III 6月(3)-4
よく見ると、キリちゃんと呼ばれる女の隣、イコール広瀬の前の席の女も見覚えがある。
もしやと思いうしろを向くと、広瀬のうしろの席の女にも見覚えがある。
おそらく島田のはずだ。
てことは、つまり……。
田中は自分のうしろの席でソワソワした様子の恵子と目が合った。
「田中くん、大丈夫、かな?」
恵子はそう言うと、机の上に出してあったノートの下からルーズ・リーフを何枚か取り出した。
「欠席中のノート、とっておいたから。どうぞ」
「なんだって」
田中は不意打ちにあったような気分でついそう言ってしまった。
さすがにこれではよくないと思い、間髪入れずに言葉をつないだ。
「すごく助かる、サンキューな」
田中がそう言うと恵子は笑顔を浮かべた。
田中は実のところ広瀬にノートを借りて、欠席した分はコピーしようと考えていたのであった。
明らかに恵子は田中に気を遣い心配してくれていたのだ。
受け取ったルーズ・リーフには、田中の字よりも小さめで丁寧な丸い感じの文字が並んでいた。
なんだか恵子らしいなと田中は感じた。
「いいなあ、マアくん」
恵子の隣でそう言って笑っているのは島田……イヤ、佐藤がこいつだったろうか?
広瀬はまた「くくく」と笑った。
田中は自分が広瀬と、恵子のいる六人組の仲間に囲まれていると気がついた。
「広瀬」
「なんだい田中」
「こりゃあ、どうなってんだ?」
「どうって、何が?」
「広瀬は普段こんなところに席をとらんだろうが」
「でも別に席順は決まってないよね」
「そりゃそうだが」
やられた、と田中は思った。
教室にあとから入ってくるものから見れば、いちばんのりだった田中は充分目についたのであった。
「あたしたちまでマアくんの周りにいるから驚いた?」
田中の前の席にいるキリちゃんと呼ばれる女はそう言うと、田中を見つめて楽しそうにふふっと笑った。
「教室に来てみたらマアくんがぐったりしてたから、マアくんが昼寝してても大丈夫なように囲んで座ってみたんよ。広瀬くんも捕まえて」
「ぼくは呼ばれたついでに気分を変えていつもと違う場所にしてみたってわけ」
広瀬が言った。
そういうことか、と田中は教えてもらって現状を把握したものの、佐藤と島田、そして恵子を除く他の三人の苗字はいまだに覚えていなかった。
広瀬に確認したいところだが、当人たちを目の前に訊くのはさすがにまずかろうと田中は思った。
そして同時に無意識に顔をしかめていた。
その様子を察したのか、広瀬は助け舟になるひとことを出した。
「ぼくはともかく、田中は桐山さんにタジタジだね」
(キリヤマ、っつうのか、この女は)
恵子にキリちゃんと呼ばれた女の苗字が分かった。
(キリヤマだからキリちゃんか、ほう)
そのまんまだな、と田中は思った。
(キリヤマなんて知り合いはオレにはいないが、ウルトラ警備隊の隊長くらいじゃねえか)
「桐山さんの隣に倉田さんがいるし、田中のうしろには小野さんと島田さんがいるし」
広瀬は言った。
田中はここで島田と佐藤を間違って逆に記憶しかけていたことに気づくと、思わず「危ねぇっ」と言いそうになった。
(人の名前と顔を覚えるのはどうもな、やらかさずにすんでよかった)
田中は広瀬に感謝の念を送ってみた。
「白浜さんと佐藤さんは窓際の方にいるけど、もしかしてみんなそばにいてほしかった?」
「は?」
広瀬は気を利かせてくれたのか、六人組全員の苗字を口にした。
おかげで田中でもなんとなく六人の顔と苗字が一致してきた。
(広瀬、何度もサンキューな)
田中は心の中で感謝し続けた。
広瀬への評価は今日も上がるばかりだった。
「恵子は、いいの?」
桐山は振り向いたままの田中の背中越しに恵子へ話しかけた。
「えっと、なんのことかな?」
「マアくんに言いたいことがたくさんあるんじゃない?」
「桐山」
「おや、マアくんが初めて私に声をかけてくれたわ」
田中は引き続き顔をしかめていた。
「で、何かなあ、マアくん?」
「とにかくだな、まずその呼び方はやめてくれ」
「なんで?」
「背中がムズムズするような気になっちまうんだ」
田中はつい正直に答えてしまった。
「あたしはマアくんていう呼び方は親しげでいいと思うけど?」
「オイ、ちょっと待て」
「待てと言われてもなあ。だって4年生の先輩から教えてもらったわけだし」
田中はがっくりした。
「マアくんの従姉なんだよね、聞いたよ」
田中は左手で両目を覆っていた。
(ハルちゃんか……それに従姉というのは広瀬が話したな)
広瀬は両手で自分の口元を押さえて声をたてまいとしていたが、「くくく」という声がわずかに聞こえてきた。
(冷たいヤツらめ)
田中は思った。
仕方なく左手を顔から話すと、田中は教室の中央の列のいちばん前の席からこちらを見ているヒデカズに気がついた。
ヒデカズは頼りなさそうな笑顔で頭を軽く下げた。
(また頭なんか下げやがって)
田中はあとでヒデカズに忠告せねばなるまいと思った。
「ちなみに土井はいないよ」
タイミングを見計らったかのように広瀬が言った。
「ここしばらく三人揃ったことがないね、学食でも」
(さすがは広瀬だな)
田中は広瀬が「くくく」と笑っていたことはさておき、また評価を上げた。
土井がいないのはある程度予想できたが、いてくれなくてよかったと田中は思うのだった。
続いて桐山が再び声をかけてきた。
「実はね、あたしにとっての『田中くん』は、付属からの友人でパンキョーで一緒になったりして今もつきあいがある、その人のことなんだ。だからあたしはマアくんを田中くんとは呼べないんよ。でも『マアくん』と呼ばれるのがイヤなら、なんか別の呼び方を考えてあげよう」
これは田中にとって意外な朗報というべきことかもしれなかった。
「そうか、手間を取らせちまって悪いが、なるべく無難な呼び方を考えてくれると助かる」
「まあ、せいぜい考えてみるけど、期待はしないでおくれ」
「お、おお」
「でさあ、昨日の話の続き……」
ここで大教室の前方の入口からスーツを着込んだ先生がやってきた。
月曜日の1限は「ドイツ語I」であった。
「いいとこだったのに。Bis später」
桐山は田中にそう言うと、細い黒縁の眼鏡越しに何故か右目でウインクしてから、再び前に向き直った。
(なんなんだ、オイ)
田中は広瀬が顔を左へ向けて笑いをこらえているのがはっきりと分かった。
「またあとで、だって。キリちゃん」
恵子の小声による翻訳が田中に聞こえた。




