これは恋?
今日の午前中に指輪を返すと言ってから、ずいぶん時間が経ってしまった。
青葉くんの20年弱もの積もりに積もった想いが懸かっているのだから、早く渡したかったのに──。
──でも、小柳さん行きつけの高級中華料理レストランは私のラーメンの概念を覆してくれ、とても美味しかった。また食べたい。
私は大切に机の引き出しにしまっておいた十万もする指輪のケースを取り出した。
──私の手の中でツヤツヤと光る、ブラックベルベット。
やっぱり、この指輪は私なんかの手元で燻るべきでなく、青葉くんの想い人の指へ嵌るべきだ。
青葉くんは、きっと自室にいるだろう。受け取るつもりがないとしても、私は必ず、受け取らせてみせる。
◯
私の足は、歩みを止めていた。
──早くここから立ち去れ。
見るな。
お母さんと小柳さんが、ソファーに寄りかかってキスしているところなんて。
お母さんは、うっとりと目をとろけさせて。
小柳さんは、そんなお母さんを愛おしそうに見つめて。
──平気だと思ってた。平気になったと思っていた、もう、受け入れられたと。
私は目を逸らし、音を立てないよう注意して再び歩きはじめた。
──私は、最低だ。
親不孝者だ。
お母さんの幸せを、喜べないなんて。
お母さんは、私を女手ひとつで育てるために、今までとても、とても苦労したのに。
青葉くんの部屋の前に着き、私は一回深呼吸した。
今は気持ちを切り替えよう。
ノックすると、すぐに返事が聞こえ、ドアを開けた。
「青葉くん、遅くなってしまいすいません。指輪、返しにきました」
「……。」
すぐにこちらへ来てくれた青葉くんは、無言で私の手の中を見つめている。
──何を考えているのだろう。
──清可さんのことしかないか。
あのことを思い出しているのか。
「慈さん、俺、やっぱり……」
青葉くんは俯いて口籠る。
これは、やはり受け取らない気だ。
説得する必要がありそうだけど──。
──丁度良いじゃないか。
私も、今、誰かに話を聞いてほしい。
この燻った気持ちのまま、一人で自室に帰りたくない。
今は、一人でいたくない。
誰でもいいから、誰かといたい。
それが青葉くんだったら、きっと、もっといい。
でも、ここじゃなんだし、青葉くんの部屋に夜中に入るのも抵抗があるし──。
──あ、そうだ。
私は青葉くんの手を引いた。
「青葉くん、ちょっと来て」
「え、ちょっと……」
「大丈夫、青葉くんの言い分も聞くから」
◯
「青葉くん、さ、座って」
「慈さんて、結構強引ですよね」
青葉くんが言った。
「いや、結構じゃないな。ものすごくだ」
と言いながらも、青葉くんは座った。
その言葉(嫌味)は、今までの青葉くんに対する言動を振り返ると、否定できない。
月と星の光が、青葉くんの仏頂面を照らす。
私たちは場所を移して、中庭にある噴水まで来た。
噴水がある家なんて初めてだ。
「ふつう、〝今、ちょっといいですか?〟とか、相手に聞くもんですよ」
「ご、ごめんね。もう寝るところだった?」
きっと十時は過ぎているだろう。青葉くんは風呂を済ませてパジャマ姿だ。
無地の紺色で、ゆったりした、シンプルイズベスト。青葉くんぽい。
「まだ眠くないからいいですけど。……というより、その指輪を見たら眠気も吹っ飛ぶ」
青葉くんは私の手の中を、暗い顔で見つめて言った。
「それ、もういらないです。預かってほしいと言いましたが、もう慈さんにあげます」
「……。」
これを売ればなかなかの金額に──とは思ってない。
それより、あんなに一途な青葉くんがとうとう自暴自棄に──。
「俺がそれを持ってる限り、きっと、諦められないから」
そう言って、目を伏せた。
この前は「諦めたくない」って言ってたのに──。
もしかして、今日電車に乗れなかったのもあって気分が落ちこんでいるのか──?
「どうとでもしていいですよ、売ってもいいし、誰かに譲ってもいいし、慈さんがつけても……いや、それはさすがにおかしいか」
違う人にあげるはずだった婚約(?)指輪を私につけろと?
「いらないよ。もう一度清可さんに渡してあげてよ」
「え、なんで名前を知って……遥斗か」
察しが良いじゃないか。
「とにかく、清可のことは、もういいんです。……そうするしか、できないから」
青葉くんの目が涙をためているように見えるのは見間違いか──?
これは大分落ちこんでるな──。
でもここは、なんとしても受け取ってもらわなくては。
青葉くんと清可さん、二人の未来のために。
「……いい?よく聞いて。私は断言できる。遥斗くんの話を聞くに、清可さんは、あなたのことが好きだよ。だから今度こそ必ず、受け取ってくれる」
遥斗くんじゃなくて、清可さんから直接気持ちを聞いて、知ってるだけだが。
──自分でもおせっかいだなあと思うけど、この人、見てられない。
「なんでそんなこと……言い切れるんですか」
青葉くんは目を泳がせ、あきらかに気持ちが揺れている。
清可さんのこととなると簡単だ。
さあ、もっと押せ。
「だって、青葉くんには良いところがいっぱいある」
「え?」
たしかに、最初の印象は最悪──というか痴漢だった。
でも、あれからまだ少しの間だけど青葉くんと一緒に過ごしたら、かれはすごい人なんだと気づいた。
「だって、一人の人を、何度フラれても一途に思える誠実な人なんてなかなかいないし、それに私、青葉くんにとてもひどいことをしてしまったのに、なんだかんだ簡単に許してしまうくらい情に厚いし、そのせいで乗れなくなった電車……トラウマを克服するために、すごく頑張ってて……。とにかく、清可さんをもう一度振り向かせられるくらい、青葉くんはすごく立派な、男気のある人だと思う。私だって青葉くんのこと好きだと思ってるから、自信持ちなよ!」
そう言って、気合いを入れる意味でバシンとかれの背を叩く。
「……。」
景気よく褒めたのに、青葉くんは黙りこんでいる。
どうしたのかと思いその横顔をしばらく観察すると──、両頬が赤く染まり、だんだんと広がって耳まで赤くなり、目はおろおろと泳ぎはじめた。
「……ど、どうしたの?」
私まで動揺していると、か細い声が漏れ聞こえた。
「じょ、冗談ですよね……?」
「え?」
え、〝冗談ですよね〟──?
というかもしかして、もしかしなくとも、好きという言葉を──。
いや、でも、ここで私が動揺を見せるわけには──。
ますます好きという言葉が力を持ってくる──。
「いや、好きっていうのは、人として好感が持てるという意味です」
うん、間違ってない。
それなのに、青葉くんはますます赤くなって動揺している。
「そ、そうですよね! お、俺……」
そして黙りこんだ。
き、気まずい──。
でも、ここは年上として、きっぱりと──。
「だからこれ……」
「あ、あの、り、立派な、男気ある男としてのプライドで訂正しますが、フラれたの、一度だけです」
青葉くんは私の言葉を遮ると、きっぱりとそう言った。
そういえば、何度フラれてもとか何とか言ってしまったか?
「あ……ごめん」
そして再びおりる沈黙──。
ものすごく気まずい──。
早く指輪を渡して、この場から逃げよう。
「じゃあ、これ、渡してあげて」
「い、いや、でも……」
ためらう青葉くんの手に、ビロードのケースを無理やり握らせて、私は逃げた。
「……。」
そのちいさな四角いハコを、今度はさっきと違うことを考えながら見つめる背中は目にすることなく。




