III 6月(3)-15
「田中くんには他に誰か心当たりない?」
「ん、まあ、実は兄貴もいてな、三つ上に」
「いいじゃない!」
そう言った佐野の表情は、自分より年長の兄姉がいることを心底うらやましがっているように見えた。
「男同士でこういう話、したことってないの?」
(あの兄貴とこのオレが、恋愛について話す?)
ありえん。
田中は「これは真理だ」と直感した。
心の森の奥にある湖で魚がちょこっと動いた。
「ん? そう言えば、話が逸れるとは思うが」
「ナニナニ、なんか思い出した?」
佐野はかなり興味津々な様子だった。
「兄貴からもっと音楽を聴けと言われたことがあったな」
「それはどうして?」
「簡単に言うと、だ。オレが風呂場で何やらハナウタを歌っていたのを聴いて、あまりの酷さに愕然としたらしい」
佐野は遠慮なく笑った。
(広瀬もいつだって佐野くらい豪快に笑ってくれてもいいんだぞ)
田中はしみじみと思った。
「田中くん、歌は苦手なんだ」
「オレが音痴なのは認める。だがそこで終わりじゃなくてだな、兄貴が言うには、もっと歌詞を理解しろということらしい」
「あ、つまりラヴ・ソングだったからってこと?」
「そういうことになるんだろうが、オレはなんとなくハナウタにしていただけで意味なんて考えたことはねえからな」
「世の中にはたくさんの歌があるけれど、歌詞の意味なんてよく分かんないままカラオケで歌っちゃったりするよね」
(イヤ、オレはカラオケには絶対行かんぞ)
田中は頭の中で強く否定した。
かつて誘われたことがあっても頑なに拒否してきたのだ。
でもその事実を話すつもりはなかった。
「きっとさ、あとから聴き直してみて、やっと分かったりするもんだよね」
「かもしれんがな」
田中はそれっぽいことを答えておいた。
しかし、自分にそんなセンスがあるとは思えなかった。
「聴いてるようで、聴こえてないってことになるわね。これは私も不覚だわ。私なりにいろいろ聴いてきたつもりだったのに」
佐野は田中に「ありがとう」と言った。
田中は「は?」としか言えなかった。
「いいヒントになったから。歌詞の内容を聴き流さずに、セリフと同じようにじっくりと読んで、言葉にしてみなくちゃ、だわ」
(佐野はオレよりも音楽に詳しいだろうから、ちょっと悔しかったりするのだろうか?)
田中は佐野の様子からそう考えていた。
「ユーミンとかオフコースとか、歌詞カード見ながら手始めに聴き直した方がいいのかもね」
(佐野もユーミン好きなのか)
田中は思った。
矢野顕子師匠は出てこないのか?
田中は陽美を連想すると、さらに兄の言葉を思い出してしまった。
心の森の奥にある湖の水面で魚が跳ねたのだった。
* * *
「いいか正彦、女は大事だぞ」
「はあ」
「くれぐれも気をつけろよ、これは歴史的事実だ」
急に何を言ってんだか、と田中は思った。
兄貴なりの忠告のつもりなのか?
「この世界はだな、メスが主役なんだぞ。オスなんか単なるオマケみてえなもんだ」
田中は兄がなんの話をしたいのかよく分からなかった。
「生物の中にはな、メスだけで繁殖して子孫を残せるヤツらがけっこういるんだ。単為生殖っていうんだが、しかし、その逆はない。これだけでも分かるだろう、オスは多様性を得るためだけにあとから出てきたようなもんなんだ。それでも社会性のハチやアリ類みたいにだな、たくさんのオスが群れの中にいたとしても、女王と交尾できるのはたった一匹だけ、他の連中はただの野垂れ死にだぞ」
「兄貴は生物が専門だからいいとしてもだな、こっちはそんな専門的なことを言われても分からんのだが……」
「ひとことでまとめると、さっき言ったとおり、女は大事だってことだ」
「ホントにそうなんのかよ?」
「そう遠くない未来、男はいらなくなっていてもおかしくねえぞ」
「ほう、そんなもんかねえ?」
「『生きる目的とは何か』って、『生物』で習っただろうが?」
「習ったような気もするが……昼寝してたかもしれんな」
「イカンなそれは、非常にイカン。要するに、子孫を残すこと、つまり自分の遺伝子を残すことが目的なんだぞ」
「さっきより話が難しくなってる気がするのだが」
「繁殖して遺伝子を残す、それだけでいいならオスはいなくてもかまわんということだ。だがそのまんまだと万が一、未知の病気などの危機が起きたら全滅しちまうかもしれん。単為生殖はそのメスのコピーが増えるだけだからな。そこで多様性、つまり少しずつ異なる性質を持つ仲間がいたなら絶滅は防げる、そういう方向に生物は進化した」
「ちょっと待ってくれ、さらに難しくなってんじゃねえか」
「絶滅しちまう可能性を少しでも回避しなくてはならん、メスだけじゃあよろしくねえからとオスが出てきたわけだ。オスの存在意義がようやく認められたってこったな」
「よう分からんが、オレもオスの端くれとしては大きな意味があってほしいとは思うがな」
鷹雄は田中がそう言うと腕を組んで深々とうなずいていた。
果たしてどこまで真意が通じ合っていたのやら。
「それはそうと、正彦は……」
「なんだよ?」
「正彦は、今でも陽美と結婚する気があるのか?」
「なんだって?!」
「自分で言ったことを覚えてねえのかよ? 大丈夫だ、安心しろ。従姉なら生物学的にも問題はないとされているし……」
* * *
田中は心の森の奥にある湖の魚たちの活躍をそこで遮断した。
思いがけず心臓がドキドキしていた。
(ハ、ハルちゃんのことは、とにかく、今は忘れてだな)
田中は自分の記憶に動揺していた。
背筋に何故か汗が流れるのを感じた。
(兄貴は……あのとき女に振られたばかりだったのかね?)
田中は後先考えず兄について集中して考えた。
(昔から生きものが好きな兄貴だったが、自分も生きものだってことに突如気づいたとか、そんなところか)
「なんだか深刻そうな顔になってるけど、問題でもあった?」
田中は佐野の声で我に返った。
「兄貴に言われたことを思い出してただけだ、深刻なのかどうなのかは分からんが」
「私が聞いてもいい話?」
「かまわんから言うとだな」
田中はここで軽くひと呼吸入れた。
「女は大事だ、ってことだ」
「その意見は、おにいさんが男の視点から言ったってこと?」
「たぶんな」
「じゃあ、女の私から言えば、男が大事だってことになるのかしら?」
さあな、と田中は思ったが、口には出さなかった。
「あの兄貴だからそこまで考えてたか、怪しいもんだが、だいぶ熱心に語っていたな」
「何か気になるわね」
「そうか?」
「おにいさんがかわいい弟のためにアドヴァイスしてくれたのよ、重要だと思って」
(全然そんな気がしないのは何故だ?)
田中はそう思った。
「愛だの恋だのって言っても、結局は繁殖のためだから、悩んでどうなることでもないって意味かしら?」
「オレには分からん」
「でもさ。子孫が残らないと滅びちゃうのよね、人間だって生物で、いつかは死んじゃうんだから」
「まあそうなるが」
「それで人間の三大欲求の中に『性欲』もあると考えるわけかあ、ふうん、なるほどねえ」
佐野は何かを理解したようだが、田中には漢字が出てくることなく「サンダイヨッキュー」と聞こえてしまったので、この件に深入りするのはやめておいた。




