第6話 死の聖域の境界線
[ Title: 黄泉送りの陰陽師; Chapter: 6 (死の聖域の境界線); Genre: ローファンタジー; Tags: ]
凍てついたアスファルトの表面を這う白い霜は、まるで生きた細根のように不気味な脈動を繰り返していた。賀茂の或が身を隠す崩れかけたコンクリートの塀の向こう側では、北欧神話の死の女神ヘラの眷属が放つ絶対零度の気圧階梯が、周囲の空間からあらゆる熱量を奪い去っている。そこから漏れ出る冷気は、或の古びた陰陽寮制服の布地を針のように突き刺し、露出した頬の皮膚にピリピリとした痛みを残した。
右腕のサラシの下で、半神半魔の崩壊の名残である青黒い呪印が、熱を帯びた鼓動を激しく打っている。地下の黒曜石の祭壇で自らの血を捧げて以来、その呪印は帝都全域を網羅する魔導インフラの狂った周波数と常に共鳴し、或の神経を内側から引っ掻くような鈍痛を放ち続けていた。しかし、その肉体的な負荷を忘れさせるほどに、或の煤色の瞳の奥に宿る光は冴え渡っていた。転生者たちが誇る自動防御の結界や、管理機構の魔導モニターの監視網が完全に沈黙しているこの領域こそが、システムを持たない生身の人間である或にとって、唯一の勝機を生み出すためのデッドゾーンであった。
或は左手の指先で、懐から取り出した素朴な木製の呪木をしっかりと握り締めた。
スラム街の濁った暗渠の底や、廃品置き場から拾い集めたただの古い霊木にすぎないその木片には、幾重もの細密な手作業でエルダー・ルーン文字の破壊と拘束の刻印が刻み込まれている。表面には、或自身の指先から滲み出た血と粗悪な墨が黒々と塗り込められ、周囲を漂う死の眷属の冷気と触れることで、微かに青白い霊的アークを散らしていた。
「……システム教会がどれほど神聖な聖域の理を定めていろうとも、空間の位相を歪ませている根本のエネルギーが北欧のルーンと東洋の五行の交差点にある以上、位相の逆算さえ行えば必ずこじ開けられる」
或は低いトーンで独りごちると、冷え切った大気の中で一際大きく息を吸い込んだ。
前方から吹き付ける死の波動は、人間の肉体を分子レベルから凍結させ、魔力回路を強制的に破裂させるほどの絶対的な圧力を誇っている。一般的な陰陽寮の雑兵や特務部隊の者たちであれば、その気流の前に立った瞬間に血流が凍りつき、音もなく崩れ去るだろう。だが、或は一歩も引くことなく、左手に持った特製の呪木を凍てついたアスファルトの割れ目めがけて力強く突き立てた。
ガツン、と硬質な衝突音が響き渡り、木製の呪木の下端がコンクリートの亀裂の奥深くへと噛み込む。
その瞬間、或の右手首の呪印が激しい光を放ち、木製の呪木に刻まれたエルダー・ルーンの刻印が一斉に起動した。
東洋の陰陽道が説く五行相生相克――木生火、火生土、土生金、金生水、水生木の循環構造を、あえて北欧のルーン文字が持つ破壊と拘束の位相へと無理やり直結させる。本来、異なる神話体系の理をこのような強引な手口で接続すれば、術者の肉体そのものが相剋の反発を受けて四散するのが当然の理であった。だが、地下の祭壇で血の共鳴を経て覚醒した或の呪術は、その矛盾の極限点すらも自らの肉体の痛みを引き換えて完全に制御下へとねじ伏せていた。
「――相生を断ち切り、相剋の網目で縫い合わせる。……通れ」
或の低い号令とともに、木製の呪木から放射状に伸びた微細な魔力の糸が、路地裏のあちこちに事前に打ち込んでおいた反転結界のアンカーへと一斉に接続された。
パチパチ、と青白い放電音が大気を切り裂き、周囲の空間を侵食していた絶対零度の死の波動が、或の展開した対抗結界の境界線にぶつかって激しく相殺される。圧倒的な冷気と死の眷属の気流が、まるで目に見えない壁に押し戻されるようにして或の周囲で渦を巻き、その中心だけが奇妙な静寂に包まれた。システムの自動防御が届かず、かといってヘレナの暴走波が完全に支配しきれていない、極限の死角。それこそが、或が自らの手でこじ開けたデッドゾーンの領域であった。
しかし、その対抗結界の展開がもたらした負荷は、生身の肉体を持つ或の限界を容赦なく削り取っていた。
「ぐっ……!」
喉の奥から押し上げられるような熱い血の味を、或は奥歯で舌の側面を強く噛みしめることで無理やり呑み込んだ。右腕の皮膚がミシミシと音を立て、青黒く変色した呪印の隙間から細い血の筋が滲み出してサラシを赤く染めていく。帝都全域を網羅する魔導インフラのノイズが、或の神経系に直接突き刺さるような激しい頭痛を引き起こし、視界の端が幾重にも明滅した。
転生者たちが持つような自動回復のチートスキルなど一切ない。或が払っている代償は、すべて自らの肉体の血と痛みに直結したリアルな現実そのものであった。
その時、デッドゾーンの境界線の向こう側――凍てついたアスファルトの深い霧の向こうから、不気味な異音が響き渡った。
カチッ、カチッ、と硬い爪先が氷の床をひっかき、重い引きずるような足音が或の展開した結界の外側へと近づいてくる。それは管理システムの自動防衛プログラムが発する規則的な稼働音ではなく、北欧神話の奈落から這い出してきた死の眷属の残滓が放つ、生きた肉の気配と腐敗の匂いを伴った不規則な足音であった。
或は痛む右腕を押さえつつ、煤色の瞳をさらに鋭く細め、突き立てた呪木から伝わる微細な振動を通じて外の様子を冷静に探った。
(……システムの網が完全に死に体となったこの空白地帯に、いまだに這い回る虫けらがいるとすれば、それは管理機構の人間ではなく、裂け目の底からあふれ出した本物の異界の残骸か)
或が心内で冷徹に状況を分析していたその矢先、目の前の空間を遮る冷気の霧の向こう側から、思いがけない音が響いた。
それは、周囲を圧倒する死の眷属のうめき声や、暴走する絶対零度の風の音にかき消されそうなほどにか細く、しかし確かに人間の子供のものと聞き分けられる、微かな泣き声であった。
「……ぁ……だれか、たすけて……よ……」
か細く震えるその声は、高飛車な転生者特権階級の誇り高いトーンでもなければ、管理機構の冷徹な自動放送の響きでもない。それはまさしく、この帝都第七特区の底辺で踏みにじられ、理不尽な神話の暴力に巻き込まれて怯える無辜の人間――あるいは、その極限状態に精神をすり潰された少女の、剥き出しの素の声であった。
或の眉間がわずかに険しい皺を刻み、その煤色の瞳に一瞬だけ複雑な色宿りが走った。
烏丸小路スラム街の泥の深さで生きる者たちにとって、他人の泣き声に同情している余裕など本来は一分一秒たりとも存在しない。神々の黄泉還りの波が押し寄せるこの世界では、他人に手を差し伸べた瞬間に自分がその泥の底へ引きずり込まれるのが、この街の冷徹な鉄則であった。或自身、これまでに数え切れないほどの絶望と死の気配を目撃し、自分以外の者を救うことなど端から切り捨てて生き抜いてきたはずだった。
だが、その声の響きに含まれる異常なまでの恐怖の質は、単なる一般の避難民のものとは明確に異なっていた。それは、自らの内に巣食う強大なチートスキルとヘラの神気に精神を乗っ取られ、人間としての自我そのものが崩壊しかけている者の発する、悲鳴に近い絶叫の残滓に他ならなかった。
「……馬鹿な。あんな特権階級の真ん中でチートを振り回していた人形が、今さら何を……」
或は自嘲気味に呟きを漏らしながらも、右手首のサラシをもう一度きつく巻き直した。
その声の主が誰であるのか、或の頭脳は一瞬にして導き出していた。大通りの中央で絶対零度のフィールドを暴走させ、自滅の淵に立たされている純白のゴシック風コートの少女――ヘレナ・フォン・エッダ。彼女こそが、先ほどまで高飛車な言葉で或を蔑み、システムを持たない下級民として切り捨てようとしていた張本人にほかならない。
だが、今のそのか細い泣き声の響きには、選ばれし神民としての傲慢な誇りのかけらすら残されていなかった。そこにあるのは、自分よりも遥かに巨大で理不尽な神話の理に精神をすり潰され、システムという名の怪物の歯車に挟まって泣き叫ぶ、ただの怯えた一人の少女の姿だけであった。
(……システムに過剰適応し、自分自身が神話の駒であることすら気づかずに酔いしれていた連中が、いざその理が逆流した瞬間にこれほど無様に崩れ去るか。……滑稽だな)
或は冷徹な皮笑いを浮かべ、地面に突き立てた呪木に手を添えたまま、前方の霧の向こう側をじっと見据えた。
しかし、その冷笑の裏で、或の胸の奥に渦巻いていたのは単なる侮蔑だけではなかった。システムという絶対的な権威に寄りかかり、努力や血を流す修行の価値を踏みにじってきた特権階級の連中が、いざ危機に直面した時にどれほど脆い基盤の上で踊らされていたのか。その現実を目の当たりにすることは、或が心底から軽蔑してきた世界構造の偽りを、最も鮮烈な形であらわにしていた。
その時であった。
或が展開している対抗結界の境界線の外側――デッドゾーンを形作る凍てついた空気の壁の向こう側から、突如として異様な「引っかかれるような摩擦音」が響き渡った。
ガリッ、ガリガリッ……と、硬質な何か尖ったものが、或の仕掛けた逆相ルーンの結界面を内側から鋭く引っ掻き、引き裂こうとする不気味な気配が走る。それは先ほどの死の眷属の足音とは比較にならないほど重く、底知れぬ悪意と狂気を帯びた霊的圧力を伴っていた。
「……っ!」
或は反射的に姿勢を低くし、右手首の呪印から発せられる熱を頼りに周囲の魔力の流れを確認した。
或が展開した対抗結界のアンカーが植え付けられた路地裏の地面が、わずかに逆巻くようにして震え始める。管理機構の自動防衛網が完全に凍りつき、表通りの華やかなインフラが沈黙したこのデッドゾーンの深部において、或の知らない別の何かが、すでにこの領域の内部へと足を踏み入れ、あるいは或の足元にまで忍び寄っていた。
漆黒の霧の向こう側から、ふと、かすかな冷笑のような気配が漏れ伝わる。
それはヘレナの泣き声とも、或の警戒する特務部隊の動きとも異なる、もっと古く、もっと禍々しい神話の残滓そのものが持つうねりであった。或が突き立てた呪木のエルダー・ルーンの刻印が、過剰な負荷に耐えかねるようにしてピシッ、と微かな亀裂音を立てる。
(……なるほど。俺がこのデッドゾーンをこじ開けたのと同時に、向こう側からも別の『招かれざる客』がこちらの位相に干渉し始めていたというわけか)
或は煤色の瞳に一層冷徹な光を宿し、懐から残された最後の一枚となる特製の逆相ルーン呪符を指先でしっかりと挟み込んだ。
ガリッ、と金属板を鋭い爪先で引っかきむしるような異音が、或の展開した対抗結界の背後で再び響いた。
それは冷気の霧の向こう側から這い寄る何者かが、或の打ち込んだ呪木の霊的アンカーに直接爪を立て、その位相を内側から引き裂こうとしている明らかな証拠であった。或は右手首のサラシの下で脈打つ青黒い呪印の熱を左手で制するように押さえ込みながら、路地裏の凍てついたアスファルトへとさらに半歩重心を沈めた。
「……小細工を弄して潜り込んできたつもりが、こちらの足元もとうとう荒らされ始めたというわけか」
或の低い呟きは、周囲で渦巻く絶対零度の風の音にかき消されそうになりながらも、冷徹な響きを失っていなかった。地面に突き立てられた手製の呪木は、絶えず押し寄せる死の眷属の気圧階梯と、内側から削りにかかる正体不明の引っかき傷によって、木肌のあちこちに細かいひび割れを広げ始めている。このままでは、或が自らの血肉を代償にこじ開けたデッドゾーンの均衡すらも数分を待たずに瓦礫の山へと押し潰されるだろう。
しかし、その切迫した状況にあっても、或の頭脳は逆に冴え渡っていた。
転生者たちが誇る自動回復のシステムや、空間そのものを一瞬で吹き飛ばすような圧倒的な魔力タンクは、このような泥臭い足場の削り合いにおいては何の役にも立たない。彼らが頼るシステムは、あくまで「安定した環境」と「綺麗に整えられたステータス値」という前提の上でしか機能しない脆弱なプログラムの継ぎはぎにすぎないからだ。
「……どれほど派手なチートスキルを並べ立てようが、足元の地脈とルーンの位相を逆相で引っぱたけば、ただのガラクタと同じように綺麗に弾け飛ぶんだよ」
或は懐から麻の布袋を探り、指先で最後の一枚となる血塗られた逆相ルーン呪符を引き抜いた。
表面に刻まれた五行の相生を断ち切る相剋の網目は、周囲を漂う死の眷属の冷気に触れて青白い微光を明滅させている。或はその呪符を地面に突き立てた呪木の中腹に素早く巻き付け、自らの指先から再びわずかに血を滲ませて新たな呪印を上塗りした。東洋の陰陽道における「金生水、水生木」の循環をあえて「火」の相剋で逆転させることで、接近してくる不可視の存在の魔力回路に対して強烈なフィードバックの衝撃を叩き込む。
「――来い。お前がどんな神話の残滓であれ、この泥の底の理からは逃れられん」
或が低く吐き捨てると同時に、呪木に巻き付けられた呪符が一際まばゆい青白い閃光を放って爆発的に起動した。
ズウン、と足元のコンクリートの底で重い地響きが走り、対抗結界の外側で或の結界を引っ掻いていた見えない何者かが、激しい相剋の反発を受けて鋭い悲鳴のような霊的ノイズを上げて弾き飛ばされた。凍てついた霧の向こう側で、漆黒の影がひとまわり大きく揺らぎ、その気配がわずかに後退していくのが或の鋭い五感に捉えられた。
しかし、その反撃の代償として、或の右腕の呪印から走る激痛はもはや神経を麻痺させるほどの領域に達していた。
「っ……!」
喉元まで出かかった荒い息を呑み込み、或は壁に手をついて辛うじて身体のバランスを保った。サラシを赤く染めた血の温もりが、凍てつく夜気の中で急速に冷やされていく。それでも或は、煤色の瞳から闘志の光を消すことはなかった。前方の霧の向こうでは、暴走を続けるヘレナの絶対零度の聖域が依然として不気味なうねりを上げており、帝都の一角を凍てつく闇に完全に呑み込もうとするその圧力は、一瞬たりとも衰えていなかった。
或は荒れた呼吸を静かに整え、なおも凍りつく路地裏の影を縫うようにして、その死の聖域の境界線のさらに奥へと一歩、確かな足取りで踏み出した。頭上でうねる黄泉比良坂の紫黒い裂け目は、次なる破滅の瞬間を待ち構えるかのように、重く冷たい静寂をその場にたたえていた。




