III 6月(2)-1
田中正彦は結局、大切な必修科目一式を3週連続で欠席してしまった。
大事を取ったことで体調はすっかりよくなり、バイトに穴をあけることはなかった。
とはいえ、5月の件は反省し、6月だけでなく7月のシフトも店長に頼んで緩めにしてもらった。
「田中くんにはずいぶん頑張ってもらっているから助かってるけど、無理をさせちゃったみたいだね」
店長は田中に申し訳なく思っているように見えた。
「もう何人かアルバイトに来てもらえるといいのかもしれないな」
田中がこの間見てきたところでは、店の客の入りは申し分なく、バイト中に暇を感じることは皆無だった。
それだけに疲れが溜まったと考えるのは決して不自然ではない。
「本部に連絡してアルバイトの募集は引き続き雑誌に載せるようにする。店の入口に貼った募集の掲示は剥がさない。ただね」
店長は自分の後頭部に右手を当て、依然として申し訳なさそうに田中に言った。
「新人が入ってきたらまた面倒を見てくれないかな」
いつ新入りが来るかはっきりしているわけではないが、田中は5月中に数人の面倒をみていた。
店長は頼りなさそうに見えたりするが採用された新人は今では優秀だ。
慌てておかしな人材を採用する店長とは思えない。
同僚である正社員の人たちに比べると、田中は店長を高く評価していた。
なるほど店長になるだけのことはある、と感じていたのだ。
だから田中は深く考えることもなく店長の提案を受けあった。
難なくこなせるだろうと思ったのだ。
(問題があるとすればシフトとの兼ね合いだが、オレがいないときには店長がどうにかしてくれる)
田中は安心してしばらくの間は緩やかなペースを守ることにした。
* * *
アルバイトについては自分の考えたとおりにコトを進められた田中は、久しぶりにのんびりとした週末を自室で過ごしていた。
必修は合わせる顔がなくずいぶんサボってしまったが一般教養科目は半分以上出席できたので、学校のことは気にならなかった。
(「現代文学史」で佐野と出くわさずにすんだしな)
むしろ自分にしては上出来だったと判断し勝利を手にした気分だった。
女難に神経を擦り減らすことがなかったからだ。
(必修には出にくくなっちまったからどれも3回ばかり欠席したが、トータルすりゃあ土井よりマシだしな)
モノラルのラジカセでAM放送を低めのヴォリュームで流しながら、田中はベッドに転がって伸びをした。
(来週から気合を入れ直して頑張ればヨシ、だ)
まずまずの気分でいた田中は、ラジオからなんとなく聞こえてくる音楽のタイトルがひとつも分からなくても全然気にしなかった。
日本語の曲かどうかは理解できたのでそれで充分だった。
厳密には英語もそれ以外の外国語も考えないようにしていたのである。
寝転がったまま両手を頭の下で組んでいた田中の耳に、コトンという音が聞こえた。
玄関のドアについている郵便受けに何かが入れられたに違いなかった。
田中は耳が悪いのではない。
単に音楽には関心が低いだけだった。
腹筋に力を入れて上半身を起こすと、田中は動きを止めることなく玄関に向かい郵便受けから封筒を取り出した。
「うわっ」
田中は驚いて声を漏らした。
シンプルな白地の封筒に横書きされた文字は、田中がよく知っている筆跡だった。
「マッジい……うっかりしてた。やっちまったぞ、こりゃ」
さっきまで微笑みに近かった田中の表情は無意識にしかめっ面へと変わっていた。
誰かに見られていたとしたらずいぶん深刻そうに思われたことだろう。
(問題は、中の紙に何が書かれてるかってこった)
田中はひと呼吸置いてから、ひと思いに開封した。
封筒の切り口は破かれて散々なことになってしまった。
中から取り出した紙は三折にされた高級感がある便箋だった。
封筒と同様にシンプルな白地で罫線は横書きだ。
田中は三折の便箋を手にしたまま目をつむった。
どんな文句が並んでいても仕方ない。
覚悟して目を開けると便箋に視線を落とした。
ところが、田中の目に映っていたのは文字ではなかった。
(地図、だよな)
鉛筆でさっさと書いたと思われる太めの線は乱雑に手書きされたようだ。
ひとつの線に何本も短い横線が入っているのは鉄道の路線だろう。
その途中にあるラフな長方形は駅と考えるべきだ。
田中はそう思った。
(しかしだな、こりゃあどこなんだ?)
田中が眉をひそめながら手書きの地図を見ていると、指先に思わぬ感覚があった。
(ん? 一枚だけかと思ったら二枚目があるじゃんか)
高級感がある便箋は厚みがあるので、田中は二枚重なっているとは気づかなかったのだった。
しかも二枚ぴたりと重なってくっついた状態であり、折られてなかったら気づくことはなかったかもしれない。
田中は二枚目の便箋に小さな文字がちょっとだけ並んでいるのを見つけた。
罫線のある場所ではなく、便箋の最下端で一行になっている。
(この書き方は機嫌が悪いときのヤツだぞ)
田中の心の森の奥にある湖で、実家のテーブルにときどき置かれていた伝言メモの記憶が浮上してきた。
メモは一見白紙のようでも、よく見ると細かい文字がいつだって強くアピールしていた。
── 約束忘れてたでしょう!!
湖に住む魚は例によって的確に湖底に沈んだ記憶を探し出していたのである。
── この手紙を見たらすぐに電話しなさい!! 陽美
選択の余地も考える暇もなかった。
田中はすぐに部屋にある最新型の電話機に向かい、肩を落としてため息をついた。




