14 愚の骨頂
男ってバカだなぁとつくづく思う。
平岡さんに対して唯一態度を変えなかったガクちゃんが、自分も同罪と言ってまで2組男子みんなを庇ってくれたのに、柳瀬を除いた殆どの男子は変な意地が邪魔して引っ込みがつかなくなったままこじらせていた。
本当はガクちゃんや柳瀬みたいに平岡さんと話したい、平岡さんに笑いかけられたい、と誰もが思っている。グラウンドから教室に戻る途中、ホースを持ったガクちゃんに水飛沫を浴びせられて笑っている平岡さんたちを羨望の目で見つめる男子たちの様子は、僕でさえ目を覆いたくなるほど痛ましかった。
「もうすぐ修学旅行なのになぁ」
いつも通り、女子の着替えのため教室を閉め出され廊下で着替えながら小池がボヤく。
「浜ちゃんはいいじゃん。部活一緒なんだし仲直りするきっかけなんていくらでも転がってるだろ」
「実際そうでもないわけよ。永田姐さんの監視が厳しくてさ。最近じゃ斉藤さんや久保ちゃんまで俺に冷たくて」
この頃すっかり見慣れた “項垂れる浜島” が気休め的に和ませる。本人は本気で項垂れているみたいだけど。
永田さんは「浜ちゃんにも繭子の思いを味合わせてあ・げ・る」と不敵な笑みを浮かべていたという。本当に一生許さないつもりなのかもしれない。やっぱり女子は怖い。
「でも、そういうの平岡さんが見過ごしたりしないだろう?」
僕もそう思った。平岡さんならきっと「浜島くん、どうしたの? 理恵ちゃんたちと何かあったの?」と気遣うに違いない。
「それがさ、繭子さん今、主将なんだよね。ほら、うちの部ってリエ・マユ効果で1年がわんさか入ったって言ったじゃん? 初心者も多いわけ」
「ああ、浜ちゃんみたいなのな」
「うっ……。で、まぁ、繭子さん指導に掛かりっきりなわけ」
「浜ちゃんも混ざってくればいいじゃん、初心者なんだから」
「小池、俺に恨みでもある?」
「別にないけど、軽く憂さ晴らし。平岡さんとこじれてるストレス」
「で、富樫は? 最近放課後、来ねえじゃん」
尾崎が会話に加わる。
「富樫は部活に殆ど来てないよ」
「嘘だろ?! 確か関東大会進出したんじゃなかったっけ?」
「ああ、夏のね。それは二回戦で終わった。バイクが欲しいとか急に言い出して、最近はバイト始めたみたい。二学期に入ってから一度しか部活に来てないよ」
「は? うちの学校、単車禁止だろ。二輪免許も卒業まで禁止だし。……意味分かんねぇな」
「俺だって意味分かんねぇよ。ホント、最近急に言い出したんだから。それに繭子さんとも全然喋ってない」
「何かあったのかな。平岡さんを使用済みにして加納祐美に乗り換えたとか?」
「マジでそういうネタ洒落にならねぇから。小池がそんなこと言う間はクラスの女子全員から仇扱いが続くな。悪夢の修学旅行になるよ、間違いなく」
尾崎がピシャリと言い小池も肩を落とした。
「そうそう、来週から教育実習だろ? うちのクラスにも実習生が来るらしいぜ」
「尾崎は色々と情報通だよな。…で、男、女、どっち?」
「そこまでは知らねぇけど、修学旅行日程と被って2年のクラスに教育実習ってアリなんかなぁ?」
「どうなんだろな。修学旅行期間は1年のクラスとか行くんじゃね?」
「修学旅行来るなら女がいいな。女子アナ系のお姉さま希望」
「修学旅行来なくても女がいいよ」
「まあな」
教室の内鍵が開けられて、着替え終わった小池たちが入って行った。
◇◆◇
中間テスト期間になると平岡さんの噂話は表面的には落ち着いた。
進路指導の中野先生が僕たちのクラスの成績が学年トップと言っていたけど、意識して見ると特にテスト期間に入ってからの姿勢は他のクラスと比べても歴然だった。周囲からは「2組ってまるで特進クラスみたいだよな。さすがリケヲタの総本山」と揶揄されていたが、他のクラスがどう見るかよりも目の前のテストに臨む方が大事だった。
テストが終わり二者面談が始まると、僕は予想通り進む方面が決まってないことを指摘された。
「今回の中間テスト、畠中は四位かー」
成績が表グラフになって細かく書かれた名簿を右手でなぞりながら江坂先生が左手を眼鏡の淵にやる。
答案用紙が返って来る度にあちこちで結果を言い合ったりしているせいもあり、一学期の頃から上位の方の順位はクラス内の皆がなんとなく把握しているので僕もある程度知っていた。
うちのクラスの一位は剣道部の久保さんらしい。久保さんはクラス一の小柄で、少し厚めのレンズの眼鏡越しに小さな目が特徴のおとなしい人だ。インパクトのあるギスギスしたガリ勉とは別の、勉強の出来る女を絵に描いたらこんな感じだろうという、まさにそんなタイプ。とてもおとなしい人で、久保さんとタイプの近い静かな人たちと一緒にいるか、剣道部の人たちと一緒にいることが多く、平岡さんと喋っている時だけは、はしゃいだ顔を見せる。
二位は柳瀬で、2組は剣道部のワンツーということになる。ちなみに久保さんがクラス一位だと知ったのも、おとなしい彼女が自分から成績を公表するはずもなく、柳瀬が「久保ちゃんにだけは敵わないよ」と言ったからだった。……とは言うものの、二人の成績は僅差らしい。
三位はガクちゃん。体育の時も誰よりも華があり、背も高くてイケメンで成績も上位。そのうえ友達も多く性格も良くて女子との関係も良好なレアメタルみたいな人。1年生や3年生の女子から呼び出されて告られていることもある。
「まあ順位は一学期から一つ下げたが物理と数学だけ取れば柳瀬や東堂より成績は上だ。しかしなぁ、突出して成績良い科目があっても進みたい方向が決まらなければ受験対策がどんどん遅れるだろう? 国立に行きたいとか推薦枠を狙うなら、語学科目をもう少し頑張った方が良いだろうな」
柳瀬は国立大の文系の指定校推薦を取りたいと言っていたし、ガクちゃんは国立大の工学部系を受験したいと言っていた。
「うちは男子が少ない分、四年制の理数系の推薦枠は少ないし指定校は競争が厳しいぞ? 畠中の成績なら、ちゃんと受験科目を絞ってこのまま気を抜かずに頑張れば充分に難関大学レベルの合格圏だろうから、まずはそろそろ方向を決めないとな」
江坂先生はチョークで汚れた白衣のポケットからハンカチを取り出し、外した眼鏡をひとしきり拭いた。
「なるべく早いうちに考えます」と返事をして面談を終えた。入れ替わりに浜島が教室に入る。
「悪りい、畠中ちゃん。帰りに道場に寄って柳瀬にこれ渡してくれる?」
すれ違う時に浜島から“日報”と書かれたノートを渡された。
今日は自転車で来ていたし、武道体育館まで回り道して柳瀬に渡して帰ればいいか…と承諾して浜島からノートを受け取った。
駐輪場とテニスコートの脇のコンクリートの敷いていない細い道を通りバスケ部やバレー部が部活をしている第一体育館の奥にある第二体育館、通称 “武道場”へと歩いた。青々とした銀杏の木に囲まれている佇まいは、外装を改築された教科棟とは違い東高が古くからある学校だと物語っている。
いち、に、いち、に…と幾重にも揃った声が聞こえた。
「腕を上げる時、もう少し背筋を意識してね」
平岡さんの声が聞こえた。
武道体育館の外、見た限り二十人を超えていそうな1年生っぽい部員たちの横で平岡さんが素振りの指導していた。
白い道着に白袴姿の彼女は凛として美しかった。剣道の道着って藍染めばかりだと先入観を持っていたから、白袴姿の平岡さんが眩しくて用件も忘れたまま見惚れた。
「振り下ろす時は顎を引いて」
初めて見る袴姿の平岡さんは普段見る紺色の制服姿とは全然違った印象で、心の中で身悶えした。
後ろの方で竹刀を振っていた五人の男子が、来訪者の気配を感じたのか振り返って怪訝な顔で僕を見た。
ブレザーの校章で2年と分かったらしく、同時に平岡さんを見ていたと気づいたのか目の中が敵意の色で満ちた。
前に浜島が言っていたことがあったよな。男子1年生部員たちは平岡さんにご執心なんだって。
「あれ、畠中くん?」
気づいた平岡さんがいつもの調子で大きな目を丸くする。二学期が始まって以来本当に元気がなかったから、普段通りの平岡さんの表情に緊張が解ける。
「柳瀬に渡してって浜島に頼まれて」
ノートを持ち上げて示す。
「そう。浜島くん今日、面談だったよね? じゃあ畠中くんもだったんだ」
「うん、浜島の前」
そう、と彼女は言って僕からノートを受け取った。そして1年生たちに道場に入って永田さんの指示に従って立ち稽古に入るように言い、彼女はその場に残った。1年生男子たちの鋭い視線や舌打ちにアウェイ感この上なかったけど、平岡さんは微塵も気づいていないようだった。あなたがモテるからなんだけど。本当にそういうこと疎い。
「柳瀬じゃなくて良いのかな」
「あ、うん。日報は最終的に部長が管理することになってるから私で大丈夫。柳瀬くんに用があるなら呼んで来ようか?」
やっぱり浜島は未だに永田さんに平岡さん封じされてるのか。
「頼りない部長でみんなに申し訳なくて。うちの部は部長の人が代々次の部長を指名するんだって。理恵ちゃんの方が適任だと思うんだけどね」
平岡さんはしきりに髪を耳に掛けたり外したりしながら、恥ずかしそうに顔を赤らめた。
「そんなことないよ、後輩にも慕われてる感じだったし」
そう言うと、一瞬驚いたような顔をしてまたすぐに恥ずかしそうに笑って「ありがとう」と言った。このはにかんだ笑顔が何とも言えず可愛いんだよな。今日は袴姿って相乗効果もあるせいか、恥じらう姿がいつも以上に奥ゆかしく見えてドギマギした。
でもそんな嬉しさとは裏腹に、僕の知らない彼女を見れば見るほど、その全ては富樫のものなんだという仄暗い感情がじわじわと脳裏を侵食する。
だからどうだって言うんだ? 自分でもつくづく愚かで湿っぽい人間だと思う。
彼女は初めから僕なんかとは住む世界が違う人。彼女の物語の中で僕なんて脇役どころか名もないエキストラ同然なのに。
なのに息苦しくなってしまう。彼女の全ては他の誰でもない富樫に捧げられているのだと思うと。
「面談どうだった? 学部とか方向性決まった?」
「ごめん、それ渡しに来ただけなんだ」
彼女の問いかけも遮って、僕は駐輪場へと踵を返した。
駐輪場に着いて鞄を荷物カゴに入れた時に銀杏の木を見上げてようやく我に返る。
この銀杏の葉が黄色くなって地面に落ちる頃、僕はこの場所で初めて彼女と話しをした。彼女は地味で存在感のないこんな僕に挨拶してくれたこの学校で唯一の女の子だった。
あの頃僕は、今ほど彼女を知らなかった。今だって半分も彼女のことを知らないだろう。それでも僕は、彼女の顔を見て声を聞いて過ごせる一瞬一瞬がかけがえない幸せだと感じた。こんな冴えない僕にも分け隔てなく幸せをくれて、冴えない人生に一筋の暖かい光を灯してくれた彼女───
僕なんかの一挙手一投足で傷つく人間なんていないと思ってきた。ちっぽけな存在としてそれなりに生きて、できるだけ他人に嫌な思いをさせたり迷惑掛けたりしないよう心掛けていたつもりでいた。他人の人生にさざ波ひとつ立てない人間だと自負していた。けれど、そのどれも間違いだった。
些細な僕の些細な態度が、彼女を傷つけてしまったと感じた。本当にバカだと後悔した。
もう一度、武道場に行こう。
ガクちゃんが言ったように謝ることで彼女を二重に傷つけるなら、ただもう一度会ってもう一度彼女と僕の面談の話しをしよう。聞いてもらおう。
自転車に鍵を挿して、道場まで押した。
「何か用すか?」
壁の脇に設置された水飲み場に藍染めの道着を着た背の高い三人の剣道部員がいて僕に声を掛けた。素振りの時に僕に敵意の目を向けた五人の1年生部員のうちの三人だとすぐに分かった。
「マユ先輩なら稽古してます。たいした用じゃないなら集中させてあげたいんですけど」
道着の合わせの部分に“山本”と黄色く刺繍してある端整な顔立ちの男子が剣呑に放つ。
「マユ先輩に何か酷いこと言いました? 道場に戻って来たマユ先輩の笑顔が微妙に暗いんで」
「もしかして富樫先輩の友達ですか? いい加減あの人にもムカついてるんですよ。好きな人を傷つけて満足なんすかねぇ?」
加藤という子と藤吉という子が立て続けに言った。
「お引き取り戴けますか? 明日学校で顔合わせますよね? マユ先輩には、さっきの2年の人がまた来たと伝えておくんで」
何も言い返せなかった。
言い方は辛辣だし身に覚えのないことも多少出てきた気はしたけど、彼らの態度は決して礼儀を欠いてはいないと思う。彼らなりに、2年に対して我慢ならないことを言っただけだと思う。
尻尾を巻いて逃げたと言われればそれまでだけど、実際にたいした用があるわけでもなく彼女の貴重な稽古時間を奪うわけにもいかず、僕は納得して退散した。
裏門に向かう途中、道場の扉が開いた所から屋内の光の中に一心不乱に素振りをする平岡さんが見えた。
剣道なんて殆ど分からない僕が見ても、1年生たちの素振りとは明らかに違う速さと美しさがあった。真剣な表情で、汗で髪を首に纏わりつける彼女の真っ直ぐな姿勢に甘苦しく胸が抉られる。
好きだ。
僕、平岡さんが好きだ。
もうお手上げだ。観念するしかない。
彼女を思う自分の気持ちの名前なんて知りたくなかった。本当はとっくに知っていた。だけど踏み込むのが怖かった。
彼女には恋人がいる。二人が別れればいいなんて思ったこともないし、自分が恋人になりたいなどという現実味のない願望もない。
だからこの感情は恋じゃないと否定してきた。テレビの中の世界の可愛らし女の子に抱くような気持ちなんだと自分に言い聞かせてきた。彼女を見るたび話すたびに、そうやって感情にブレーキをかけている自分がいた。
ブレーキをかけてる自分に気づいてしまった今、もう認めないわけにいかない。
何がどうだとか、保険かけるみたいな臆病な屁理屈抜きにして──僕は彼女のことが好きだ。
もうあんな風に避けたりしない。好きな女の子を傷つけたりしない。
心に誓って薄暗くなった帰路を走った。




