第4章 ⑦
「イズクを私の部屋に来るよう呼んできてくれ」
二日がかりで戻ってきた矢先に、そう命じられた椎菜は、レクスの並々ならぬ様子に、黙々と従わざるを得なかった。
(私は女中じゃないわよ。大体、兄貴を呼びに行くくらい自分で……)
「――あ。行けないのか……」
ひとりごちて、小さく息を吐いた。レクスの衝撃はそれほど大きいのだろう。
イズクの関与を疑っていた自分を恥じているのかもしれない。
(何なんだろう?)
詰め寄って洗いざらい吐かせたいのは本心だったが、そんなことをして何になるのか。
椎菜は帰りたいのだ。
屋敷の人間からは、カルラの件があってから益々遠巻きで見られるようになっていた。
屋敷内の自由はあるが、監視されている感じすらある。だから、椎菜は他の女中に伝えることもできずに、自らイズクの部屋に行く羽目になっているのだ。
(帰るには、丁度いい機会じゃない)
それでも、何故だろう。心がもやもやするのは……。
「何してるんですか。人の部屋の前でぼさっと突っ立ったままで」
「……あっ」
顔を上げると、イズクが訝しげに椎菜を見下ろしていた。迷わずに辿り着けたまでは良かったが、ノックをしようとして、立ち尽くしたままでいたらしい。
どんな嫌味が飛び出してくるだろうか……。
覚悟をしたものの、今日のイズクは怖いほど穏やかだった。
「丁度良かった。俺も貴方に用があった」
「あの……」
逆に椎菜の方が彼の様子に困惑した。
「何ですか。その顔は? どうせ、殿下が俺を呼んでいるんでしょう?」
「そうですけど。……何で分かったんですか?」
「殿下が早く帰って来たからです」
「はっ?」
イズクは椎菜を部屋に招き入れる。無言の圧力のようなものに耐えかねて、椎菜も室内に入った。掃除機のアジャスターが室内でころころと音を立てた。
「城からの帰りが早かったのは、殿下の気持ちに変化があったからでしょう」
「……変化というか」
「イグリードに会ったんですね……?」
これは言っても良いのだろうか。しかし、沈黙は肯定に等しかった。
「……会ったんでしょう?」
念を押されれば、うなずくしかない。
「シーナ。ちなみにイグリードはどんな容姿をしていたんですか?」
椎菜はぎくりと肩を揺らした。
「どんなって、金髪で緑の目の……普通の外人の男でしたよ」
レクスの叔父だったとは言えなかった。言いつけを守ろうと思ったわけではなかったのだが。
「俺にしてみれば、貴方の方が外人ですよ」
イズクは乾いた笑みを浮かべながら、椎菜から離れた。
「察するに、王族でしょうね……」
「そうなんですか?」
とぼけてみせたが、イズクにはお見通しなのかもしれない。
「金髪で緑の目といったら、殿下がそうじゃないですか」
「ああ、そうかって。…………えっ?」
「殿下はイグリードが異国人であると思いこみたかったみたいですが……。でも、異国人でないのなら、この国で聖術が使えるのは、王族以外考えられない」
言われてみれば、あの派手な容姿はレクスと国王に共通している。
「あの方は分かりやすい方です。イグリードをどうにかできなくなってしまって、どうしたら良いのか分からなくなってしまったのでしょう」
「お母様と仲が悪いようでした……」
「それは、俺のせいもありますけど」
「――あ」
イズクは庶子だ。イズクを保護しているレクスに対して后が良い顔をするはずがない。
聞いてはいけないことだったかと、後悔してイズクから視線をそらす。
ふと、殺風景な部屋の床に目を向けると、見覚えのある図形が描かれていた。
(これって……?)
アルファベットに似た文字と、鳥のような模様を真ん中に、赤い円で囲んでいた。
「確か……」
椎菜がしゃがんで、まじまじと覗き込んでいたところで、イズクが椎菜の肩をぽんと叩いた。
「貴方も覚えていたようですね。魔法陣」
「はっ?」
――魔方陣。
真摯にそう言われると、ファンタジーに免疫のない椎菜は戸惑ってしまう。
「召喚術は四代前と七代前の王が持っていた力です。遠い場所から召喚する場合と、至近距離から召喚する場合と、それぞれ陣の書き方が違うのだと王の記した記録書に書かれていました」
「……それは、長い説明開始の序章ですか?」
「いえ。終了です。つい、先ほど完成しましたからね」
「もしかして……?」
「魔法陣ですよ。言ったでしょう。丁度良い機会だったと……。貴方がここに訪ねて来なければ俺の方から出向く予定でしたから」
「…………私、日本に帰れるんですか?」
レクスがいくら返すと言ったところで、イズクの準備が出来ていなければ無理だった。
――本当なんだろうか?
椎菜の気持ちを的確に読んだのか、イズクはもう一度うなずいた。
「返しますよ。幸い殿下の女嫌いもだいぶ……、直ってきたようですし。内部事情をぺらぺらとしゃべった甲斐もあったものです」
「ぺらぺらって……」
「人形に話しかけているようなものです」
「……人形。へえ」
いちいち癇に障ることをぺらぺら語ることができる男だ。
だが、こんなことでイズクに喧嘩を売っても仕方ない。
「とりあえず、私レクス様のところに……」
「その必要はありませんよ」
「えっ?」
イズクは椎菜を立たせると、どんと突き飛ばした。彼の描いた円陣の中で椎菜は尻餅をつく。
「……いたあっ。何するんですか?」
「そこで大人しくしてなさい。殿下を呼ぶとまた面倒なことになりますから……」
「はあっ!?」
面倒なことに巻き込んでいるのはそちらの方ではないのか。
まるで、用済みと言わんばかりの仕打ちだ。しかし、イズクは椎菜を隔絶するよう目をつむり、壁に立てかけていた年季の入っている木製の杖を持ち出してきた。
瞳を閉じているのは、椎菜を無視して集中するためだろう。
……ちょっと待て。
「私は貴方の道具じゃないんですよ。呼び出したり、返したり、都合良く振り回して……。人を何だと思っているんですか……」
「……ああ、そうか。すいません。俺としたことが、すっかり忘れていました」
イズクは置き去りとなっていた掃除機を、椎菜のもとに放った。
「それ、貴方の大切な道具じゃないですか。それにその格好、とてもお似合いですよ」
にっこりと、イズクは満面の笑みだ。まったく椎菜の言い分など聞いちゃくれないらしい。
椎菜は感情にまかせて、円陣の外に出ようとしたが、電線に触れた時のような痺れが指先を走り、再び後ろに倒れこんだ。もはや、観念するしかなかった。
「でも……。せめて、別れの言葉くらい……」
「どうせ別れるのに、言葉なんて必要ないじゃないですか?」
イズクはあらかじめ用意していたかのように、しれっと答え、杖の先を二回床に打ちつけた。
途端に、魔方陣の中心部は先ほどよりも光が強まり、外壁からは風が吹き上がってくる。
そして、白光は椎菜の体を包み始めた。
イズクの言う通りだ。この先、二度と会うこともない相手と挨拶を交わす必要もないのではないか。全部夢だったと思えば……。
ーーーーだけど。
その先のイズクの言葉は、夢だと思うには後味の悪い別れの言葉だった。




