外の地平
黄泉比良坂の最深部、古びた黒曜石の祭壇から這い上がった賀茂の或は、冷え切った暗渠の泥水を蹴り、幾重にも崩れかけた石段を駆け上がっていた。頭上でうねる紫黒い裂け目の底から吐き出される瘴気は、或の古びた陰陽寮制服の布地を腐食させ、肌を直接焼くような痛みを伴って襲いかかる。しかし、その痛覚すらも或にとっては脳裏の覚醒剤に等しかった。システムを持たない生身の肉体が、地下の祭壇で交わした血の共鳴によって、かつてない異常なまでの熱を帯びて脈打っている。
帝都第七特区南部の烏丸小路スラム街へと戻った或は、誰にも気付かれないように裏通りの暗がりを選び、錆び付いたトタン屋根が折り重なる朽ちかけたアパートの一室へと滑り込んだ。鍵など元からない木製の引き戸を音もなく閉め、内側から粗末な木栓を下ろす。途端に、鼻を突くのは湿った異界産の泥炭の悪臭と、下水の腐敗臭が入り混じったいつものスラムの気息であった。
「……っ、ふう……」
或は低い息を吐き出しながら、狭い板張りの床に背中を預けるようにして座り込んだ。
部屋には電灯の光はなく、天井の隙間から差し込む街のネオンの鈍い光だけが、薄汚れた室内を照らし出している。全身の骨が悲鳴を上げ、特にヴォルフガングのガントレットを受け止めた胸部から肋骨にかけては、呼吸をするたびに鈍い激痛が走った。しかし、それ以上に或の意識を釘付けにしていたのは、自らの右腕の異変であった。
或は右手首に新しいサラシを巻き直すため、ボロ布のように裂けた袖をまくり上げた。そこに現れたのは、もはや人間の肌の色を失い、青黒く変色した幾何学模様の呪印であった。地下の黒曜石の祭壇で古のルーンと血が融合した瞬間から、この呪印はまるで心臓のようにドクン、ドクンと独自の脈動を刻み続けている。それは北欧の死の女神ヘラの神気と、日本の地母神の呪詛が入り混じった「神殺しの呪詛」の残り香であり、一歩間違えば或の肉体そのものを内側から崩壊させる危険な劇薬に他ならなかった。
「……ふん。システムの庇護がなければ生きられない寄生虫どもには、この痛みの意味すら分からまいよ」
或は自嘲気味に唇の端を歪め、鋭い煤色の瞳を細めた。
表向きの平穏を保つ大和皇国・帝都第七特区の表通りでは、今この瞬間も転生者たちが甘美なサロンでワイングラスを傾け、自らのチートスキルに酔いしれていることだろう。だが、その華やかな表通りのすぐ裏で、自分のような下級民やスラムの住民たちは、彼らがまき散らす魔力の余波と空間崩壊の尻ぬぐいをさせられ、泥水をすすりながら命を落とし続けている。ヴォルフガングやヘレナといった特権階級の振る舞いは、その不条理な世界の縮図にすぎなかった。
或はポケットから取り出した血まみれの和紙の切れ端を、机代わりの古い木箱の上に広げた。
手作業で調合した粗悪な墨と、自らの指先から滲み出た血を混ぜ合わせ、竹製の筆に含ませる。通常の陰陽道における五行相生相克――木生火、火生土、土生金、金生水、水生木の循環構造を、あえて北欧のエルダー・ルーン文字が持つ破壊と自然の猛威を司る刻印の配置へと無理やり組み替えていく。
サラサラ、と和紙の上を筆先が走る乾いた音が、静まり返ったアパートの一室に響いた。
本来、大和皇国のシステム教会が定める神聖規則においては、このような独自の呪文の改変や、異質な神話体系の接続は厳重に禁じられた大罪である。システムの管理下にない術式を発動しようとすれば、通常は激しい魔力の逆流を引き起こし、術者の神経系が焼き切れるか、あるいは和紙そのものが一瞬で黒焦げの灰と化すのが落ちだった。
事実、或が最初の呪符を一枚書き上げ、霊力を通そうとしたその瞬間、紙の端からジジジと嫌な音が立ち上り、一筋の黒い煙とともに呪符全体がパチパチと音を立てて炭化していしまった。
「……くそ、やはりそのままではシステム基盤の排他反応を弾ききれんか」
或は舌打ちをし、焦げ付いた和紙を無造作に放り投げた。
転生者たちが持つシステム魔力は、この世界の空気やインフラそのものに深く根を張っている。彼らのチートスキルに対抗するためには、単に古い伝承をなぞるだけでは不十分であり、相手の魔法が発動する瞬間の位相の歪みを逆手に取り、その内部から相剋の属性でハッキングして自壊させるだけの精密な歪みを持たせなければならない。
或は奥歯で舌の側面を軽く噛み、鉄錆の味で思考を研ぎ澄ます。
痛む右腕の呪印からじわりと伝わる熱を頼りに、或は今度は自らの血を一滴だけ墨に混ぜ、より繊細で複雑なルーンの網目を和紙の繊維の奥底へと染み込ませていった。五行の「金」の鋭利な相剋を北欧の縛り鎖のルーンと重ね合わせ、相手の魔力回路の流入経路を物理的に寸断する。数時間の没頭の末、ようやく或の指先から離れた一枚の呪符が、薄暗い部屋の中で青白く冷たい光を放った。
「……よし。これで、あのガントレットの馬鹿どもの魔力回路を内部から引っぱたくための牙は揃った」
或は小さく息を吐き出し、完成した無数の手製呪符を木簡の束の間に丁寧に挟み込んでいく。
だが、その作業を終えてふと立ち上がった瞬間、或の右腕の呪印が再び激しく脈打った。窓の外に広がる帝都第七特区の夜空を走る魔導インフラの送電網と、或の肉体に宿る神殺しの呪詛が、まるで共鳴するかのように微弱な波動を放ち始めたのだ。
(※前話の結末および直前の描写から時間を1秒たりとも巻き戻さず、その直後の続きとして執筆を開始します)
ピリリ、と再び微弱な放電音がアパートの板床を這った。
或は右腕の呪印が放つ熱を抑え込むように、左手でその手首をきつく掴み、荒い息を整える。街の魔導インフラが送るシステム魔力の周波数と、自らの血肉に刻まれた神殺しの呪詛の波長が干渉を起こしている。もしこのままインフラの網に共鳴波を拾われれば、特区の監視システムがこの古びたアパートの位置をピンポイントで特定し、一帯ごと異端審問官の魔の手が伸びてくるのは確実だった。
「……くそ、やはりこの街の空気を流れるシステム自体のノイズが邪魔だな」
或は低い唸り声を上げながら、床に散らばった古びた木簡と呪符の束を素早く麻の布袋に放り込んだ。
ただ一室に身を潜めているだけでは、いずれ壁の向こうから這い寄る魔導の網に絡め取られる。表向きの平穏を保つ帝都第七特区の裏側では、転生者たちが気ままに放つ魔法の余波が、常にスラム街の脆弱な日常を脅かしていた。或は立ち上がり、痛む肋骨を抑えながら、部屋の隅に置かれた水瓶の冷水をすくい上げて喉に流し込んだ。泥臭い鉄の味が舌の奥に広がり、乱れた神経を無理やり引き締める。
水瓶の底に残っていた冷たい濁り水が、乾いた喉を通って胃の腑に落ちていくと同時に、或は胸の奥で燻り続ける鉄錆のような痛みを無理やり押し殺した。窓の隙間から這い入ってくる外気は、真冬のそれに近い冷たさを帯びており、烏丸小路の路地裏を這う下水の腐敗臭を凍りつかせている。
「……これ以上、ここでじっとしていれば、インフラの魔力波長がこのトタン屋根の隙間まで這い寄ってくるか」
或は低い呟きを漏らしながら、麻の布袋に詰め込んだ木簡の束と血塗られた呪符の束をしっかりと背負い直した。右腕に巻いたサラシの隙間からは、相変わらず不気味な熱を持った青黒い呪印が脈打っている。それはシステム教会が張り巡らせた帝都全域の魔導網に対して、一種の異物としての感応を示している証拠であった。もしこのまま監視網の自動索敵に引っかかれば、特異災害対策局の異端審問官や、先ほどまで嘲笑っていたヴォルフガングのような特務部隊の連中が、物見遊山がてらにこの最底辺のスラム街へ踏み込んでくるだろう。
或は慎重に木製の引き戸の隙間から外の様子を窺った。
頭上に広がる烏丸小路の夜空は、相変わらず高層ビルの人工的なネオンと、その狭間に口を開けた紫黒い黄泉比良坂の裂け目が放つ不気味な光とに二分されていた。表通りの大通りでは、転生者特権階級の者たちが乗る最新型の魔導浮遊車が滑らかなエンジン音を響かせて走り抜け、その窓からは華やかな電子音楽と彼らの軽薄な笑い声が夜気へと溶け出している。彼らにとってこの世界は、チートスキルという名の玩具箱であり、そこでどれだけ無茶をしようとも、システムがすべてを肯定し、尻ぬぐいはすべて地べたを這う下級民に回される仕組みになっていた。
(……ふん。せいぜい今のうちにその甘ったれた夢に酔いしれていろ)
或は冷笑を浮かべ、錆び付いた手すりを掴みながらアパートの暗い外階段を音もなく下りた。
足元に広がる烏丸小路スラム街の泥道は、昼間の湿った悪臭を凍らせてぬかるみから固い泥へと変わりつつある。或は使い古した下駄の鼻緒を足の親指と人差し指の間にしっかりと挟み込み、夜陰に紛れるようにして細い路地裏の迷宮へと身を滑り込ませた。
スラムの住人たちは、夜の帳が下りると同時にトタン屋根のバラックの中に身を潜め、外から響く魔獣のうめき声や転生者たちの暴力沙汰に怯えながら息を殺して暮らしている。かつて、或の両親が黄泉比良坂からの漏れ出しに呑み込まれた夜も、このような鉛色の冷気が街全体を支配していた。あの時、天から降ってきたシステムは、絶望する人々を救うどころか、転生者という名の傲慢な特権階級を地上にばらまき、この世界の不条理を決定づけたに過ぎない。
或は歩みを止めず、路地の壁際に幾重にも仕掛けられた微小な手製の警戒結界の糸を指先で確認していく。
自分で書き上げた血染めの呪符と五行の理を応用した反転結界のアンカーは、この烏丸小路の路地裏のあちこちに目立たないように打ち込まれていた。たとえ転生者たちの広範囲魔法がこの一帯をかすめたとしても、この泥臭く張り巡らされた呪符の網が魔力の流れをわずかに分散させ、致命的な崩壊を防ぐ盾となる。
「……木は火を生じ、火は土を生じ、土は金を生じ、金は水を生じ、水は木を生じる。だが、その循環の理をあえてルーンの逆相で断ち切れば、いかに強大なシステム魔力であろうとも、回路の結び目を自ら絞め殺すことになる」
或は低い声で独自の呪術の理を唱えながら、凍てつく闇の中を正確な足取りで進んでいった。
転生者たちが誇るチートスキルやレベルの概念など、この世界に古くから根付く地脈の泥臭い循環と、人間の執念によって書き換えられた呪符の前では、ただの脆い硝子の城に等しい。彼らがどれほど圧倒的な力で世界を踏み付けにしようとも、その足元を支えている現実の地面そのものを或が独自のハッキング呪術ですべて引っくり返してやる――その静かなる闘志だけが、或の煤色の瞳の奥で青白い炎のように燃え盛っていた。
冷たい夜風がスラムのトタン屋根を打ち鳴らす中、或はさらに深い路地裏の影へと消えていき、自らの呪術基盤を徹底的に再構築するための隠れ場所へと向かうのだった。




