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13 処女厨

 夏休みの登校日、久しぶりに制服のシャツに腕を滑らせる。

 ガソリンスタンドの地面の沸き立つ陽炎にジリジリと鳴く蝉の声が合わさって、鉄板の上で油が跳ねているようだった。

 中学と違い自由研究なんかもないから、登校日なんて言っても生存確認と掃除くらいだけど、平岡さんの顔を見られるのは嬉しい。


 しかし彼女は顔を見せなかった。

 家族旅行にでも出掛けたのだろうか。

 平岡さんの顔が見られないなら、夏休みの登校日なんて暑くて億劫な日でしかない。……なんてゲンキンすぎるよな。


 

「嘘だろ? あの平岡さんだぞ」

 僕のいるグループは理科室の掃除で近くに先生の目がないこともあってかなり自由だった。彼女の名前が聞こえた。声の主は軽音部の小池(こいけ)だった。

「シーッ! 小池、声でかいって!」

「それ本当にホントの話?」

 サッカー部の尾崎(おざき)が窘め、小池が続ける。

「あーあ、なんかショックだなぁ。俺、かなりファンだったんだけど。マジ好きレベルでさー」

「俺だってそうだよ」

「彼氏いるの分かってたけど、平岡さんだけは結婚まで清い交際ってのしてそうっていうかさぁ。あー、でもあの彼氏なら手ぇ出しそう」

 二人は壁にもたれながら、……チラッと周囲を気にしたが、僕と目が合うことはなかった。

「この間の日曜日、俺たち練習試合だったんだけど、朝早く富樫の家から平岡さんが出てくるのを北中だった奴が見たらしい。平岡さんって桜ノ宮だろ? 早朝にあんな離れた所にいるのはどう考えたって朝帰りしかねーだろ」

 声を潜めて早口に話し出す尾崎。聞きたくなくても、自分の耳が尾崎の言葉を掬い上げようとしているのが分かり、我ながら居た堪れない気持ちになる。

「それでさ、そいつ6組だからさ、今日富樫本人に訊いたらしいんだよ」

「なんて?」

「平岡さんをお持ち帰りしちゃったのかって」

「マジかよ? なんか生々しいな」

「ああ。そしたら富樫、否定しなかったらしい」

「でも否定しないだけじゃ肯定にはならないだろ。やっぱ俺としては平岡さんの純潔を信じたい!」

「お気の毒さま。ここだけの話しだから口外するなよ? 富樫の奴 “痛がって喚かれて散々だった” って言ったらしいぞ」

「うわぁー、そりゃ決定的だな。…っていうか、言うかフツー。腹立つな、おい。平岡さんもこの夏、卒業しちゃったわけか。聞くんじゃなかったかも」

「小池ってもしかして処女厨か? まあ、分からなくもないけどな。岩崎とか栗原とか、他の女子ならまだしも、平岡さんだとやっぱショックだよなぁ」

「別に処女厨ってわけじゃねーけどさ、平岡さんの場合は、あの穢れなきイメージがさぁ…」

 ……僕も聞くんじゃなかったと思った。

 もちろん理由は彼女に対する見方が変わるから……、というものではない。

 サラサラと揺れて優しく香るあの髪や、小さく震える喉に富樫が触れたのだと思うと、どうしようもなく胸が苦しくなった。ちゃんと息をしているのに、窒息しそうな苦しさに膝の力が抜けていく。

 正直、それからどうやって掃除を終えてどうやって帰宅したのかも覚えていない。


 神様って本当にいるのかな。終業式の日、あの瞬間に僕の幸運を使い果たしても構わないと舞い上がっていたのなんてお見通しだったんだろう。

 あの時見た彼女の仕草の一つ一つを富樫に見せないでほしいと願ってしまった。富樫は1年の時のクラスの友達なのに。僕が彼女を知るより前から富樫は彼女と付き合っていたのに。彼女を知ったきっかけは富樫なのに。

 だからそんな思い上がった僕に罰が当たったんだ。

 そうじゃないなら、あの時限りで一生分の幸運を使い果たしても構わないなんて軽々しく思ったことを試されているんだ───


 彼女が優等生の殻を破ろうと葛藤していたのは、富樫のためだったんだ。富樫に純潔を捧げる勇気を奮い立たせようと苦悩していたのか。そうだよな。二人は恋人同士なんだもんな。



 ◇◆◇

 尾崎は「ここだけの話し」なんて言っていたが、夏休みが明けると平岡さんが富樫の家から朝帰りしていたという噂は瞬く間に拡がっていた。

 拡げたのは尾崎や小池かもしれないし、平岡さんを目撃した人かもしれないし、富樫かもしれない。そんなことは分からない。夏休み中の登校日に尾崎が小池に話していた内容よりもあらゆる尾鰭(おひれ)がついていた。

 平岡さんが登校してくると、あちこちでヒソヒソと話していた男子たちも蜘蛛の子を散らすように着席し、彼女への態度もぎこちなかった。

 女クラや他のクラスには首筋に幾つもキスマークを付けて平然と登校してくる人もいるとかいう話しなのに、どうして平岡さんに限ってこんなにスキャンダラスな扱いをされるのか腑に落ちない。けれど裏を返せば、それだけ周囲は彼女に穢れのないイメージを抱きそれに固執していたのだと思う。彼氏がいると分かっていても。


 彼女が「おはよう」と挨拶しても、浜島は聞こえないふり、柳瀬は精一杯の作り笑いで軽く手を挙げて応じた。僕もどんな顔をして良いか分からなかったけど出来るだけいつも通りを意識して挨拶を返した。

 何も変わらなかったのはガクちゃんだった。

「おうっ、もう手首大丈夫なのか? っつーか、登校日バックレんなよ」

 と言って笑った。

「うん」と言って少し微笑んだ彼女は、さっと自分の席に歩いて行った。彼女の背中が少し淋しそうに見えた。自分のことが噂になって僕たちに知れ渡っていると気配で感じたようだった。浜島もそのことに気づいているだろう。

 何より暗い気分にさせたのは、彼女自身に心当たりがあった風だったこと。そしてその空気を避けるように、席に着いてしまったこと。

「ねぇ、浜島くん、みんな、どうしたの? 私の顔に何かついてる?」と屈託なく問い質して欲しかった。

 いつもみたいに目をまん丸にして驚いて「えぇー?! なんでそんな噂が立ってるの? ない、ない! そんなこと。絶対にないから!」と全力で可愛い否定をして欲しかった。

 だけど彼女はそれを避けた。きっとそれが答えなんだ。



 ホームルームが終わり先生が退室すると、週番になっていた平岡さんと松野さんも一緒に退室した。平岡さんがいなくなったタイミングで永田さんが近づいて来て浜島の前に立った。すごく怖い顔で。

「なにあれ? 朝の態度。繭子は浜ちゃんに何か悪いことでもした?」

 浜島は舌打ちして溜め息をつく。

「柳瀬くんもね。正直ガッカリしたわ。柳瀬くんだけはどんなことがあってもフェアな態度を取ると思ってたのに」

「あのさ、永田さん。口を挟んで悪いんだけど」

 ガクちゃんが永田さんを宥めるように割って入る。

「責められても仕方ない、うん。この間まで平岡さんが頼みもしないのに勝手にチヤホヤしといて、手のひら返すような態度取ったわけだから。永田さんが怒るのも無理ないと思うよ。でも謝ったら余計に平岡さんを傷つけてしまわないか?」

「……」

「開き直るつもりはないんだ。だけど一つだけ言い訳させて欲しい。平岡さんを傷つけるような態度を取ってしまったことは事実だし、反省もしてる。ただ、平岡さんのことを嫌いになったとか平岡さんを傷つけるつもりで素っ気なくしたわけじゃないんだ」

「東堂くんは違うわ。繭子にいつも通りだったじゃない。繭子は東堂くんの態度に救われたはず」

「そんなことないよ。俺も同じだよ。いつも通りにしなきゃって力が入って不自然だったと思う。平岡さんを傷つけたかもしれない」

「そんなことない、東堂くんだけは他の男子と違う!」

「いや、いいんだ。とにかく俺も浜ちゃんもヤナちゃんも畠中ちゃんも……このクラスの男、誰一人として平岡さんを嫌になってなんかいない」

「なによ、男子代表みたいなこと言って、格好つけて」

「永田さんに伝えなきゃならないことは、そういうことだから。それが伝わるなら格好つけてると思われたって構わないよ」

「回って全員に訊いたわけでもないのに? 他の男子たちと東堂くんの気持ちが同じだって言い切れる?」

「男なんて幼稚で単純だからさ、似たり寄ったりだよ。どうして良いか分からないんだよ。デリケートな話題だし、どういう態度取って良いか分からなくて、ぎこちなくなってるんだよ。そもそも女子と仲良くなったこともない不器用な連中ばかりなんだ。初めて挨拶した時だってこんな態度だったんだよ」

「東堂くんは人が()すぎるよ。どう考えてもそういうヘタレ連中にあなたは含まれてないのに」

 ガクちゃんの諭すような訴えに永田さんは涙ぐんだ。永田さんは目尻をささっと拭って鋭く浜島の方を振り返った。

「浜ちゃんだけは絶対に許さないからね。繭子のこと無視した上に私に舌打ちもしたよね? 一生覚えておくから」

 柳瀬とガクちゃんが凍りついている向こう側で、仁王立ちした永田さんに睨まれた浜島が「そんなぁ」と情けない声を出して項垂れた。


 掃除の時間には久保さんや斉藤さんたちが微妙に男子との会話を避けていた。

 帰り際には尾崎や小池たちに向かって、岩崎さんグループが「ウリやったわけでもないし他人(ヒト)の男を寝取ったわけでもないのにモテないヤツらから汚れモノ扱いされるって、どうなの?」「これだから童貞くんたちって惨めよねぇ」と聞こえよがしな嘲笑を送っていた。華やかに見える美女三人の笑みは、一様に目が笑っていなくて怖かった。

 平岡さんのことを陰でコソコソ噂して避けている男子たちに、岩崎さんたちなりの攻撃なんだろう。


 女性至上主義社会の東高の中で、男女の比率が逆転している2組と6組。この二つの写し鏡のようなクラスの決定的な違いは、クラス内の男女の仲の良さだった。

 このクラスだって6組ほどの結束力はなくても充分に女子と交流していると感じていた。1年の時には大半の男子は女子にとって不可視な存在じゃないかと思うくらいだったから。

 けれど実際は、僕たちはほとんど平岡さんとしか話していなかったんだ。

 平岡さんが「おはよう」と笑い掛け、平岡さんが話し掛け、その周りに永田さんや斉藤さんがいたんだ。

 平岡さんという緩衝材を失って、初めて知った。



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