考える、というより、形を探していた
この物語は
人生が嫌になってしまった人に向けて書いた。
答えは用意していない。
正しい生き方も教えられない。
それでも、
わからないまま考え続けることは、
無駄じゃないと思っている。
この本は、
そのための言葉を、
いくつか置いておくだけの本だ。
僕は、考えるのが得意な人間ではない。
少なくとも、一般的に言われる意味での「考える」は、ずっと苦手だった。勉強はできなかった。
分数はよく分からないし、算数も苦手だった。
漢字も書けない。
読むことはできるけれど、書こうとすると手が止まる。
会話も、よく噛み合わなかったらしい。
相手が言ってきたことに対して、
まったく違う返事をしてしまう。
話の流れを読めず、見当違いなことを言ってしまう。
そういうことが、よくあったみたいだ。
それでも、周りからはよく「考えろ」と言われていた。
考えろ、ちゃんと考えろ、と。
でも、そのたびに思っていた。
――考えるって、何だろう。
何をすれば「考えた」ことになるのか、
どこまで行けば「ちゃんと考えた」ことになるのか正直、よく分からなかった。
ただ一つ、分かっていたことがある。
僕は「正解を出す」事がどうしても苦手だった。
だからといって、何も考えていなかったわけじゃない。
むしろ、別のやり方で、ずっと考えていたんだと思う。
考えるのが楽しかった瞬間も、確かにあった。
それは、小説を書いていたときだった。
物語を頭の中で思い描いて、それを言葉にしていく。
この場面には、どんな言葉が合うだろう。
この気持ちは、どう表現すれば近づけるだろう。
調べて、試して、置いてみて、また外して。
何度もやり直す。
その時間は、不思議と苦じゃなかった。
むしろ、楽しかった。
誰かに読んでもらって、
「面白い」と言ってもらえたときは、素直に嬉しかった。
でも、そのとき僕がやっていたのは、
「正しい答え」を探すことじゃなかったと思う。
分かった、という感覚はあまりなかった。
正解にたどり着いた、という感じもしなかった。
ただ、
「これは、きれいだな」
「ここに置くと、違和感がないな」
そう思える瞬間があっただけだ。
今思えば、僕の「考える」は、
正解を導く作業じゃなかった。
合っているかどうかよりも、
この形でいいかどうか。
どこか引っかかるところはないか。
無理やり言葉で押さえつけていないか。
そんなふうに、
形を見て、触って、確かめていた。
いくつもの案を並べて、
その中から、いちばん違和感の少ないものを選ぶ。
一番、すっと収まるものを残す。
分からないままでもいい。
でも、雑なままにはしたくなかった。
だから、
「分かった」よりも
「整った」という感覚のほうが、
僕にはしっくりきていたんだと思う。
たぶん、人生に対しても、
僕は同じ見方をしていた。
正しい生き方があるのかどうかは分からない。
答えが用意されているのかも分からない。
それでも、
この考え方はどこか歪んでいないか。
この言葉は、誰かを切り捨てていないか。
この形は、本当に落ち着くのか。
そんなことばかり、気になっていた。
後になって思えば、
僕はずっと、
「正しい答え」じゃなく、
「壊れていない形」を探していたんだと思う。
そして、その違和感が、
どうしても消えなかった出来事が、
このあと、いくつかあった。
(っ'ヮ'c)




