奈落の底と神殺しの呪詛
烏丸小路スラム街の濁った暗渠から這い上がる湿った冷気は、煤けたトタン屋根の隙間を抜けて、賀茂の或の首筋を容赦なく叩いていた。下水の腐敗臭と異界産の泥炭が混ざり合った独特の悪臭が鼻腔を突き刺す中、或は手製の和紙と墨で汚れた指先を動かし、壊れかけた木簡の束に新たなルーンの刻印を無理やりねじ込んでいる。上空を見上げれば、大和皇国・帝都第七特区の誇るきらびやかな高層ビルの狭間に、縫い合わされた傷跡のように紫黒い黄泉比良坂の裂け目が不気味にうねっていた。表通りのアスファルトは一見すると現代日本の平穏な日常を模しているが、その下層を這う路地裏にはシステムを持たない下級民の血と汗が泥にまみれて染み込んでいる。或は首尾よく最後の呪符を折り畳もうとしたその瞬間、背後の薄暗い曲がり角から、叩きつけるような重い足音が響いた。
「おい、そこの下級の雑種。いつまでそのゴミみたいな紙細工で遊んでやがる」
野獣の唸りを思わせる低く濁った声とともに、冷酷な気圧階梯が狭い路地の一帯を圧倒的な質量で押し潰した。北欧の熊皮の獣衣を無造作に羽織り、両腕に巨大な魔導ガントレットを装着した巨体の男――転生者特権階級の特務部隊リーダー、ヴォルフガング・リッターが、狂暴な笑みを浮かべながら現れる。銀色の短髪を揺らし、黄色い双眸を獣のように細めたヴォルフガングの背後には、同じく転生者特権階級のゴシック風コートを纏ったプラチナブロンドの少女、ヘレナ・フォン・エッダが冷ややかな視線を投げかけていた。
「……何用ですか、リッター特務隊長。こちらは陰陽寮の定例に則り、特区南部の地脈安定結界を補修しているだけですが」
賀茂の或は立ち上がりながらも、あえて視線をわずかに伏せ、表面上は恭順の意を示す低いトーンで応じた。しかし、その内心の奥底では、冷徹なまでの計算と鋭利な敵愾心が研ぎ澄まされていく。目の前に立つ男の魔力回路がどれほど理不尽なシステムに裏打ちされていようとも、その発動の瞬間には必ず空間の位相に歪みが生じる。或は右手首に巻いた分厚いサラシの感触を指先で無意識に確かめながら、敵の次の出方を冷静に観察していた。
「定例だと? 笑わせるなよ、雑種。お前らがどれだけ泥水をすって足掻こうが、この世界を回してるのは俺たち神民に与えられたチートのシステムだ。お前みたいな無資格の生身の虫けらが、勝手に地脈の理をいじくり回すこと自体がシステムへの冒涜なんだよ」
ヴォルフガングは吐き捨てるようにそう言い放つと、ガントレットの金属の爪同士を不気味に噛み合わせ、火花を散らした。その傍らで、ヘレナは左耳のプラチナのピアスを指先でいじりながら、冷ややかな声で冷笑を浮かべる。
「本当よ。見てるだけで吐き気がするわ。下等な虫けらが私たちの足元でちょろちょろと動き回るなんて、不愉快極まりないわね。リッター、さっさとその無駄な手仕事ごと、この路地から消し去ってよ」
「ああ、いいぜ、ヘレナお姫様。ちょうど退屈していたところだ」
ヴォルフガングが凄まじい闘気を纏いながら一歩を踏み出した瞬間、地面のコンクリートが蜘蛛の巣状に砕け散った。或は咄嗟に懐から手製の呪符を抜き放ち、五行相生の理を応用した反転結界を展開しようと試みたが、その速度を嘲笑うかのように、フェンリルの力を宿した巨大なガントレットが重力すら捻じ曲げて或の胸元へと叩きつけられた。
「ぐっ……!」
まともに防壁を撃ち抜かれた或の身体は、紙屑のように軽々と宙を舞い、烏丸小路の路地裏を大きく飛び越えて、帝都中央裂け目の縁へと激突した。衝撃で肺の空気がすべて押し出され、口から鮮烈な鉄錆の味が広がる。全身の骨が悲鳴を上げ、視界が真っ白に染まる中、或は奥歯で舌の側面を強く噛みしめて必死に意識を繋ぎ止めた。
「ガハハハハッ! なんだ、一撃でそのざざまか! 綺麗に並べたお前のその小賢しい呪符はどこへ行ったんだよ、雑種!」
ヴォルフガングは狂気に満ちた笑い声を響かせながら、巨体を揺らして或の目の前まで歩み寄る。或は這いつくばりながら、血にまみれた手でアスファルトの端を掴み、何とか身体を起こそうと必死にもがいた。しかし、ヴォルフガングの容赦ない巨体の一蹴りが、或の腹部をさらにえぐるように放たれた。
「システムを持たない下級民はな、ただ踏み潰されて裂け目の底に消えるのが一番お似合いの役目なのさ。ほら、もっと綺麗に転がり落ちてみろよ!」
圧倒的な暴力の奔流と、一切の理屈が通じない転生者特権階級の身勝手な愉悦。或の身体はもはや自力で踏みとどまることができず、烏丸小路の華やかな表通りとスラムの境界を断ち切るように口を開けた、底知れぬ漆黒の縦穴――黄泉比良坂・帝都中央裂け目の縁から、暗黒の虚空へと真っ逆様に投げ落とされた。
「……くそ……っ……!」
風圧が耳をつんざき、冷たい死臭と紫黒い黒霧が或の身体を幾重にも包み込みながら、奈落の底へと引きずり込んでいく。頭上で嘲笑うヴォルフガングの姿が急速に小さくなり、やがて完全な闇の中に呑み込まれていった。システムを持たない生身の人間がこの底なしの裂け目に落ちれば、一瞬で肉体ごと存在が霧散するか、あるいは魔獣の餌食になるのが当然の摂理であった。
しかし、或は意識の底で激しく脈打つ生存本能の炎を絶対に消さなかった。
(……ここで死ねるか。あんな甘ったれた寄生虫どもに這いつくばったまま、ただのゴミとして消されてたまるかよ……!)
凄まじい速度で落下しながら、或は右手首に巻いたサラシを引きちぎり、自らの血を滴らせた指先で空中に幾重もの北欧ルーン文字と陰陽五行の相剋符を血濡れの爪で乱雑に描き殴った。ただの落下では済まない致死の重力と異界の瘴気が或の肉体を内側から引き裂こうとするが、或は自らの肉体の痛覚すらも呪術の触媒としてハッキングし、落下速度をわずかに相殺しながら、裂け目のさらに深部、誰も踏み入ったことのない古の地層へと激突した。
ドゴォッ、という鈍い激震が地下深くに響き渡る。
黄泉比良坂の底――そこは、現代の帝都のインフラが完全に途絶え、かつての神話の残滓と太古の地脈が泥のように絡み合う、完全なる暗黒の異界であった。
全身の骨が砕け、肉の至るところから血が流れ出しているにもかかわらず、或は意識を失うどころか、かえって異常なまでの静けさと冷徹な光をその煤色の瞳に宿して這い上がっていた。周囲に立ち込める濃厚な死の瘴気の中に、近代のシステムでは決して解析できない、純粋かつ土着の古い呪術の痕跡が微かに青白い光を放っている。
「……見つけたぞ……。お前らが隠し続けた、この世界の裏側の理を……」
或は這いつくばりながら血まみれの泥を這い、その古の祭壇の足元へとたどり着いた。そこには、天界のシステムが降臨するはるか昔からこの地に刻まれていた、古代北欧の原初ルーンと日本固有の地母神の呪文が複雑に融合した、巨大な黒曜石の祭壇が沈黙を保ったまま佇んでいた。
或が傷だらけの手のひらをその黒曜石の表面に強く押し付けた瞬間、或の指先から流れ出た鮮血が、祭壇の溝を伝うようにして無数のルーン文字へと吸い込まれていった。それは管理システムの監視を完全に逃れる、未知にして異質な魔力の共鳴であった。
ピリリ、と大気が微小な放電音を立てて震え始める。
或の肉体の奥底、かつて半神半魔の崩壊を起こしかけた右腕の呪印が、まるで生き物のように禍々しく脈打ち、熱を帯び始めた。それは安らかな救済や奇跡の加護などではない。圧倒的な理不尽とシステムに対抗するための、泥臭い神殺しの呪詛が、或の魂の深部で静かにその黒い牙を剥き出しにする。
底知れぬ奈落の底で、或は血塗られた笑みを浮かべ、崩れかけた祭壇の石塊にしっかりと指を掛けた。
次話の訪れを告げるかのように、頭上の暗黒の裂け目から、異様な神気と不気味な光の奔流が這い上がり始める。




