自殺しちゃうような話ってあるでしょう?」
「はあ」
またしても間抜けな相槌を打ってしまったが、そんな話よりも、宇宙人が地球に侵略してくる方が田中には具体的に想像ができそうだった。
「ものすごく追い詰められちゃってもう死ぬしか選択肢がないってくらいで、お互いに相手がいなくなったら生きていけないとか思ってるんだよね、きっと」
「そんなもんなのか?」
「ロミジュリはこれの変形になるわね」
「は?」
そんなにおかしな話なのか、あれは?
田中は思った。
「まあ、経験がないから想像でしかないけど、そんな感じかなって。田中くんはそう思わない?」
「オレがか?」
どう答えていいものやら、田中は頭がうまく回らない。
自分の命を賭けてまでの行動なんて、そんな状況は非日常でしかありえない。
地球を防衛するためならそういうこともあるだろう、とは思う。
経験はもちろんないが。
回らない頭で無理に想像してみると、死んでカタをつけるなんて時代劇ならまだしも今の現実では何かがおかしくなっているとしか思えない。
死んでしまって何が片付くというのか?
田中は思うままに言ってみた。
「まあ、自殺なんてのはだな、どうかしちまってんだろうよ」
「『恋は盲目』とか、『恋はするものではなく落ちてしまうもの』とか、よく言われてることって、普通じゃない状態だよね」
「たぶんな」
「そんなんじゃ、どうかしちゃってるわね。どっちも」
「……たぶん、な」
田中はそれしか言えなかった。
「文学史的に言うと、『心中物』ってことになるのかしら」
「は?」
「聞いたことない? 近松門左衛門の『曽根崎心中』とか」
「近松……大昔のヤツか」
「江戸時代」
「記憶にねえよ、そんな昔のことは」
「生まれてないから?」
「そのとおりだ」
やがて各駅停車がガタゴト動き出すと、佐野はもう恋愛に関する話題は持ち出さなかった。
「この続きはまた『現代文学史』のときかなあ」
(続きがあんのかよ?)
田中はわずかに焦った。
「私、前回休んじゃったから、田中くんのノート見せてくれる?」
「オレのじゃ役に立たん気がするが、それでもかまわんのなら」
* * *
田中は佐野の連絡先を最新の電話機の横の壁にピンで留めた。
他にどうするべきなのか思いつかなかったからだ。
目の前にぶちまけた教科書やノートの類から、田中は「現代文学史」のノートを抜き出した。
前回、自分はまともにノートを取っていたのか気になったからだった。
確認してみると、半分以上寝ぼけたような字でいちおう6行分書いてあった。
新感覚派
横光利一
川端康成
意識の流れ
ジェイムズ・ジョイス
伊藤整
田中は日本での話なのに何故ジョイスという外国人が出てきているのか、もとい、どんな講義内容だったのか記憶がなかった。
(何もないよりはマシ、ってもんだ)
講義にきちんと出席しノートを取ったのだから「負け」ではない。
田中はそれでヨシということにした。
ついでに、他のページをざっとめくってみて、広瀬の電話番号は「現代文学史」のノートにはないと判断した。
(これはイカン、やってらんねえぞ)
田中は立ち上がるとキッチンで水道からコップに水を注ぎ、一気に飲んだ。
(広瀬には、明日もう一度教えてもらえばよかろう)
それが最も簡便で確実な名案だと田中は思った。
(恵子は、恵子には……)
シャワーの間も、トイレでも、歯磨きその他諸々の間でも、田中には何も思いつかなかった。
あとはもう眠るしかない。
夢の中で何か思いつくだろうか?
(もし何か思いついても、起きたら忘れちまうだろう……)
田中はベッドに横たわると、迷うことなく寝息を立てていた。




