III 6月(3)-5
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名簿を読み上げる形式で出欠を取られた1限は、どうにか起きていた田中だったが、体の調子は昨日よりよくなかった。
「なんだかまだ眠そうだね」
次の教室へ移動しながら広瀬が言った。
「眠いっていうかだな、体がだるい感じだ」
田中はそう答えると、手ぶらである右側の肩を前後に回してみた。
「桐山さんと何か積もった話でもあるの?」
「しっかり聞こえていたか、やはり」
笑いたくもなるはずだと田中は思った。
「昨日バイト先へヤツらが、じゃねえや、桐山と恵子が来てな」
「へえ、それは面白そうだね」
広瀬は興味津々といった様子に見えた。
「たぶんそのバイトのことだぞ、桐山が言ってんのは。面白くもなんともねえよ」
「田中はモテるよね、やっぱり」
「はあ?」
「女の人に素早いって言った方がいい?」
「広瀬、うるさい」
「頼りにされてるねえ、田中」
「オレは広瀬だけが頼りなのだが」
「何をまたおかしなことを。ぼくよりもまず小野さんだよね」
「は?」
「ルーズ・リーフ、あれだけの量を手書きするのはかなり大変だとぼくは思うけどな」
田中はぐうの音も出なかった。
ずいぶん時間がかかったに違いないのは田中にもよく分かっていた。
(広瀬よりも、オレは恵子に世話になってんのか)
田中は次第にそんな気がしてきた。
「バイト先でも男の人より女の人との方が仲がいいんじゃない?」
「そんなわけねえだろうが」
そう返してはみたものの、昨日バイトを上がるとき女性社員さんがわざわざまた従業員控室まで来てくれて、田中はとても感謝されたのだった。
── ありがとう、田中くん。帰り、気をつけてね。
そんなことを言われるとは思ってなかったので、田中は恐縮してしまった。
(だがこれで仲がいいとか悪いとか言えるわけじゃねえぞ)
田中とすれば、バイト先の同僚が男だろうが女だろうが、ただ普通に働いているだけのことだった。
「田中が気がつかないだけで、見てる人は案外いるもんだと思うけどなあ、ぼくは」
「オレは目立つようなことはしとらんのだが」
「自分ではそう思ってるんだ、田中は」
「オレより土井の方がよっぽど目立ってんじゃねえか?」
「それは土井のいる席がほぼ最前列の右隅だから、という意味だけだよね」
「普通あんなところに座りたがるヤツなんかいねえだろうよ」
「それはそうかもしれないけど、目立つかと言われると、どうだろうね」
「は? そうは思わんのか、広瀬は」
「まあ、そういうこと」
田中には広瀬がどことなく楽しそうに見えた。
田中自身は楽しくなるようなことなんてなかったので、どうして広瀬が楽しそうなのか分からなかった。
そうこうしているうちに、田中と広瀬はおなじみの213教室に着いた。
田中は広瀬に自分の前の席に座ってくれるようお願いして、窓側から3列目でうしろから三つ目の机の席を選んだ。
間もなく田中は恵子と桐山に挟まれた形になった。
その他の四人は恵子と桐山の前後に席を取っていた。
「広瀬くんの陰で寝ようとしてるな」
田中の右隣にいる桐山が言った。
「ほっとけ」
田中は応えた。
「昨日のバイト中のしっかりした働き者と同一人物なんよね?」
「さあな」
田中の周辺から小さな笑い声が起こった。
田中は桐山が「しっかりした働き者」と言ったことに焦った。
講義開始時刻寸前に、土井が前方の入口から静かに現れ例の席に座った。
教室はいつものようにざわめいていたので、土井の登場は密かなものであった。
田中の周辺でも六人たちは何事かしゃべっていたが土井には気づいてないようだ。
広瀬は土井が来たことにすぐに気づいたらしく、少しだけ振り向くと田中に小声で「そんなに目立たないでしょ」と言った。
田中は教卓の目の前の席にいるヒデカズへ視線を移した。
(どっちかっちゅうと、ヒデカズの方がすげえか)
ヒデカズとは昼休みに約束がある。
田中は忘れていなかった。
この教室に移動してきてからも何度かちらちらとヒデカズがこちらをうかがっていたが、理由はそれだろう。
田中はそう思っていた。
「でさ、昨日の話の続きなんだけど」
桐山があらためて田中に話しかけてきた。
「あたし、あそこで働けそうだと思う?」
「バイトの件なら、店の入口に貼ってあったのに気がつかんかったか?」
田中は答えた。
「何か貼ってあったのは分かったけど、ざっとしか見なかった。詳しいことは直接本人に訊けばいいから」
「本人?」
「そう、あそこでバイト中の本人」
「そいつは、オレのことか?」
「今の私には君しかいないわ」
広瀬の背中が細かく震えていた。
別にこらえなくてもいいのにと田中は思った。
「あのなあ、履歴書持って出直して行けば、割とすぐに入れるんじゃねえか。ちょうど人手不足なんでな」
「ナイス! やっぱり君しかいなかったわ」
「は?」
「そういう話を聞きたかったのよ」
桐山は勢いよく田中の右肩を平手で叩いた。
「そ、そうか、そりゃよかったな」
桐山の平手は意外と田中の肩に響いていた。
「じゃあさ、明日履歴書持って行ったら、あたしでもすぐ雇ってもらえんのかしら?」
「オレが決めるんじゃねえから断言はできんが、店長が人手不足で困ってるのは間違いないぞ」
「いいこと聞いちゃった!」
桐山はニヤリとした表情になった。
「恵子に相談してみて正解だった。ね、恵子」
桐山は田中の左の席にいる恵子に向かって言った。
「キリちゃんなら大丈夫」
恵子がにこやかに応えた。
(オレを挟んで会話するのはやめてもらいたいのだが)
「あそこのファミレスは実家の近所で昔からよく知ってんのね、あたし」
桐山の話は田中へ戻ってきた。
「さすがに近頃家族で行くことはなくなったけど、八人家族だし」
(八人か、それはにぎやかでけっこうだな)
田中は自分の家族と陽美の家族とで似たようなことがあったなと連想した。
「昔はよく行ってたんだ、開店当時から。でも何年も行ってなかったし、いつの間にか改装してたし、知った顔の店員さんはもういないだろうしって、思ってたんよ」
「ほう」
相槌を打ったものの、田中は桐山の話を真面目に聞いてはいなかった。
肝心なことはもう伝えたからよかろうと思っていた。
(むしろオレは昔の店のことなんか知らねえし、改装したのだって分かってねえからな)
「頼りにしてるぞ、マアくん」
「だからその呼び方はだな」
田中がそう言いかけたときに、前方の入口から原田先生が登場した。
教室内のざわめきはわずかに静まってきた。
「今日はまず出欠を取りますね。用紙を回しますから記名して次の人へどんどん渡して、最後の人は私まで戻してくださいね」
原田先生はそう言うと、クリップボードごとその用紙を最前列右隅の土井に渡した。
教室内のざわめきは元に戻ろうとしていた。
(記名の先頭は土井になんのか)
広瀬が少しだけ振り向くと、田中に小声で「ね、そんなに目立たないでしょ」と再度言った。




