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Desafinado(調子はずれ)  作者: カワヤマソラヒト
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III 6月(2)-2


      *


 覚悟を決めて陽美の番号を押した田中の脳裏に、コール音が響いていた。

 耳から聞こえているのに頭の中でのように感じているのは不安のなせる仕業だった。


(せめて多少なりともハルちゃんのいかりが冷めてればいいのだが)


 5回目のコール音の途中で、回線のつながる音が田中の脳裏に響いた。


── やっと、ですな、マアくん。

「は?」


 いきなり名前を呼ばれた田中はびっくりしたのだが、それより陽美の言葉があまりにも意外すぎて間の抜けた反応をしてしまった。


「な、なんでオレだと分かったんだ」

── ふっふっふ……。


 陽美の押し殺したような声が田中の脳裏に響いた。


(ヤバイ展開だぞ)


 田中は素早く気を取り直した。


── 私の部屋にある電話はだね、マアくん。

「はあ」

── かかってきたのがどの番号からなのか分かるのだよ。

「ほう」


 世の中には便利なものがどんどん増えていくのだ、と田中は思った。


── それはまあヨシとしてだね、マアくん。

「は?」

── 聞いたところによると、ずいぶん学校をサボったようね。

「ん?」


 陽美の口調が平然としたものに変わったので、田中は警戒した。


「ちょっと待て。なんでハルちゃんがそんなこと知ってんだよ?」

── ふっふっふ……。

(またその笑い方かよ、ハルちゃん)


 田中は陽美の口調の変化に戸惑った。


(……だが、この感じなら機嫌はさほど悪くないのかもしれん)

── 私が誇る人脈を甘く見てもらってはイカンのですよ、マアくんといえども。

(知らねえ)


 甘く見るも何も、田中が陽美の人脈を知っているはずはなかった。


── 元はと言えばマアくんがちっとも連絡をくれないのが悪いのヨッ。

「お、おお、それはスマン。オレが100%悪かった。謝る」


 田中は回線の向こうにいる陽美に向かって頭を下げた。


── 素直に反省するのはよろしい。


 田中には陽美のそのひとことが「仕方ないなあ」と言ったかのように聞こえた。


(この分なら怒りをまともに喰らわなくてもすむかもしれん)


 田中は多少落ち着いた。


── こうして電話をかけてくれたということは、なかなか素晴らしいタイミングで手紙が届いたようですな。

(どんなタイミングがいいのかオレには分からんのだが)

── おねえさんとしてはバッチリ狙いどおりで嬉しいわ。

「狙いどおりだって?」


 田中はイヤな予感がした。

 陽美はどうやら物騒なことを企んでいるに違いない。

 経験的に田中はそう判断できた。

 多少の落ち着きは一瞬で吹っ飛んでしまった。


── おっと、いけない。ちょっと待ってねマアくん。


 陽美の声が受話器から遠ざかり、ごそごそしているような音が聞こえた。

 陽美は受話器をどこかに置いたのかもしれない。

 田中はそう思った。


── んー、やっぱりきついなあ。


 受話器から離れている分聞こえにくくなってるとはいえ、陽美の声は田中にはっきり届いた。


── 今はまあ、いいか。

(何やってんだ、ハルちゃんは?)


 再びごそごそしているような音がすると、陽美の次の声は田中の耳のすぐ近くに聞こえた。


── ごめん、お待たせ。

「イヤ、別にかまわんのだが」


 こんな短時間待つぐらいでは借りを返すことにはちっともならない。

 どんなに待たされても今回は文句を言えるはずもない。

 田中はそう考えていた。


── ついさっきまでシャワー浴びててね。

「は?」

── 着替えてる途中でマアくんから電話が……。


 陽美の言葉で田中はがっくりしてしまった。


「それを先に言ってくれ」

── 髪にはタオルを巻いたから平気だけど。

「そんだけじゃマズイだろうが」


 田中は左手で両目を覆いながら言った。


「しばらくあとでかけ直す。約束する。だからちゃんと服を着て落ち着いてくれよ」

── それがだね、そうもいかないみたいなのですよ。

「なんでだよ?」

── どうもね、最近ブラがきつくなっちゃって。

「はあ?」


 田中の左手は両目から離れたが、それに代わるように本格的なしかめっ面が田中の表情を支配した。


── 太ったんじゃないんだけどねえ。体重は変わってないし、少し減ったくらいなのに。

「オイ、説明はイランから早いとこ着替えてくれ」

── お。マアくんやっさしい~。

「なんじゃそりゃ」

── でもノーブラってわけにはいかないでしょう?

(知るかよ)

── もうEだと無理なのかなあ、Fにしないと。

(知らねえって)


 田中はどう返事をしていいのか分からなかった。


(だいたいEでもFでもそれがどうしたってんだ? オレにはさっぱりだぞ、ハルちゃん)


 田中の気持ちを知ってか知らずか、陽美の声はさらに畳みかけるように続いた。


── マアくん、あとでチェックしてくれないかな? 自分だとよく分からなくて。

「何をだよ?」

── サイズ。

「サイズ?」

── ブラの。

「はあ? 何言ってんだよハルちゃん。オレにそんなの分かりっこねえだろが」

── そうかな? 単に見た目の問題よ。

「見た目? なら鏡を見ればいいじゃんか。ハルちゃんの部屋ならデッカイのがあるだろうが」

── それがだね、マアくん。鏡は真実を映すとは限らないのだよ。

「なんだって」

── 今の私のセリフ、けっこう上出来じゃなかった?


 田中はまたしても左手で両目を覆うことになった。


── ……マアくんが返事してくれない。


 田中はひとつため息をついてから言った。


「なんの話だよ」

── つまりだね、マアくん。

「はあ」

── 鏡に映ったものだと、本当のことは決して分からないのです。

「はあ」

── じかに自分の目で見ることが大切なのです。

「はあ」

── 現実を直視するってことね。

「ほう……」


 田中は自分が間抜けな相槌を続けていることに飽きてきた。

 しかし、他に言うことが浮かばないのだった。


── マアくんも知ってのとおり、自分の体でもうまく見られないところはいくつもあるのだ。

「はあ」

── 頭のてっぺんからだね、下っていくと、うなじ、背中、腰、さらにです。

「ハルちゃん、うるさい」

── おやおや、冷たい反応。マアくんが「はあ」なんて生返事するからいちおう丁寧に説明した方がいいのかなと思ったのに。


 田中は両目から左手を離した。

 自分の頭が陽美の言葉に支配されたかのように、具体的なイメージをしてしまう。

 視界を閉ざしているとなおさら危険を感じた。

 からかわれているのではないかという気も少しはした。

 それでも経験上、陽美自身にはなんの悪気もないはずだと田中は信じていた。

 昔からずっと、今もそのままであった。


(とにかく話題を変えねばイカン)


 田中は思った。


「鏡の話は分かった。分かったから元の話に戻ってくれ」

── 元の話って、なんだっけ?

「オイオイオイ、ハルちゃんが自分で言いだしたんだぞ」

── さすがはマアくん、おとぼけさんぶりでは私はかなわない、か。

「なんじゃそりゃ」

── つまり、です。

「はあ」

── ここはひとつ信頼できるマアくんにチェックしてもらって、率直な意見を聞きたいのです。

「は?」

── マアくんなら、ブラのひとつやふたつはどうってことないよね。慣れてるでしょう?

「あのなあ」

── あれ? おねえさん、フライングだったかしら。マアくんは経験豊富のはずだと思ってるけど。


(そりゃあねえだろう、ハルちゃん)


 ここはきちんと言っとかなくてはイカン。

 ひとつ咳払いをしてから田中は言った。


「仮にだぞ。仮にオレが見たとしてもだな、チェックなんかになりっこねえだろが」

── 経験を積み上げたマアくんのセンスを信用してるのに。

(経験ってのは、なんのだよ……)


 田中は反論しようと思ったが、うまくできそうにないのでよしておくことにした。


「だいたい、なんでチェックが必要なんだよ。誰かに見せる予定でもあんのかよ?」


 田中は自分の声に驚いた。

 無意識に飛び出した言葉だった。


(「誰かに見せる予定」だと? 何を言ってんだオレは)

── おお、さすがマアくん、いいヒントをくれたわ。

(どこがどういいのやら)

── そうよね。見せる予定なんてマアくん以外にはないわ。

(何を言ってんだか……)


 田中は声に出さなかった。

 代わりに左手が自動的に両目へと戻っていた。


── だから、無理してつけなくてもいいのだ。

「ん?」

── マアくんになら今さら何を見られても平気だし。

「オイオイオイ、何を企んでんだよハルちゃんは?」


 田中のイヤな予感は現実味を帯びてきた。


── だって、いったい何度一緒にお風呂に入ったか、数え切れないくらいでしょう?

(どうしてそんな話になるんだ?)

── あとでサトミンも一緒に入るようになったけど、あのお風呂によく三人で入れたものよね。

(ハルちゃん、思い出して楽しそうなのはいいのだが、話題を変えてくれ)

── 最後に一緒に入ったのって、確か、私が6年生の頃だったかなあ。

「オイ」

── それっきり、いくら呼んでもマアくんは来てくれなくなっちゃってさあ。

「ちょっと待ってくれ。オレは覚えとらんのだが、本当にハルちゃんが6年だった頃までなのか?」


 田中はふと考えた。

 ハルちゃんが6年ということは、自分は3年だったはずだ。

 3年ということは、オレは9歳だ。

 ぎりぎりセーフということになんのか?

 だが待てよ。

 6年の頃のハルちゃんは、既に……。


「うわっ、ダメじゃんか」


 思わず田中はそう言った。


── あれ? どうかした? 何がダメなの、マアくん。

(よくもまあ普通にしてられんなあ。それともオレは意識しすぎなのか?)


 疑問に感じた田中だったが、この疑問を陽美に言うわけにはいかない。


(ここはどうにか違う話に持っていかんことには危なくってしょうがねえぞ)

── マアくん、黙っちゃった。


 田中は真剣に考えていた。

 陽美のその声は耳に入ってこなかった。


(そうだ、うっかりハルちゃんに乗せられちまったが大丈夫なのか?)


 真面目かつ強い口調で、田中は陽美へ言った。


「いいかハルちゃん、30分くらい経ったらまた電話すっから、ちゃんと着替えとけよ」

── おや、そう言えば私まだつけてな……。

「じゃあ切るぞ」

── えっ? マアくんちょっと待っ。


 陽美はたぶん「待って」と言ったのだろう。

 田中は問答無用で受話器を置くと、そう思った。


(風邪なんかひかれたらオレの立場がねえだろうが)


 田中はベッドに身を投げ出すように仰向けに寝転がった。

 声にならないため息が漏れた。


「……ん? なんかヘンだぞ」


 田中は気がついた。

 陽美が電話をかけるようにと手紙に書いてきたのは何故なのか?


(ブラやら風呂の話をしたかったんじゃねえだろうが、ハルちゃん)


 田中は身を起こした。

 水を飲もうと思った。

 相槌ばかりだったが喉は渇いていた。


(それに、だ)


 コップ1杯では物足りず、田中は2杯目を飲んだ。


(オレがサボったってえのをどっから聞いたんだか)


 からになったコップを持ったまま田中は何故か約15度ほどの角度で上を見た。


(次は、真っ先にその辺を訊かなくてはイカン)


 田中に見えているのは部屋の天井だったが、頭の中はそうではなかった。


(ハルちゃんのペースに乗せられてはイカンのだ)


 田中正彦は無意識に顔をしかめながら決意した。


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