卒業放送①
「卒業証書、授与」
静かに、その言葉が響き渡った。
壇上に次々と他クラスの生徒達が上がっていく。証書を受け取って、一礼して降りて行く。
なんてことないように、当然のように壇上へ向かう他クラスの生徒たちを、僕は憎らしく思ってしまう。
間違いなく僕が一番、この日を待ちわびていた。この学校からやっと卒業出来る今日この日を。
誕生日だから。辛い思い出から背を向けたいから。クラスの誰とも別れを惜しめないから。なんて、そんな些細なことなんかじゃない。
もっと、当たり前の思い出があったはずなんだ。
辛いこと、苦しいこと、楽しいこと、嬉しいこと。クラスメートや先生との当たり前の、そんな一日一日が。
でもそれは、三年生になって三ヶ月後に突然、黒く塗りつぶされてしまった。
誰かの名前が体育館に響き渡る。そのたびに、勝手に全身が震えてしまう。あの声では無いと分かっていても、誰かが呼ばれるその瞬間は、やっぱり怖い。
それでも今日この日だけは、堂々と誇らしく受け止めよう。
もう、まともに卒業証書を受け取れなくなってしまったクラスメートたちを代表して。
伏せていた顔をゆっくりと持ち上げる。意を決して左右を見ると、そこは光を飲みこむように真っ黒に染まっていた。
どろどろとした黒い液体を絶えず上から下へと零し続けるそれは。それでも椅子にきっちりと並ぶ、それら一つ一つは。
かつて僕のクラスメートだった。
忘れもしない、七月十二日。僕たち3-Bはその日まで、それなりに一体感のあるクラスだった。
全員が全員仲が良いってわけじゃないし、僕にも苦手なクラスメートはいた。でも誰かが笑わせようと何かをすると、笑い声と笑顔が自然に溢れていたし、体育祭で披露したダンスは学年で最優秀賞を貰った。
ドラマの最終回近くほどの理想的なクラスじゃないけれど、現実としてはこれ以上は望めないと思う。
そのときの僕は、夏休みの予定について前の席の木田翔太と話していた。
受験をはっきりと意識し始めた三年生の夏休みは一、二年生の頃と比べるとちょっと憂鬱だ。だけど、それでも僕らにとって最後の夏休みなんだから、出来る限りを出来る範囲で楽しまないと。
「でもさ、高校最後の夏休みだぜ?息抜きに夏祭りくらい許されるべきだろ。あ、そのとき彼女、紹介するかんな」
翔太は机の上に乗せた鞄を軽く叩きながらそう言う。いつも通りの人懐っこい笑みは、学校が終わる前になっていつも以上に深くなっていた。
「えっ、いつ彼女が出来たんだよ?誰?うちの高校?」
「ばーか。これから夏祭りまでに出来るんだよ。十八歳になった俺の大人びた切れ味は、これまでとは違うからな!」
自信満々の根拠のない言葉に、僕は首を横に振って見せる。
「えぇ……結局、去年みたいに男だけで夏祭りを楽しむんだろうなぁ……」
そう言いながら、僕は分かっていた。翔太は普段こそ子供っぽいけれど、必要な場面では空気を読んで誰よりも真面目になる。この手の大口を何度となく聞いていたけれど、それはいつも友人を楽しませるためのものだ。
どうせ、大げさにがっくりと肩を落としながら夏祭りに来るんだろう。
僕はお決まりの流れを想像して、思わず笑ってしまっていた。
この日はどうか。いや、予定がある。なんてさらに話し合う。同じようなクラスメートは大勢いた。みんな、もうすぐ始まる夏休みを楽しみにしている。そんな賑やかな教室内は、担任が教室に入ってくると同時に一気に静まり返った。
担任は、僕たちがきっちりと前を向いたのを確認すると軽く頷いて見せる。持っていた黒い名簿はすぐに開かれ、先生自身も早く終わらせようと行動で示すようだった。
ホームルームはつつがなく進んでいく。何か予感があったわけでも、異変があったわけでもない。伝達事項を伝え終えた担任はホームルームの終わりを告げ、最後の点呼のために学級委員長の名前を呼んだ。
「起立」
委員長の声と同時に全員が立ち上がる。後は、礼、と彼女が言えば家に帰れる。
学校が嫌いなわけじゃないけれど、やっぱり自室の方が落ち着ける。だからこの時がいつも少し待ち遠しい。みんなもきっと、そうだろう。勉強に打ち込みたい受験生、最後の大会のために早く練習を始めたい部活動生、僕のようにただ帰りたい帰宅部。
クラスの誰もが、ちょっとじれったそうに前を向いて、委員長の言葉を待っていた。
だけど。
「ああ、それと」
まるで連絡事項が終わっていないかのように、立ち尽くす僕たちが見えていないように、当然担任が平坦な声でそう言った。間髪入れず、ザザッ......と校内放送が始まる前の、耳障りなノイズが頭上で響き渡る。もうあと数秒でホームルームが終わる、嫌なタイミングだった。
「3年B組の平川大地さん。3年B組の平川大地さん。少し遅れましたがお祝いがありますので、至急来てください」
くぐもった声と不思議な内容の校内放送。その奇妙さに導かれてほとんど同時に、クラスメート達は怪訝そうに疑問符を上げた平川君へと目を向けた。
平川大地。はっきり言えば、僕は彼のことをあまり知らなかった。仲良くもなければ、険悪でもない。朝の挨拶くらいはするけど、友達と会話をしているときに目の前を横切られても、意識を向けたりはしない。
それでも、大らかで真面目な平川君の性格が僕は不思議と好きだった。
だから。呆然としていたクラスメートが一度体を震わせて、黒く染まっていく自分の手を見た時のあの表情を忘れることは出来ないだろう。
恐怖でも、悲しみでもない。ううん、きっとそれも少しはあったのかもしれない。
でも、その時の彼の顔は違ったんだ。
小さく微笑んでいた。
全身が黒く溶け落ちているのに、どうしてあんな……?
余計に、何が起こっているのか僕には理解できなかった。救いを求めるように担任を見たけれど、先生は椅子に座ったまま静かに瞬きをするだけだ。
平川大地君だったものはそうして、誰かの悲鳴が響くよりも前にどろどろに崩れていき、辛うじて人の形の面影がある黒い何かに成り果てていった。
"うわああああああぁぁぁああ!!"
教室内を切り裂く悲鳴が、幾つにも重なり合う。それが遠くの汽笛のように聞こえたのは、現実感があまりにもなかったからだ。
反射的に飛び出て重なった不協和音は、他のクラスにすぐに届いたんだろう。間もなく隣のクラスの先生が3-Bの入り口を強めに開いて入って来た。
「あまりにも騒がしいぞ!金村先生。自分のクラスの面倒くらい、自分で見られないんですか!?」
僕らの担任金村先生と、やって来た先生の仲があまり良くないことは僕らにも分かっていた。だから、これ幸いとばかりに隣のクラスの先生は注意しに来たのだろう。
あまり好きな先生じゃないけど、今この時に限っては救いの光だ。
皆が、縋るような眼差しを向けていた。
でも、その先生は人の形をした黒い何かを見るなり、急に押し黙って直立したんだ。
「何もありませんよ。当然のことでしょう?」
金村先生がいつもの調子でそう言うと、隣のクラスの先生も判子を押すような調子で頷いた。
「そのようですね。ですが、生徒たちが泣き喚くのを早く止めさせてください。他のクラスの邪魔になりますから」
「ええ。すみません」
ほんの少しだけ申し訳なさそうに笑った金村先生。そしてつかつかと足を鳴らして教室から出て行った隣のクラスの先生。
二人は、僕が知らない人間のようだった。知らない言葉で話しているみたいだった。
生徒が、クラスメートが、平川君があんなになっているのに、なんでそんな――。
「皆、静かに席につきなさい。でも、最後に一度だけ思いっきり泣きなさい。もう、子供のように泣き喚くことが許される歳ではなくなるんだから」
教室は、重い沈黙に包まれた。
もう一度思いっきり泣けだなんて、どうしたらそんな言葉を言えるんだ?
ああなっているのが僕だったら、泣くよりもまず助けて欲しいのに!
でも、その気持ちを言葉にすることは出来なかった。歯と歯が震えでぶつかって、惨めにもカチカチと音を立てることしか出来ない。
その間にも平川君は溶けている。噴水から粘度の高い水が吐き出されるように、輪郭が次から次へと黒い液体に覆われては波打って垂れている。
「みんな、泣かなくていいのか?」
先生は少しだけ困ったように肩を竦めながらそう言って、次に笑って見せた。
いつもの朗らかな金村先生だった。
「なら、みんなでお祝いをしよう。平川、おめでとう」
そう言って拍手をしながら、教室を見渡す。続けと、目尻の緩んだ眼で促してくる。
その拍手に誰が最初に続いたのか、僕にはわからない。
僕は拍手をしたくなかった。絶対に、したくはなかった。
けれど、手は自然と動いていた。おめでとう、と何度も言葉にしていた。
得体の知れない恐怖と不安が僕たちを、怯えさせていた。一刻も早く、このホームルームを終えたくて仕方なく手を動かした。
でもきっと、僕じゃない。
最初に拍手をしたのは、おめでとうと言ったのは僕じゃないはずだ。
――平川君だったものは、自分の席から少しも動かなかった。
それとももう、離れられなかったんだろうか。
ホームルームが委員長の震えた、礼、の言葉によって終わると、僕たちは半狂乱になりながら教室から飛び出した。
廊下を歩く他クラスの生徒に声をかけて、幾人かが平川君だったものを指さす。スマートフォンを取り出して、警察や救急車に連絡する人も居た。
だけどみんな怪訝そうに首を振るばかりだ。クラス全員で驚かそうとしているのか、なんて怒られたり笑われる始末だ。
彼らには平川君が見えていたけれど、ただ自分の席に座っているように映っていた。
黒く溶けているその姿なんて、間違っているみたいに。
僕やクラスメートが混乱の極みに達していたそのとき、3-Bに他クラスの男子生徒が入って行った。そして、平川君だったものに声を掛けた。
とても気軽に。
「平川、お前なにしたらクラスメート全員からこんな風にからかわれるんだよ?二年で同じクラスだった時は、一番真面目で大人な良い奴だったのに」
「校門で針が沈没したんだ。でも、蝶は火葬で食べたんだよ」
「いや、勿論俺は友達のお前を信じてるけどさ。でも3-Bの奴ら、すげー真剣だからさ」
「知ってる。曙光の献立を、道に聖餐するんだ。もっと、笑わないよね」
「だよな!」
男子生徒の手が、平川君だったものの黒い粘液の中にどぷりと埋まっていく。平川君がこんな風になる前は肩だったところだけど、今は違うのに。
なのに男子生徒は笑っている。一人で理解できない返答に応えるように、笑っている。
僕はスマートフォンを取り出して、黒い何かを動画で撮った。
そこに映っていたのは見覚えのある、いつもの平川君だ。
ただ彼は何かを受け入れたような穏やかな笑顔のまま、行儀正しく座り続けていた。
楽しかった夏休みが終わって、二学期が始まるその初日。軽やかに正門から一歩先に進んだ僕は、急に込上げて来た吐き気に、手を喉へと当てた。
焼け付く痛みが、胸から込み上げていく。必死に喉を鳴らしてしまい込んだのは、胃酸だけではなかった。
また、この地獄が始まる。それを思い出し、一歩も動けなくなるような不安や恐怖をなんとかしまい込んだ。
僕だけじゃない。今まさに正門から入って来た男子生徒は、僕のクラスメートだ。肩で風を切る彼の陽気な様子は、学校の敷地に入るなり途端に霧散した。大きく震えて涙を浮かべると、必死に踵を返して門から出て行く。
残念だけどそれが無駄だと、僕は身をもって知っている。彼は一歩学校の敷地から出たところで立ち止まって振り返り、不思議そうに首を捻って学校を見た。そして正門から入って来ると、両手で顔を覆って悪態をついた。
学校に入れば思い出し、出れば全てを忘れて、なんてことない普通の学生生活がここにはあるのだと思ってしまう。
こんな意味不明で馬鹿げたことを、何が起こしたのかなんて知らない。ただそれは僕たちを学校から、あの馬鹿げた放送から逃す気はないようだった。
だけど――今の僕が校舎に向かって大股に歩くのは、絶望に抗うためだった。
「なぁ……二学期の初日から、あると思うか?今日、金曜日だよな」
「……」
靴を靴入れにしまいながら、クラスメートの疑問に沈黙で返す。
答えたくなかった。
クラスメートも返事をしろとは言わない。僕も彼も、答えは薄々分かっている。夏休みに入るまで週のうちに必ず一回、ホームルーム中にあの不快な放送は行われた。
今や三つ――
教室に、夏休み前と変わらない三つの黒い何かが我が物顔で座っていた。
平川君だったもの、委員長だったもの、そして。
「翔太……」
前の席の黒い何かに向かって、小さく呟く。
心底、最低な奴だ。
堪え切れなくなって机を叩いてしまう。だけど、クラスメートたちは誰も驚かない。夏休み前、今の僕のように怒りや不安を物にぶつけた生徒はそれなりに居た。
そして今ではただ、みんな疲れている。束の間の夏休みが、この地獄をより実感させるための罠にも思える。
でも僕は、翔太が黒の何かになる前に僕に向けた、助けを求めるような瞳を絶対に忘れられない。
……違う。忘れるんだ。そうしたくないのに、学校を出ればその記憶や感情さえ失ってしまう。
僕は翔太と立てていた夏休みの予定を、親友ごとここに棄てて夏祭りを楽しんでいたのだ。
一緒に祭りを楽しんだ友達の誰も、気にしなかった。今日まで忘れていた。
いつもいるはずの友人と、馬鹿みたいにはしゃぎ合えないことを。
自分が、恥ずかしい。
……他のクラスメートはどうして、僕みたいに思わないんだ?こんなの間違っているし、こんな理不尽が許されていいはずがないのに!
やるしか、ない。
忌々しいあの出来事が起こってから、誰も何もしなかった。ただ座って、このあり得ない出来事がすぐに終わるのだと、信じようとしていた。
……一回は二回になり、二回は三回になって翔太をあんな姿にした。
でもそれじゃあ、駄目なんだ。
僕は初めて、ホームルームを待ちわびていた。
だいたい2万~3万文字予定です。よろしくお願いします。




