第22話 地下水脈の仮り宿
冷たいコンクリートの闇は、地下の保守通路を進むにつれてその湿度を増し、下水の腐敗臭と異界産の泥炭が混ざり合った独特の澱んだ空気が賀茂の或の肌を刺した。頭上でうねる黄泉比良坂の紫黒い瘴気は、建物の基礎を伝ってこの深部まで重く垂れ込めている。或は足音を完全に殺し、錆びた鉄板と古い配管がむき出しになった通路をひたむきに奥へ進んだ。
旧校舎の地下深くに存在する古い配管室は、かつてこの帝都第七特区の地盤が縫い合わされた初期の時代に建造されたまま、管理機構のデータベースからも半ば忘れ去られていた空間である。石造りの壁面には染み出した地下水が細い筋を描いて伝い、床のあちこちに転がる素焼きの灯火皿の残骸が、かつてここで細々と営まれていた人間たちの生活の痕跡を物語っていた。
暗がりに身を滑り込ませた或を待っていたのは、風祭鈴音であった。彼女は配管室の中央に置かれた木製の古びた作業台の傍らに立ち、一対の銀色の神楽鈴を指先で小さく転がしながら、静かに或の到着を待ち構えていた。その制服の裾や袖口にはスラムの暗渠で付着した泥が乾いてこびりついていたが、その冷ややかな黒曜石の双眸には微小な揺らぎすらない。
「遅かったじゃないか、或。新校舎の方ではあの狂犬が暴れ回り、自動警戒ドローンの赤外線がこの地下の天井すれすれまで這い回っているというのに……随分と優雅な散歩だったことだね」
鈴音の冷ややかなトーンの裏には、この破綻しかけた防衛線を維持するための極限の神経戦が孕む焦燥が、尖った針のように隠されていた。或は無言のまま作業台の脇へと歩み寄り、古びた木箱の上に古びた木簡の束と血塗られた逆相ルーン呪符の残りをどさりと下ろした。
「……土偶のアンカーに仕込んだノイズをあの狂犬に嗅ぎ取られた。正面からの潜入は完全に塞がれたが、この地下の配管ルートはまだ生きている。……そっちはどうだ」
或が低く問いかけると、鈴音は神楽鈴を布の袋へと丁寧に納め、作業台の上に広げられた古い測量地図の切れ端を指先で示した。地図の余白には、スラムの地下水脈からこの配管室を中継して皇神学園の旧生徒会棟へ至る保守回線の結界アンカーの位置が、細い朱墨の線で複雑に書き込まれていた。
「スラムの地下水脈に仕掛けたアンカーは、私たちが残した霊的バルブの共鳴によって辛うじて保たれている。だが、新校舎から逃げ遅れたネイティブの生徒たちの一部が、管理機構の包囲網に追われてこの地下水脈の浅い層へ逃げ込んできているのさ。……子どもや身寄りのない下級民の生徒たちがね。恐怖でまともに歩けない者も多いし、このままではいつ敵の索敵ドローンに居場所を突き止められるか分かったものじゃない」
鈴音の言葉通り、配管室のさらに奥、地下水脈から吹き上げる冷気の混じる細い通気口の向こう側からは、息を殺して身を寄せ合う者たちの微かな震え声や、かろうじて押し殺した嗚咽が、重低音の地鳴りと共にわずかに漏れ聞こえていた。学内の管理機構による威圧的な身元査察から逃れ、或たちの構築した反逆ネットワークを頼りにこの暗がりへたどり着いたネイティブの生徒たちは、極限の恐怖と疲労の底で身を縮こまらせている。
或は煤色の瞳をわずかに細め、その通気口の方向へと一瞥をくれた。感情に流されることはないが、彼らがここで見つかれば、或がここまで積み上げてきた全てのハッキングの動線が根こそぎ断ち切られることになる。生存のための不可欠な防衛網として、彼らをここで見捨てるわけにはいかなかった。だが同時に、足手まといの存在が致命的な変数となり得ることを、或の冷徹な計算回路はすでに弾き出していた。
「……物資の残弾を確認する。鈴音、そっちの保守端末のバックアップデータと、水脈のアンカー用の和紙はどれくらい残っている」
或は自らの懐から、ぼろぼろになった麻の布袋を取り出し、その中身を作業台の上に慎重に広げた。作業台の上には、湿気でわずかにふやけた和紙の束、粗末な墨壺、北欧のエルダー・ルーンの破壊刻印が刻まれた数本の木製小片、そして或が自らの血を媒介にして精製した特殊な霊液の小瓶が並べられた。戦闘を伴わない束の間の静寂の中で、地下配管室の冷たい空気が二人の吐息を白く染め上げていく。
鈴音もまた、自らのポケットから小型の魔導端末と、予備の神楽鈴の留め金を取り出し、正確な数を数え上げていく。
「和紙は一帖半、朱墨の残りは微々たるものだね。監査ログの分散配布をスラムの末端端末で行った分の魔力結晶も、もう底をつきかけている。……私たちに残されたリソースは、お前がその手製で書き殴る呪符の数枚と、私のこの神楽鈴の周波数干渉だけさ。まともな武器も、転生者のような自動回復の加護もない。あるのは、この泥まみれの知恵だけだ」
その現実的な数字を聞き、或は深く頷いた。過酷なスラムの底で生き抜いてきた者にとって、物資の枯渇は日常茶飯事の事象にすぎない。しかし、現在の肉体的な負担は、これまでのいかなる修羅場よりも深刻な限界に達していた。
先ほどの渡り廊下でヴォルフガングの圧倒的な魔導の余波を受けた衝撃により、或の右腕の内部では、かつて負った呪印の逆流事故の古傷が再発し始めていた。厚いサラシの下に隠された青黒い呪印は、周囲の黄泉比良坂の瘴気と共鳴するかのように熱を帯び、ピリピリとした神経の引きつるような鈍痛を或の脳裏へと絶えず送り込んでいる。
(……くそ、右手首の感覚がわずかに鈍っているか。この調子では、細かなルーンの直線刻印を描く際に、わずかなズレが生じる可能性が高い)
或は眉間に深い皺を寄せ、自らの右腕を左手でしっかりと掴み直した。痛みを表に出すことは彼の美学に反するが、客観的な身体機能の低下を無視すれば、次の実戦で致命的な呪式崩壊を招くことになる。
或は作業台の隅に置かれていた汚れた布切れを手に取ると、自らの右手首に巻き付いていたサラシの上から、さらにきつく、血流が圧迫されるほどの強さでその布切れを何重にも巻き付け、歯で端をしっかりと噛み締めて固定した。鉄錆の味が再び口腔に広がり、痛覚を麻痺させる。
「……問題ない。手が動かなくなる前に、必要な分の呪符を書き上げる」
或は冷徹なトーンでそう呟くと、作業台の前に腰を下ろし、一帖の和紙を広げた。懐から取り出した細い筆に朱墨を含ませ、さらに自らの掌のわずかな古傷を爪先で軽く押し開き、にじみ出た一滴の鮮血を墨壺の中へと垂らした。東洋の陰陽道における五行の理――「木・火・土・金・水」の相生相克の循環構造を、北欧のエルダー・ルーン文字の直線的かつ幾何学的な破壊・拘束の刻印と接続させる。この独自の『和洋折衷・呪符結界術』は、システム化された転生者のチート魔法とは異なり、術者自身の肉体の血と、紙の繊維の摩擦という極めて物質的な手間に依存している。
カサカサ、と和紙の上を筆先が走る音が、静まり返った地下配管室に細く響き渡る。極限の緊張状態と肉体の疲労が重なり、最初の一枚目を描く際、或の筆先が微かに震えた。エルダー・ルーンの「ハガラス(雹・破壊)」の文字を構成する斜めの線が、意図したグリッドからわずかに外れかける。
(……っ、駄目だ。集中しろ。ここで線を一本違えれば、呪符を起動した瞬間に逆流の負荷が俺の神経回路を焼き切る)
或は煤色の瞳をさらに鋭く据え換え、呼吸を限界まで細くコントロールした。胸の内の動揺を完全に封じ込め、外部のあらゆる雑音を遮断する。頭上で轟く自動警戒ドローンの足音も、通気口の向こう側で怯えるネイティブの生徒たちのすすり泣きも、すべてはただの背景のノイズへと換算していく。
東洋の「水」の相生循環を逆相のルーンで相殺し、地下水脈から這い上がる死の女神ヘラの気圧階梯を内部からハッキングして無力化するための「逆相・五行水封符」。その一枚目を書き上げるのに、或は普段の倍近い時間を費やした。
やがて、血と朱墨が混ざり合った独特の赤黒い幾何学模様が和紙の全面に定着し、かすかな青白い霊的明滅を放って安定した。或は息を大きく吐き出し、額ににじみ出た冷や汗を袖口で乱暴に拭い去った。
「……二枚目。次は相剋の網目を強化するための『金火結界符』だ」
休む間もなく、或は二枚目の和紙へと筆を走らせる。その姿は、まるで冷徹な機械部品を一つずつ組み立てていく職人のように精密でありながら、同時に自らの命を削り取る儀式にも似た凄みを帯びていた。
作業台の向こう側で、その一部始終を静かに見守っていた風祭鈴音は、或の指先から滲み出る血の匂いと、その過剰なまでの自己犠牲的とも言える執念に気づいていた。彼女は一対の銀色の神楽鈴の柄を優雅に指先で回転させながら、冷ややかな黒曜石の双眸を或の横顔へと向けた。そこには、ただの協力者に対する労りではなく、自らの破滅を省みない共犯者に対する冷徹な警告が宿っていた。
「……お前という人間は、本当に救いようのない頑固者だね、或」
鈴音の声音には、いつもの冷ややかな皮肉の裏側に、どこか見捨てがたい相手の危うさを測りかねる複雑な感情の色がかすかに混ざっていた。「これだけの負荷を自分の生身の肉体にかけ続けて、いつまでその体が持つと思っているのさ。転生者どものように自動で傷が癒えるわけでもなければ、管理機構のような潤沢な魔力タンクがあるわけでもない。……私たちが手に入れた監査ログをスラムの奥へ持ち出す前に、お前自身がその呪符の逆流で先に自壊したら、何の意味もないじゃないか」
或は筆を止めることなく、朱墨を引く手を動かしたまま、冷徹に言い放った。
「自壊するなら、すべてをやり遂げた後だ。……お前が言った通り、俺たちには転生者みたいな甘ったれた予備の命など最初から無い。だからこそ、この一枚の紙切れにすべての計算を叩き込む必要がある。……ここで筆を止めれば、あの狂犬の牙に噛み砕かれるか、あるいは奴らのシステムに飼い慣らされたまま泥水の中で息絶えるだけだ」
その言葉を聞いた鈴音は、それ以上追及する言葉を持たず、小さく鼻を鳴らして視線を天井へと戻した。
「……勝手にするがいいさ。お前が倒れたら、この地下水脈の保守回線も、私が集めたネイティブの生徒たちも全員まとめて路頭に迷うのだからね。私を共犯者に引き入れた責任は、最後までしっかり果たしてもらうよ」
二人の間に、それ以上の言葉は交わされなかった。しかし、その言葉の応酬の底には、過酷な現実の淵で互いの存在を唯一の歯車として信頼し合う、強固な実利的主従・パートナーシップの絆が確実に形成されていた。
カサカサ、と和紙を撫でる筆の音が再び地下配管室の静寂を満たす。或は痛む指先を布切れで幾重にも縛り上げながら、次々と逆相ルーン呪符を形にしていく。一枚、また一枚と作業台の上に積み上げられていく手製の呪符の束は、不条理な神話の理とチートの暴力を覆すための、生身の人間たちが築き上げた最小にして最大の反逆の武器であった。
しかし、その静寂は長くは続かなかった。
配管室の天井のすぐ裏側を這い、幾重にも入り組んだ古い鋳鉄製の配水管の隙間から、それまでとは明らかに異なる異質な物音が漏れ聞こえてきた。それは、ヴォルフガングや査察官たちが放つ人間のものではない重い足音や怒号ではなかった。もっと小さく、しかし無機質に、まるで金属の爪が冷たいパイプの内側を鋭くひっかきながら這いずるような、不気味で乾いた連続音――。
シャリ、シャリ、カサカサ……。
その音を聞きつけた瞬間、或の手がぴたりと止まった。鈴音もまた、指先で回していた神楽鈴の動きを止め、凍りついたように天井の配管を見上げた。
通気口の向こう側で身を寄せ合っていたネイティブの生徒たちの間から、小さく押し殺された悲鳴が漏れ聞こえる。それは追っ手の転生者たちが向かわせた人間の兵士やドローンの気配ではない。皇神学園の旧校舎の基礎のさらに底、黄泉比良坂の裂け目と直結する「神代回廊の実験炉」の最深部から、あるいはこの地下水脈の位相の狂いに乗じて、管理機構の管理網そのものが内側から異常変異を起こし始めたことを予感させる、制御不能の異質な何者かの気配であった。
或はゆっくりと作業台から立ち上がり、書き上げたばかりの最後の一枚の逆相ルーン呪符を懐の奥へしまい込みながら、冷徹な煤色の瞳を天井の配管の継ぎ目へと向けた。頭上で這いずるその音は、まるで地底の底から這い上がる死の眷属の群れが、次の獲物を求めてこの地下水脈の仮り宿の真上に到達したことを告げるかのように、不気味なリズムで刻一刻とその距離を詰めてきていた。




