第4章 ⑤
「何をしていたんです。父上?」
「レクス……様?」
レクスはおもいっきり眉間に皺を寄せて、つかつかと入ってきた。
椎菜には一瞥もない。
「これはどういうことですか?」
「お前がこの子を、置いて行ったのがいけないんじゃないか?」
「置いて行ってなどないですよ。…………これは母上の仕業です」
途端に、アイルの表情が険しくなる。
「サラの……?」
サラというのが后の名前らしい。
「母上がシーナと私を隔てました。私はいきなり衛兵達に連行されたんですよ。丸腰の私にはそれを打ち破る術がなく、随分な遠回りになりました」
レクスが背後に目をやった。いつの間にか、扉の外に紫のドレス姿の女性が立っていた。
体にフィットしたドレスはまるでチャイナドレスのようである。
部屋中に漂う花の香りが、椎菜の鼻腔を擽った。
(あの人が后?)
后は部屋の中に入ろうとはしない。大きな白い扇で顔を隠していた。
「あら。遠回りなどではないでしょう。王子。至近距離です。久々に母と会ったのですから、まず下賤な女は捨て置いて、母の前で跪き、手の甲に口づけをし、今日も母上はお綺麗ですねと挨拶し、母を抱きしめて、私の理想は母上のような御方ですと言うだけのことでしょう」
「やめて下さい。恥ずかしい」
「……本当にやったんですか? レクス様」
「そんな目で見るな。シーナ! お前のためだったんだからな」
レクスが涙目になったので、可哀想になった。この母がいたのなら。女嫌いにもなるはずだ。
「貴方達は、何を見つめ合っているのかしら? 汚らわしい。大体どうして、私が庶民の娘などと会わなければならないのです?」
「シーナは、異国の王族の娘です。私の客人ですよ」
レクスが怒りの余り、椎菜を王族と言ったのは理解できたが、メイド服の王族などいないとつっこみたいのも事実だった。 ……案の定
「胡散臭い娘などと目を合わせたくもないわ」
ーーと、后は、つんと横を向いてしまった。
レクスの目が椎菜に謝罪を告げていた。
(別にいいのに……)
やっぱり、レクスは変に気を使うおかしな奴だ。
「サラ……か」
「お久しぶりです。陛下」
「同じ宮中にいるのに、なかなか会わないものだね?」
「ええ、お互いに会う気がなければ、会わないで済むというのは、良いことですね。陛下」
穏やかに話してはいるが、サラの瞳は、アイルを映してなどいなかった。
「次はこの下賤な娘に乗りかえるのですか? 構いませんよ。むしろ悪い虫が王子から離れてくれるなら大歓迎です」
「母上!」
――悪い虫って、絶対椎菜のことだろう。
しかし、妙なことになってきた。話し合いというより、これでは夫婦喧嘩の仲裁だ。
「王子よ。母上がこの娘を私にくれるって?」
「あげません。私が許可していませんから」
レクスは椎菜を庇うように、アイルの前に立った。
「違うでしょう。父上。私は別に夫婦喧嘩を助長するために、来たわけではないのです」
「じゃあ、何?」
追放しておいて、この親父は何を言うのか?
唇を強く噛みしめた椎菜に比べて、レクスは恐ろしいほど冷静沈着だった。彼にとっては予想通りだったのかもしれない。
「父上。私は一度、きちんと貴方とお話したいと思ったのです。しかし、話し合いの席にはこの男は必要ないでしょう?」
レクスはイグリードを指差した。
「…………しかし」
アイルは歯切れ悪く、サラを見る。素晴らしく尻に敷かれているようだ。
サラは肩で風を切りながら、鼻をつんと上げて室内に入ってきた。
「王子。私との謁見が望みだったんじゃなかったの? 父上とお話したいのなら、ちゃんと許可をとりなさい」
「自分の父親に会うのに、どうして許可が必要なんですか?」
「貴方は庶民の考えに染まりすぎなのよ」
「次代国王を継がなければ、私はただの庶民に過ぎない」
「愚かな庶民を補佐官になどするから、こんな目に……」
「それは、イズクのことですか?」
サラのまとう気配が一変した。顔は見えずとも、椎菜にも分かる。
扇の下で后の気持ちは揺れ、強張り、それから吹っ切れたらしい。
サラは力を抜くと、椎菜と向かい合った。
「お前ね。王子をけしかけたのは……?」
「けし……?」
「王子は任を解かれてから、一度も王宮に来たことがなかったの……。だから、お前が王子に吹き込んだんでしょう?」
「私は何も……」
「じゃあ、何の為にここに来たの?」
「はっ?」
「母上。彼女は私の……」
「お黙りなさい」
厳しい姑を地でいくようなベタな態度に、椎菜は頭を抱えた。
謎の嫁姑バトルが見事に勃発しそうな気配だ。
「何の用もないのに、のこのこ王子について来たわけ? そして私の夫にまで手を出したと?」
「出してません!」
断言した。むしろ迫られていたのは、椎菜の方だ。
(ああ……。本当、賠償請求したい)
「私は……、ただ掃除機を」
椎菜は自棄になって、掃除機を引き寄せた。
「これを売りに、私はこの国に来たんです」
サラが扇子を畳んだ。真っ赤な口紅の碧眼が椎菜を見下ろしていた。
椎菜には興味がないのだろう。掃除機に興味を抱いているらしい。
「…………シーナ?」
レクスが心配そうに、椎菜をうかがっていた。
椎菜が掃除機で人殺しをしないのか、心配なだけかもしれない。
「これは、掃除機という代物でして、室内のゴミを吸ってくれるものです。太陽電池で動いているので、電気料金を心配せずに……あ、電気自体がここにはないのか」
「それを異国から、お前がたった一人で売りに来たっていうわけ?」
「はい、陛下。うちの父、えーっと小国の国王が、借金して姿をくらましてしまって、これを売らないと国民が飢え死になんです」
「そうだったのか。シーナ」
レクスの方が驚いている。
「……まあ」
家族が飢え死にするかどうか分からないが、かなり危険なことには違いなかった。
「しかし、私の髪も吸われかけたぞ。ゴミ以外も吸ってしまうのか」
「これ太陽の力で動いているので、どうにも吸引力の調整が難しくて……」
なんだか話の方向が痛々しい。
掃除機の話を、どうして掃除から一番程遠いところにいる王族に話しているのだろうか。
「もう一度試してみせてくれ」
「いいですけど……」
アイルにせかされて、椎菜は電源を入れた。今度はボタンを間違えることなく「弱」にした。
ゴミの一つもないピンピカの大理石の床の上に掃除機のノズルを置く。
傷つけないようにするほうが難しそうだった。
「おおっ。それも使用法の一つなのか?」
「そうなのかっ。シーナ!?」
「…………言いませんでしたっけ?」
「知らん」
親子だ。こういう鈍いところはよく似ている。
「ちょっと貸してくれ」
「あっ、ちょっと」
「父上」
椎菜の手から、アイルが掃除機を奪う。途端に事件が起こった。
ほとんど部屋の調度品と化していたイグリードの裾を、掃除機が吸い込んだのだった。
「イグリード!」
アイルが叫んだ。だが、もとより電源を切ったこともないアイルはただ吸引力に飲み込まれるだけで、かえって裾が掃除機に飲み込まれるだけだ。
そうだった。
アイルは聖術が使えないという話だった。
――イグリードが自分で止めるしかない。
しかし、咄嗟のことで動揺しているイグリードは、無駄な抵抗をするだけだ。
……必死で裾を引っ張っている。
イグリードがつけている縦長のイヤリングが激しく揺れている。スカートが捲れた女性が一生懸命戻そうとしているポーズに似ていた。
ちょっと……、かなり間抜けである。
「イグリード!」
后が悲鳴交じりに片手を伸ばした。ぱちんと火花が散って、掃除機の暴走は止まった。
(一体、これで何度目よ……)
日本で普通に生きていたら、ここまで掃除機に翻弄されるようなことはないだろう。
椎菜はほっと息をついて、渦中の人物を見上げた。
ーーーしかし。
「―――あ」
その場にいた全員が声を揃えた。
……イグリードの仮面がはずれて、床に落ちていた。




