夫と母と、娘
カーテンが閉められて昼間なのに薄暗い、マンションの一室。
中身の詰まったゴミ袋がいくつも乱雑に転がり、何か油っぽい液体をこぼしてそのままなのか、フローリングの床は歩くと足裏がベトつく。
「クソッ!」
そんな暗く薄汚れた部屋の中で、健雄が苛立たしげに、飲み終わったビールの缶を握り潰して乱暴に投げ捨てる。
少量残った中身が床にこぼれるが、気にする様子は無い。
「あのガキ……」
健雄の頭に浮かぶのは、あの人を馬鹿にしたムカつく口元と、趣味の悪い狐面。
「親子揃って不愉快な奴らだ……!」
そう言って、新しい缶を手に取る。
元々、沙椰と健雄は家が隣同士の幼馴染だった。
最初の頃はお互いに恋愛感情なんて無く、ただの良き隣人、良き友人として成長し、健雄は大学生に、沙椰は高校生になった。
高校生になった沙椰は、高校の先輩だという静香と千景繋がりで、明日真と出会った。
そして、美しい容姿を持つ彼に、一目惚れした。
健雄は、その明日真に恋する沙椰の姿を見て、自分が沙椰に惚れていたという事に初めて気が付いた。
よくある話だ。
大切な人が自分の元から離れて行きそうになり、初めてその大切さに気付くという。
その事に気付いてから健雄は慌てて沙椰にアピールを始めたが、沙椰は健雄に全くなびかなかった。
健雄と違い、沙椰にとっての健雄は家族と同じで意識する様な異性ではなく、あくまでただの幼馴染だったのだ。
思い切って気持ちを告げてみても、やはり駄目。
驚いた様子こそあったが、それでも申し訳なさそうに謝られるだけだった。
そして健雄にとっての不運は続く。
就職先が、北海道ではなく本州の方で決まりそうだったのだ。
そこは、健雄が入りたいと思っていたが、どうせ無理だろうと半ば諦めていた有名企業。
諦め気味だったおかげで、良い意味で肩の力が抜けて、面接で自分の全力が発揮出来たのかもしれない。
この話、絶対に蹴る訳にはいかない。
けれどこのまま北海道を出てしまえば、沙椰とは疎遠になってしまう。
健雄は焦った。
沙椰が人の物になるだなんて絶対に許せない。
だが、何をするにしても健雄には時間が無い。
そこで健雄が出した結論は、沙椰を無理やり自分の物にする、という事だった。
明るい様でいざという時気の弱い沙椰の事、自分が強気で押し切ってしまえばどうにかなるだろう事も、長い付き合いでわかっていた。
そうやって『強引に迫った』結果、出来たのが柚良だった。
おろすおろさないの話になる前に、健雄はすぐにお互いの両親にその事を報告した。
順序が逆になってしまいましたが、俺達結婚します、と。
すると、元々親しかった両親達は、最初驚きはしたものの大喜び。
話はトントン拍子で結婚まで進んでいった。
健雄は、この段階に至っても沙椰の気持ちがまだ明日真にあるとわかっていたが、構わないと思った。
今は自分に気持ちが無くとも、夫婦として日々を積み重ね、共に同じ時間を過ごせば、いずれ情もわき、愛し合える日も来るだろうと。
だが、現実はそう上手くいかなかった。
二人での生活が始まって気付いた、沙椰の歪み。
口に出さないだけで、沙椰の心は深く傷つき、健雄には修復不可能な程に壊れてしまっていたのだ。
産まれた子供、柚良に対する愛情の欠如。
食事等最低限の世話はするが、それだけ。
優しく語りかける事も、抱きしめる事もしない。
ただ淡々と、世話をするのみ。
愛情の一切こもらないその行動を、子育てと言えるのか。
だが、人の事は言えない。
健雄自身も、自分の娘、柚良に対して愛情なんて抱いていなかった。
柚良は沙椰を自分の元に留めておく為の、ただの道具。
それだけの存在でしかなかった。
そうして両親から一切の愛情を注がれずに育った柚良は、無感情な、空っぽな少女に育った。
当然だ。
感情を受け止めてくれる相手が、彼女には居なかったのだから。
柚良が泣いても笑っても、両親は彼女に無関心だった。
外部からの刺激が無い、外部からの反応が一切無い生活。
そんな日常の中で柚良は、ただ生きるだけ、ただそこにあるだけの存在として育った。
そんな歪んだ家庭だったが、それでも健雄は幸せだった。
愛する沙椰が、自分の妻として、共に暮らしているというその事実さえあれば良かった。
沙椰は健雄に従順で、一切逆らわなかった。
それで、ただそれだけで、健雄は満足だったのだ。
そんな生活が変わり始めたのは、桃香が産まれてから。
沙椰にどんな心境の変化があったのかはわからないが、柚良に対してあれだけ無関心な態度を取っていた沙椰が、何故か桃香に対しては愛情を注いだのだ。
優しく語りかけ、抱きしめる。
柚良は勿論、健雄だって、夫婦として過ごし始めてからは一度も見た事が無い表情で。
健雄はそれを見て、嫉妬し、苛立ち、激怒した。
沙椰と一緒に居られるだけで満足していた筈の健雄だったが、沙椰が他者に向ける愛情を見て、やはりそれだけでは満足出来ていなかった事に気付いたのだ。
自分には向けない愛情を、どうして娘には向けるのか。
その愛情の一かけらでも、どうして自分に向けてくれないのかと。
それから、健雄の娘への虐待が始まった。
沙椰にもその苛立ちを別の形でぶつける事で、紅梨、苺香の二人が産まれた。
沙椰はその二人にも桃香同様母としての愛情を示し、それを見て健雄はその二人の事も虐待した。
暴力等、わかりやすい痕が残る様な事はしなかった。
それどころか、表向きは優しい父親、理想の家族を演じた。
だが、家に帰れば家族を毎日の様に罵倒し、なじり、怒鳴りつけた。
健雄はそんな生活を送りながら、自分の人生も価値観も、完全に狂ってしまったと自覚していた。
けれど、もう遅い。
自覚出来たところで、もう自分でもこの行動は止められず、どうしようもなかった。
「クソッ!」
一人薄暗い部屋の中で悪態をつく健雄。
「…………ふっ……ククク」
だが、携帯を手に取ると何故か急に笑い出す。
「あはははははははは!」
そして、大きな声で、誰も居ない部屋の中で一人、笑い出す。
楽しそうな健雄の笑い声が、いつまでも部屋の中に響いていた。




