III 6月(3)-16
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いつからか、店内にいる客は佐野と田中だけになっていた。
一段落したからか、ヒゲさんがわざわざこちらの席まで水をつぎに来てくれた。
ちょうどよかった、と佐野は言うと、ヒゲさんにトラジャのおかわりを頼んだ。
承知しました、とヒゲさんが言った。
「BGM、今はジャズじゃないんですね」
佐野が言うと、ヒゲさんが応えた。
「ええ、今かかってるレコードは主に1970年代に活躍した10CCってバンドのもので、ついさっきまでカウンターにいらした常連さんのリクエストなんですよ」
「でも私たちが来たときに流れてたのは、もしかしたら、『ナイト・アンド・デイ』じゃなかったですか? 誰の演奏かは分かりませんでしたけど」
「おや、気づいてくれましたか。嬉しいなあ」
田中にはヒゲさんの表情がずいぶん柔らかく見えた。
「おっしゃるとおり、曲は『ナイト・アンド・デイ』でジョージ・シアリングの古い演奏でした」
「なんか鉄琴、じゃなくて大きい方の楽器……」
「ああ、ヴィブラフォンですね、入ってましたよ」
「よかったあ、聞き間違いじゃなくて」
田中には佐野の表情もずいぶん柔らかく見えてきた。
おとなしくしていようと田中は思った。
「でも残念。ジョージ・シアリングって、名前だけしか知らないです」
「白人で盲目のピアニストなんですけどね、割と好みなのでときどき聴きたくなるんですよ」
「私、ヒゲさんはジャズしかお店では流さないんだなって思ってました」
「いえ、特にジャズにこだわってるわけじゃないんですよ。適当に、その日の気分で流してるので。リクエストをいただければできる範囲で応えますし」
「ココでロックを聴くのは私、初めてですよ」
「そうですか、それはなんだか不思議だなあ」
「やっぱり世界は不思議ですよね」
(なんでもその方向にしたがるな、佐野)
田中は黙って心の内で突っ込んだ。
「ヒゲさんは私にジャズの面白さを教えてくれた恩人なんだよ」
突然、佐野が田中に向かって言った。
油断していた田中はたじろいだ。
田中が何か言おうとする前に、ヒゲさんが自分の頭のうしろに右手をやりながら言葉をつないだ。
「それはおおげさじゃないかなあ」
「そんなことないです。マイルズ・デイヴィスの『カインド・オブ・ブルー』がどんなにものすごいアルバムなのか、聴きながら解説していただけて、とても納得できたし」
流れている曲が変わっていたのが田中にも分かった。
歌が「ライフ・イズ・ア・ミネストローネ」と聴こえる。
佐野が咄嗟に「人生は野菜スープ」とつぶやいた。
「ええ、それがこの曲の日本語タイトルです」
すかさずヒゲさんが応えると、何か思いついたようにカウンターへと戻った。
ほどなくこちらの席に帰ってくると、にこやかにアルバム・ジャケットを佐野に差し出した。
「アルバムのタイトルは『オリジナル・サウンド・トラック』です」
ヒゲさんは言った。
「実際は何かのサントラではなくて、架空の映画のサントラを作るというコンセプトだったそうです」
「『人生は野菜スープ』、って片岡義男の本、角川文庫でありますよね」
(なんだって)
田中は曲も本も内容は未知であるが、会話に参加できる可能性をわずかに感じた。
佐野の発言が続いた。
「本屋さんの棚に、赤い背表紙に白い文字でずらっと並んでて」
「そうですね、基本のデザインは統一されてるし作品数が多いから書店だと目に付きやすいですね」
「そっか、こういう曲だったのかあ……」
ご機嫌な感じの佐野が、体でリズムを取りつつ、サビのフレーズである「ライフ・イズ・ア・ミネストローネ」を曲に合わせて口ずさんでいる。
「このアルバムはバンドの代表作でしょうし、大ヒットした『アイム・ノット・イン・ラヴ』が収録されてるから、幸美さんもその曲ならご存知じゃないですか?」
「私あんまり洋楽は知らないんですけど、聴いてみれば分かるかなあ?」
「だったら、この曲が終わったらレコードをひっくり返してかけてみましょうか?」
「お願いします」
「リクエスト、ありがとうございます」
ヒゲさんの自然な笑顔が見えた。
佐野はアルバム・ジャケットを返却した。
田中は話題に混ざろうとは思わなかった。
片岡義男は杉山から借りて一冊だけ読んだことはあるが、そもそも自分には場違いな気がしていた。
(もっと音楽を聴け、ってのは、こんな場面も含まれてるのかよ、兄貴)
田中は鷹雄に言われたことを思い出した。
心の森の奥にある湖の魚は冴えていた。
「片岡義男の作品はよく音楽ネタを採り上げてますよね」
ヒゲさんのその声で田中は思いがけず質問していた。
「そうなんですか?」
「例えば『コーヒーもう一杯』という作品がありまして、これはボブ・ディランの曲の日本語タイトルなんですよ」
(ボブ・ディランって、誰だ?)
田中は返事ができなかった。
「さすがヒゲさん」
依然としてリズムを取りながら佐野が言った。
その直後はレコードに合わせて、ミネミネミネミネストローネ、と口ずさんでいる。
田中は自分にとって唯一のネタを出すことにした。
「片岡義男って……『湾岸道路』の」
「ええ、割と最近映画になった長編ですね」
ヒゲさんが応えてくれると、佐野が続いた。
「田中くん、読んだことあるの?」
「お、おお、まあな」
「ホント! 正直、意外だわ」
「バイクが好きなもんでな」
「そうなんだ」
そのことを知ってる友人が貸してくれて、と続けるつもりだった田中を佐野が制してしまった。
「けっこう厚みがある本ですけど、サラサラ読めるんですよね、片岡義男って。そうじゃありませんでしたか、田中さんは?」
「は?」
田中はヒゲさんに不意を突かれて焦ったが、素直に答えた。
「……まあ、そんな感じで一気に読んでました」
「ハーレーを乗りこなす、男と女の……あの空気感みたいなものが片岡ワールドなのかなあって、僕は思ってます」
「ヒゲさん、片岡義男作品が好きなんですか?」
佐野が興味津々な様子で訊いた。
「ええ、10冊以上は読んでますね。短い空き時間でも読みやすいので」
「それじゃ私も読まなくちゃなあ。田中くんも読んでるんだし」
「恋愛小説が多いからいいと思いますよ、幸美さんにも」
(恋愛小説なのか、あれって)
田中は口に出さなかった。
そう言えば杉山に「まだ早かったんかな」と言われたような気がする。
今になって思わぬタイミングで杉山の言葉の意味に気がついた。
(しかし、オレには関係ない気がするのだが)
てことはだな、オレに相談するよりも片岡義男の本を読んでみる方がよっぽどいいんじゃねえか?
そう思いつつも、田中はやはり言葉にはしなかった。
ヒゲさんが佐野のリクエストに応えるために店の奥でLPレコードを裏返している様子がちらっと見えた。




