III 6月(1)-4
* * *
自分が「にこにこしてるもん」と言われたことを思い出していたくせに、田中は無意識に眉をひそめていた。
「加藤くんを名前で呼び捨てにしてるくらい仲がいいわけだ、田中は」
土井の言葉の続きが聞こえたので田中の回想は中断した。
「広瀬も田中も欠席でボクは出席なんて、珍しいもんな」
土井の言葉が素直すぎる気がした田中は、反射的に突っ込んでいた。
「オイ、土井は自覚があんのか?」
「それくらいはな」
事もなげに言うと、土井はお茶を飲んだ。
「加藤くんのそばに小野さんがいたんだけど、ふたりとも田中を心配してたぞ」
恵子の仲間たちについては、土井は何も触れなかった。
(土井はバスで死んでたから、サトウやシマダ、あと何人かのヤツらを知らんのだな)
田中がそう思っていると、土井はなおも言った。
「午後は出るんだろ? ふたりにはあいさつぐらいしとけよ」
「土井にしてはまともな意見だ」
土井は苦笑いを崩していなかった。
田中はそこでふと気づいた。
「ちょっと待て」
「どうかしたか、田中」
「その言い方だと、土井は次のコマをサボる気か?」
「サボるなんて言われると、ボクが悪事を働いてるように聞こえるからやめてほしいのですが」
「何が違うってんだ?」
「ボクは計画的に休んでいるだけだからな」
「それが悪事じゃねえのか?」
「まあ、今日のところはそれだけが理由じゃないけども。本来は午後も出るつもりだったから」
「なんだ、ワケがあるなら聞いてやるぞ」
「なら、まず広瀬の代わりに言ってやろう」
土井は広瀬の口調を真似たらしく、こう言った。
「偉そうだよね、田中って」
(……似てねえぞ、土井)
田中は左手で両目を覆った。
(そんなつもりはないのだが)
田中は思った。
(オレの態度が広瀬や土井に誤解されんのはイカンな)
広瀬も土井も身近にいるから、田中は一般の人たちに対するようには気にしてなかった。
高校のときは杉山や高城になんの遠慮も気遣いもせず接していたように。
(大学に入ったら「失礼のないように」と決意していたクセに、オレはいつからか気にもせずやっちまってたのか)
こうして土井や、さてまた広瀬と顔を合わせるうちに、田中の決意は気安さと慣れからどこかに消えていた。
(ヒデカズは放っといていいとしても、恵子に注意される可能性はナシにしておかねば)
田中は恵子を警戒した。
無意識に、なので、恵子がここで頭の中に出てきたのは妙なことだなんて田中は思っていなかった。
土井は湯呑みを空にした。
「気にしてないけどな、ボクは」
田中は左手をテーブルの上に載せると土井を見た。
そして一文字だけ声に出した。
「は?」
「田中はそういうヤツだし」
土井はまたも苦笑いをしていた。
「たぶん広瀬もそう思ってるだろうから、田中も気にしないでくれよ」
田中はおかしな気分になった。
土井の言葉から伝わってきた何かに、既視感のようなものを覚えていた。
しかし、その理由は分からなかった。
「田中は田中だから田中らしさを失くされたらつまらないだろ」
「なんだその早口言葉は?」
「おや、よく分からなかったか? 別にいいけどさ」
土井は繰り返さなかった。
田中は要求しなかった。
「さて。ボクは帰るとする」
土井は金属製のトレイの上にあるB定食の食器を重ね始めた。
「土井」
「なんだ、田中」
「食器を重ねてどうする気だ?」
重ねたりせず、食べ終わったらそのまま返却口に戻せばいいのだ。
そうすることが洗うときにも楽だろう。
田中はそう信じていたので土井の意図が分からなかった。
「重ねて持ってった方が、返却口がごちゃごちゃしなくていいだろ?」
「はあ? 洗うんだから汚さんようにだな、重ねない方がよかろう」
「そうかな」
土井は動きを止めてイスに腰かけ直した。
「田中にこんなことまで突っ込まれるとはビックリだ」
「ナルホド」
田中は土井の真似をして言ってみた。
土井が広瀬の真似をしたので自分もやってみたのだ。
効果がなかったのか、ヘタくそだったのか、土井は「ナルホド」には無関心のまま田中に言った。
(オレにモノマネは無理だったか……)
田中は早まったと感じた。
「食器を重ねるかどうかはそのうち広瀬にも訊いてみるか」
土井はなおも「広瀬なら理路整然と意見を言ってくれそうだからな」と続けた。
「さっき教室から学食へ来るまでに、ボクは空の様子を見たんだけども」
土井は黒い袋状のバッグを肩にかけるとトレイを手にした。
「今日は午後から天気が悪いようだから、ボクは雨が降らないうちに帰りたいんだ」
「オイ、そりゃあホントか?」
「実は小野さんから聞いたんだ。小野さんによると、予報はそう言ってたらしいぞ。ボクも空気に雨の匂いが混ざってきたように感じてたから、雨は降ると思った」
(空気に雨の匂いが混ざってる、だと?)
雨の匂いのようなものは田中にも想像できた。
どんよりした空の下でゴールポストの前にいたとき、降ってきた雨は校庭の土をこれみよがしに濡らしたものだ。
田中はそんなとき、雨ではなく土の匂いを感じた気がした。
普段は乾いていて匂いはしないが、雨で濡れると土本来の匂いが強まるのだと思っていた。
土井が「雨の匂い」と言ったのは、きっと地面とのつきあいが自分より少ないからだろう。
田中はそう思った。
(苗字には「土」があるのに、仕方のないヤツめ)
田中は自分ではうまいことを考えられたと感じた。
眉根は寄ったままだったが、口元はニヤリとしていた。
土井は田中の内心に気づいていないようだった。
「ボクの方針にはオプションがあってさ」
「オプションだと?」
田中は土井の言い草に興味を持った。
「聞いてやるから言ってみろよ」
そう言ってから、田中は「やっちまったあ」と思うことになった。
これではまた広瀬に「偉そうだよね」と言われてしまう。
田中は反省しつつも、この発言の原因は「体調が優れずいささかぼうっとしていたため」、ということにした。
まだ「負け」を認めるわけにはいかない。
土井は田中の口調を気にする様子はなく、自然に言葉を返してきた。
「ボクは計画的に休んでいるけど、天気によってはその計画を変更することもあるんだ」
「ほう」
「雨が降ったらお休みだ」
「はあ?」
「ちなみに、風が吹いたら遅刻するかもしれない」
「土井は『南の島の大王』か?」
「お、分かってくれたな田中」
田中から見ると、土井は満足げだった。
「同年代だとこういうときは楽しいもんだな」
(そんでオレは大王仲間なのか、さっきの「早食い大王」ってのは?)
「で、ボクはぼちぼち帰るよ」
土井はあらためて立ち上がると、田中が空にした湯呑みを回収して金属製のトレイ上にあるB定食の食器と並べた。
「なんなら、カレーの皿も片付けてやるぞ」
「土井がここまでやってくれるんじゃ、雨ぐらいは降るってことだな」
「雪じゃないから安心しろよ」
土井は苦笑いを軽めにしてふざけた調子で言った。
田中にはそう見えた。
土井の好意を受けて、田中は皿とスプーンも任せた。
「田中が雨に濡れないことを祈ってやるよ」
土井は言い残すとテーブルを離れた。
田中はなんとなく土井を目で追った。
土井は返却口に食器を戻すとそのまま食堂を出ていった。
「土井に言われたからではないが、雨に濡れるのはイカンな」
田中は独りごとを言った。
傘もなければ、当然雨がっぱもない。
タオルを持ち歩くこともない。
雨具と呼ばれるようなものを田中は自分で用意したことがない。
母に折り畳み傘を持たされたことがあったかもしれないが、記憶にない。
(体調のことを考えると、オレも帰った方がよさそうだが)
田中は午後の講義の際に加藤や恵子に声をかけられるであろうと想像した。
今日に限っては気が引けると感じた。
(バイトを優先するべきだからな)
田中は軽くため息をつくと、青いバッグを手にして立ち上がった。
(スマンが大事を取らせてもらう)
田中の足は正門へと進路を取った。
講義に出るのとは真逆の方向であった。
(昼飯を食いに来ただけになっちまった)
空一面を覆っている雲の色は濃くなっているようだった。
田中は顔を上げて深呼吸してみた。
土井の言っていた雨の匂いが田中正彦にも分かった。