第1章 : 前夜の休戦
翌朝、泉の水が水盤を静かな一定のリズムで打ち、その水面には差し込む陽光が黄金色の煌めきを散らしていた。
エイナルは時間通りに姿を現した。服はきちんと整えている。
腰にあるはずの刀の重みがない。
そのせいか、身体の均衡までどこか落ち着かなかった。まるで、魂の重心そのものがずれてしまったかのようだった。
鋼を失っただけで、自分がひどく脆く、無防備になったように感じる。衣服一枚を隔てただけで、誰かに過去の傷跡まで見透かされてしまいそうだった。
ライエルはすでに待っていた。
石造りの縁に身を預け、泉の水が水盤の底へ落ちていく様子を眺めている。
鎧を身につけていない彼女の肩は普段より小さく、どこか儚く見えた。それでも、漆黒の髪はいつもの厳かな雰囲気を崩さず、肩から静かに流れている。
飾り気のない緑色の麻のドレスがその身に自然に沿い、余計な装飾などなくとも、彼女の端正な佇まいを際立たせていた。
エイナルは一瞬、足を止めた。
血と泥にまみれ、雨の中で命令を飛ばす彼女なら何度も見てきた。
だが、朝の陽射しをうなじに受けながら立つ姿を目にすると、戦士としての顔の奥には、まだ平穏を知る一人の人間がいるのだと思い知らされた。
エメラルド色の瞳が彼を捉える。
そこには好奇心と警戒心が入り混じっていた。
一見すれば儚げなのに、その奥には揺るぎない強さがある。
その相反する印象に、エイナルは一瞬言葉を失った。
「時間通りね」
ライエルは軽く首を傾けた。
「地図や薬の話ばかりしているわけにもいかないだろう?」
エイナルは苦笑した。
「明日は一緒に命を懸けることになる。だったら、その前に……命令を叫んでいない時の君がどんな顔をするのか、少しくらい知っておきたかったんだ」
ライエルは片眉を上げた。
あまりにも率直な言葉だった。
エイナルは取り繕おうとしない。それが彼という人間だった。遠回しな言い方をせず、思ったことをそのまま口にする。
戸惑いはあった。
だが、その正直さは不思議と心地よかった。
「それで、どうするつもり?」
声にはわずかな挑戦の色が混じっていた。
「まずは、食事に誘うところからかな」
そう言って、エイナルは石畳の通りへ手を差し向けた。
「それから、町を歩こう」
「今夜は、森の守護神を讃える祭りがあるわ」
ライエルがそう告げると、エイナルは興味深そうに彼女を見た。
「長い尾を持つ獣の姿を取ることが多いの。尾を穏やかに、誇らしげに揺らす古き神よ」
彼女の声は、どこか遠い記憶を辿るように静かだった。
「狡猾さを宿した瞳の奥には、何千年もの時を越えて、かつて麦が腰の高さまで実り、飢えという言葉すら忘れられていた時代の記憶を抱いていると言われている」
「姿を隠したまま畝の間をさまよい、大地の眠りを見守る。そしてやがて、畑が黄金色の実りに満たされ、夕陽の下で穀物が金のように輝くのを待つのよ」
「祭りでは、香辛料の効いた煮込み料理や、甘い酒も振る舞われるそうだ」
エイナルは少し笑った。
「それなら、なおさら行かない理由はないな」
そして彼女へ向き直る。
「さあ、準備してくれ、ライエル。広場には音楽が響き、夜には灯りがともる。踊りで地面まで震えるような祭りらしい。きっと守護神も、自分の祭りに驚かされるくらいには楽しめるだろうさ」
ライエルはしばらく黙っていた。
まるで、警戒を解くことの危うさを秤にかけているようだった。
やがて、短く頷く。
「いいわ」
少し間を置いて、声をわずかに落とした。
「あなたが剣を置いた時、どんな人間になるのか……私も知りたい」
町の中心は、祭りの熱気に包まれていた。
軍勢さえ収容できそうなほど広い広場を、色とりどりの飾りと人々の歓声が埋め尽くしている。
焼きたてのパンと香辛料を効かせた肉の匂いは、かすかに漂う程度ではなかった。
広場の焼き場から立ち上る熱気とともに、宿のテラスまで押し寄せてくる。
ライエルとエイナルは、広場の一角にある席へ腰を下ろした。
広大な空間の反対側で演奏する音楽家たちは、まるで遠くから響く声のように聞こえる。
そこは谷の中心だった。
高価な香辛料と燃え盛る炭の匂いが、絶えず漂っている。
二人はまず、知っていることから話し始めた。
灰の森へ向かう道。
必要になる薬の数。
そして、明日の準備について。
だが、皿の上から煮込み料理が少しずつ消えていくにつれ、話題は戦いから故郷へと移っていった。
ライエルは、任務の前には五本のトネリコの矢を自分の手で削るのだと話した。
その五本だけは特別に取っておく。
そして弓につがえる時、そこへ自分のマナを流し込む。
一矢一矢に、自分の意志と技を込めるためだという。
それは一種の儀式だった。
規律と熟練。
そして、冒険の喧騒と自分自身の静けさの間に、己の道を正確に織り上げていく彼女の生き方そのものだった。
エイナルは家族について話した。
彼らが必要としている金を、どうしても送り続けなければならないこと。
そして、自分がまだ「イニシエート」と呼ばれていた頃から、偉大な英雄になることを夢見ていたこと。
王国最強の英雄、ヴァルドリン。
その力と言葉には、若者の心に火を灯すほどの輝きがある。
エイナルは、そんな彼の背中を追い続けてきた。
もちろん、何度も倒れた。
だが、そのたびに敗北から学び、以前より強く立ち上がってきた。
ライエルは黙って聞いていた。
指先でカップの縁を何気なくなぞりながら、彼の言葉を一つずつ受け止めている。
こんなふうに、言葉を選びすぎることなく自分自身をさらけ出して話す人間には、慣れていなかった。
「あなたは、自分の傷を見せることを恐れないのね」
ほとんど独り言のように、彼女が言った。
「俺の一部だからな」
エイナルは目を逸らさなかった。
「俺が君の背中を守るなら、俺が何度か打ちのめされても、それでも立ってきた人間だってことくらい知っておいてほしい」
少しだけ間を置く。
「それに……君があの冷静さの奥に、どんな傷を隠しているのかも気になる」
ライエルは視線を逸らした。
その唇に、一瞬だけ微かな笑みが浮かんだ。
食事を終えると、二人は石畳の通りを歩いた。
夜市の屋台が次々と並び始めている。
染め布。
蜂蜜菓子。
吊るすと小さく音を立てる、どんぐり形のお守り。
空気には香と、燃えた木の匂いが混じっていた。
「こんな祭りは初めて見る」
エイナルは、職人たちが穂の模様を描いた赤い灯籠を吊るしていく様子を眺めながら言った。
「私の故郷では、収穫を歌や森の精霊への供物で祝うの」
ライエルが答える。
「でも、ここは……ずいぶん賑やかね」
「なら、せっかくだ。思いきり楽しもう」
エイナルはそう言った。
やがて中央広場は音楽で満たされた。
太鼓と笛が陽気な調べを刻み、男女や仲間たちが輪になって踊り始める。
エイナルはライエルへ手を差し出した。
彼女は一瞬、迷うような目をした。
それでも、その手を取った。
最初は、二人とも慎重だった。
ライエルの足取りはほとんど形式的で、エイナルも無理に距離を縮めようとはしなかった。
だが、音楽が次第に速くなるにつれ、ライエルの手が彼の手のすぐそばで止まった。
ほんの一瞬。
厳しかった彼女の眼差しが揺れる。
広場の中に逃げ道を探すように視線が彷徨った。
人に触れることへの恐れと、流れる旋律とが、彼女の中でせめぎ合っていた。
やがて彼女は、崖から落ちまいとするかのように、強く彼の手を握った。
エイナルは袖越しに、奇妙な熱と、一瞬だけ走ったかすかな刺激を感じた。
だが、それはあまりにも短かった。
音楽の波にさらわれるように消えていった。
「足を踏まれると思っていたけれど……意外と上手なのね」
ライエルが楽しそうに囁いた。
「俺は、君がこんなふうに笑ってくれるとは思わなかったよ」
エイナルも笑った。
灯籠の明かりの下で、二人の視線は何度も重なった。
そのたびに、言葉にしない何かが生まれていた。
ここでは、二人は指導者でも戦士でもない。
ただ音楽と喧騒の中で、同じ時間を過ごす二人の人間だった。
やがて真夜中を告げる鐘が鳴った。
広場の騒ぎは少しずつ静まり、夜気が冷たさを増していく。
ライエルは足を止めた。
踊りの余韻で、まだ少し息が弾んでいる。
「もう遅いわ」
彼女は再び腕を組んだ。
まるで、目には見えない鎧を身につけ直すように。
「明日からは、本格的に準備を始めないと」
エイナルは頷いた。
楽しかった夜が終わってしまうことを、少し惜しく思いながら。
「来てくれてありがとう」
彼は言った。
「それから……みんなが知っているわけじゃない君の一面を、俺に見せてくれて」
ライエルはもう一度だけ彼を見つめた。
その声は、ほんの少しだけ柔らかかった。
「……あまり期待しないで」
最後に小さく頷くと、ライエルは灯りに照らされた通りへ歩き去った。
その姿は、降り始めた夜霧の中へゆっくりと溶けていく。
エイナルは、その姿が完全に霧へ消えるまで目で追った。
再び二人の間に距離が戻るとしても――何かが変わった。
そんな確かな感覚だけが残っていた。
その夜、町は静かな期待に包まれていった。
最後の灯籠が一つ、また一つと消えていく。
エイナルは思った。
灰の森を生き延びることのほうが、今夜この広場で起きたことを理解するより、ずっと簡単なのかもしれない。




