第三話 何が何だか
その日の朝、三上透は、家を出る直前にシオリから小さな黒い物体を受け取った。
「……本当に、これでいいの?」
「はい」
「何に使うのかもわからないんだよね?」
「……はい」
「危険かどうかもわからないんだよね?」
「……はい」
「それ、渡す側としてどうなの?」
「ごめんなさい……」
シオリはしゅんとした。
透は大きく息を吐いた。
受け取るべきではない。
普通に考えれば、そうだ。
正体不明。用途不明。危険性不明。
こんなものを持ち歩く理由はない。
だが、シオリの表情を見ていると、簡単に突き返すこともできなかった。
「……とりあえず、預かるだけだからね」
「ありがとうございます」
「あと、何かあったらすぐに言って。僕には何もできないかもしれないけど、知らないまま巻き込まれるのは嫌だから」
シオリは一瞬、驚いたように目を見開いた。
それから、ゆっくりと笑った。
「……はい」
透は黒い物体をポケットに入れた。
冷たい。
それだけの感想だった。
特別な力を感じるわけでも、身体が熱くなるわけでもない。
何も起きない。
それが普通だ。
透は玄関を出た。
今日も学校がある。
そう思っていた。
*
午後四時二十三分。
三上家の前に、一人の男が立っていた。
黒い服。
無駄のない立ち姿。
表情は乏しく、視線だけが鋭い。
男は家の表札を確認し、手元の記録と照合した。
「……ここか」
声は低く、淡々としていた。
男は玄関の前に立ち、呼び鈴を押した。
少しして、夏希が扉を開けた。
「はい?」
「失礼します。こちらに、シオリという人物がいるはずですが」
夏希の表情が変わった。
知らない男だった。
年齢は二十代半ばほどに見える。
服装は地味だが、妙に隙がない。
何より、こちらを見つめる目に、訪問販売や道案内を求める人間のような気安さがなかった。
「……どちら様ですか?」
「彼女に用があります」
「用件を聞いても?」
「本人に直接伝えます」
夏希は扉を閉めようとした。
その瞬間、男が片手で扉を押さえた。
力は強くなかった。
しかし、夏希が押しても、扉は動かなかった。
「……何ですか?」
「時間がありません。彼女を引き渡してください」
「引き渡す?」
夏希の声が低くなる。
「ここはうちです。知らない人を勝手に入れるつもりはありません」
男は夏希を見つめた。
しばらくして、静かに言った。
「あなたに危害を加えるつもりはありません」
「そういう問題じゃないんですけど」
「では、彼女を呼んでください」
「……嫌です」
夏希は即答した。
男の目が、わずかに細くなる。
「そうですか」
次の瞬間、夏希は扉を押さえていた手に、ぞっとするほどの力を感じた。
男が扉を押し開けようとしたのだ。
「ちょっ……!」
夏希は慌てて体重をかけた。
それでも、扉は少しずつ開いていく。
男の表情は変わらない。
まるで、重い荷物を動かしているだけのようだった。
「やめてください!」
夏希が叫んだ、そのとき。
「夏希さん!」
廊下の奥からシオリの声が響いた。
男の動きが止まった。
夏希は振り返る。
シオリが廊下に立っていた。
その顔から、血の気が引いていた。
「……怜」
シオリが呟く。
男――怜は、シオリを見た。
「久しぶりだな、シオリ」
「……どうして、ここが」
「お前の行動記録は完全には消えていない。探すのに時間はかかったが、見つけられないほどではない」
「……」
「その物を返してもらう。お前も一緒に来い」
夏希は二人の顔を交互に見た。
「ちょっと待って。どういうこと?」
シオリは答えなかった。
怜は夏希に視線を向けた。
「事情を説明する必要はありません。彼女たちをこちらに渡してください」
「彼女たち?」
夏希は眉をひそめた。
その瞬間、リビングの奥からコトハが姿を現した。
彼女は怜を見るなり、表情を険しくした。
「……追いつかれたのね」
「女。抵抗するな。今回は連れ戻すだけだ」
「信じられると思う?」
「信じる必要はない。命令に従え」
「嫌よ」
コトハは腰に手を伸ばした。
怜の視線がわずかに動く。
その瞬間、コトハは踏み込んだ。
動きが速い。
夏希には何が起きたのかわからなかった。
ただ、次の瞬間にはコトハが怜の懐に入り、腕を伸ばしていた。
その右手にはいつの間にかナイフが握られていた。
怜が半歩だけ身体をずらす。
コトハのナイフが空を切る。
続けざまに放たれた蹴りを、怜は片腕で受け止めた。
鈍い音が響いた。
コトハの表情が変わった。
「……っ!」
力が違う。
単純な体格差ではない。
怜は彼女の足を押し返し、距離を取った。
「ある程度動けるようだな」
「あなたに褒められても嬉しくないわ」
「そうか」
怜は一歩、前に出る。
床が鳴った。
その動きに、夏希は息を呑んだ。
速い。
先ほどまで玄関にいた男が、瞬きの間に廊下の中央まで移動している。
人間の動きとして、どう考えてもおかしかった。
「シオリ!」
コトハが叫んだ。
「夏希さんを連れて下がって!」
シオリは夏希の腕を取った。
「こっちへ!」
「え、ちょっと、何なのこれ!?」
「説明はあとで!」
夏希は引っ張られるまま、リビングの奥へ移動した。
怜は追おうとしたが、コトハが立ちはだかった。
「行かせない!」
「邪魔だ」
怜の拳が動いた。
コトハは身をひねって避けたが、拳風だけで髪が揺れた。
彼女はすぐに体勢を立て直し、怜の胴を狙う。
「走行を禁ずる」
一言。
その瞬間、踏み出そうとした怜の足が止まった。
ほんの一瞬だった。
だが、コトハにとっては十分な隙だった。
彼女は怜の腕を払い、胴体に回し蹴りを喰らわせた。
しかし、怜はその蹴りに応えた様子を見せなかった。
コトハはバックステップで一度怜と距離をとる。
「……なるほど」
怜は自分の足元を見た。
「そういう類の異能か」
「おしゃべりしてる暇はないわよ」
「そうだな」
怜の口元が、わずかに動いた。
笑ったようにも見えた。
次の瞬間、彼は再び動き出した。
足の拘束を無理やり振りほどいたかのような勢いだった。
コトハは舌打ちした。
禁則は成立した。
しかし、長くは続かない。
相手の能力や抵抗力に関係なく、宣言が成立すれば禁止そのものは絶対だ。
問題は、その効力がいつまで続くか。
範囲や影響の大きさによって、持続時間は変わる。
走行を禁ずる。
比較的狭い範囲の行動制限であっても、相手の移動を完全に封じるなら、長時間は保たない。
怜はそれに勘付いていた。
怜が勘付いたことをコトハも理解していた。
長引けば不利になる。
だからこそ、逃げる必要があった。
*
そのころ、透は学校から帰る途中だった。
スマートフォンを確認すると、夏希からの着信が一件入っていた。
メッセージはない。
「……何だろ」
透は電話をかけ直そうとした。
そのとき、遠くから聞き覚えのある声が響いた。
「透!」
顔を上げる。
シオリだった。
彼女は路地の向こうから走ってきた。
その後ろにはコトハと、見知らぬ男がいる。
「……え?」
状況を理解するより早く、シオリが透の腕をつかんだ。
「逃げて!」
「は?」
「お願い!」
シオリの顔は真剣だった。
透は反射的にシオリの後ろを見た。
男がコトハを追いかけながら近づいてくる。
走っているだけなのに、妙に速い。
歩幅が大きいわけでも、身体を大きく揺らしているわけでもない。
ただ、距離が縮まる。
透の背筋に冷たいものが走った。
「……何なんだよ、あいつ!」
「説明はあと!」
コトハが叫ぶ。
「今は走って!」
透は走り出した。
何が起きているのかはわからない。
だが、目の前の男が普通ではないことだけはわかった。
追いつかれたら、まずい。
その直感に従うことにした。
*
走る。
ただ走る。
透は自分の体力が、いかに頼りないものかを実感していた。
息が切れる。
脚が重い。
心臓がうるさい。
後ろを振り返る余裕すらない。
「こっち!」
シオリが細い路地へ飛び込む。
透も続いた。
コトハが最後尾につき、怜の進路を妨害するように動く。
しかし、怜は簡単には離れなかった。
「……しつこい!」
コトハが振り返る。
「走行を禁ずる!」
怜の足が止まった。
透たちは角を曲がり、建物の陰に身を隠した。
「はあっ……はあっ……」
透は壁に手をついた。
「ちょっと待って……説明……説明してくれ……」
「あとで!」
コトハが短く言った。
「今は息を整えて!」
「いや、無理だろ……!」
透は息を吸おうとしたが、喉が痛い。
運動不足を呪った。
こんなことになるなら、もう少し体力をつけておけばよかった。
いや、普通の高校生が、あんな男に追われることを想定して体力をつける必要があるのか。
ない。
絶対にない。
「……来る」
シオリが顔を上げた。
透も息を止めた。
足音が聞こえる。
ゆっくりと。
こちらへ向かって。
怜は角の向こうに立っていた。
「逃げるのはやめろ。抵抗しなければ、これ以上は何もしない」
「それ、信じろっていうの?」
コトハが言った。
「お前たちが抵抗するから、こちらも力を使うことになる」
「そもそも、何の権利があって私たちを連れ戻そうとするのよ」
「規則に基づいている」
「その規則が間違っているとは考えないの?」
「俺が判断することではない」
怜の答えは、あまりにも平坦だった。
彼は善悪を語らない。
正義も語らない。
ただ、規則だから従う。
それだけだった。
透は、二人の会話を聞きながら考えていた。
この男は、シオリたちを連れ戻そうとしている。
おそらく、あの黒い物体も目的の一つだ。
そして、シオリたちは抵抗している。
つまり、これは単なる知人同士の揉め事ではない。
もっと大きな問題がある。
警察に連絡するべきか。
いや、相手の動きは普通ではない。こちらの常識が通用するのかもわからない。
そもそも、今はスマートフォンを操作する余裕すらなかった。
「……透さん」
シオリが小さく言った。
「ごめんなさい」
「……何が?」
「巻き込んでしまって」
透は答えられなかった。
巻き込まれた。
その通りだ。
自分は何も知らなかった。
何も望んでいなかった。
ただ、昨日、怪我をしていた二人を放っておけなかっただけだ。
それなのに、今は命の危険を感じながら逃げている。
正直、腹が立った。
怖かった。
そして、どうしようもなく困っていた。
「……謝るのは、あとでいい」
透は息を整えながら言った。
「今は、どうやって逃げるか考えよう」
シオリは驚いたように透を見た。
コトハも、一瞬だけ目を見開いた。
透自身、格好のいいことを言ったつもりはなかった。
ただ、今ここで責任を追及しても何も変わらない。
まずは生き延びる。
それから考える。
それが、今できる唯一のことだった。
*
しかし、逃げ道はすぐに塞がれた。
路地の出口に怜が回り込んでいたのだ。
いつ移動したのか、透にはわからなかった。
「……嘘だろ」
透は足を止めた。
すぐ背後から、足音が聞こえる。
追い詰められた。
コトハが前に出る。
「シオリ、透を連れて下がって」
「わかった……!」
「準備と援護よろしく」
コトハは怜を睨んだ。
「これ以上近づいたら、次は本気で止める」
「お前の能力は理解している」
「なら、近づかないことね」
「それはできない」
怜が一歩踏み出した。
コトハの目が鋭くなる。
「武器の使用を禁ずる」
怜の手が止まった。
彼の腰にあった道具へ伸びかけた指が、そこで静止する。
コトハはすかさず距離を詰めた。
しかし、怜は武器を使わなかった。
ただ、身体だけでコトハを押し返した。
彼女の足が地面を滑る。
追い打ちをかけるようにコトハに伸びた腕をシオリの手から放たれた光が弾き飛ばす。
その瞬間に、コトハが体勢を立て直す。
「……っ!」
「お前の能力は厄介だ。だが、使える限度があるのだろう」
「……誰から聞いたの?」
「さあな」
怜は淡々と答えた。
「無駄な抵抗はやめろ」
コトハの呼吸が荒くなる。
シオリも、すぐには動けなかった。
透は二人の様子を見て、ようやく理解した。
このままでは勝てない。
そもそも、勝つ必要はない。
逃げればいい。
だが、どうやって?
怜は速い。
力も強い。
コトハの能力で一時的に止めることはできても、長くは続かない。
シオリにも何か別の能力みたいだが、連発はできないのか、攻めようとする姿勢ではない。
透には何もない。
特別な力も、戦闘経験も、役に立つ知識もない。
自分がここにいても、邪魔になるだけだ。
今のままではジリ貧だ。
逃げたい。
正直、今すぐ逃げ出したい。
そう思った。
そのとき、ふと怜の視線が透に向いた。
「ブツを持っているのは、お前か」
透の背筋が凍った。
「……何のことですか」
「とぼける必要はない。シオリから渡された物だ」
怜は一歩近づいた。
「返してもらおう」
「……嫌だと言ったら?」
「力ずくで回収するだけだ」
あまりにもはっきりとした返答だった。
透はポケットの中の黒い物体を意識した。
これが目的なのか。
自分は、何もわからないまま危険な物を受け取ってしまったのか。
後悔が押し寄せる。
受け取らなければよかった。
昨日のうちに警察へ連れていけばよかった。
そもそも、声をかけなければよかった。
そんな考えが、次々と浮かんでは消える。
しかし、今さら後悔しても遅い。
怜は手を伸ばした。
その瞬間、コトハが叫んだ。
「走行を禁ずる!」
怜の動きが止まる。
「シオリ、今!」
シオリが両手を広げた。
空間が揺らいだ。
透には、何が起きているのかわからなかった。
ただ、目の前の景色に細い亀裂が走ったように見えた。
空気が歪み、向こう側に見知らぬ景色がちらつく。
「……何だ、これ」
「透さん、こっち!」
シオリが手を伸ばした。
透は一瞬だけ迷った。
亀裂の向こうに何があるのか、わからない。
安全なのかもわからない。
だが、ここに残れば、怜に捕まる。
選択肢はなかった。
透はシオリの手を取った。
コトハも続く。
三人が境界を越える直前、怜の足が動いた。
禁則の効力が切れたのだ。
「待て!」
怜が踏み込む。
まずい。このままでは腕を掴まれる。
そう感じ、ただ腕を腕を振り払おうとしただけだった。
その刹那、目と鼻の先にいた怜が謎の力で吹き飛んだ。
予想していなかったのか、怜は地面を数メートル転がった。
予想していないのも当然だ、本人も何が起こったのかわからないのだから。
透はその光景に呆気にとられたが、我に帰るとすぐ、裂け目に飛び込んだ。
そして、空間の裂け目が閉じた。
路地には、怜だけが残された。
彼はしばらく、何もない空間を見つめていた。
やがて、懐から通信装置を取り出した。
「こちら怜。対象は境界を越えた」
短い沈黙。
『追跡は可能か』
「現時点では困難です。境界が閉じました」
『能力の回復を待て。所在を確認し次第、追跡を再開する』
「了解」
怜は通信を切った。
表情は変わらない。
ただ、目だけがわずかに細くなった。
「……次は逃がさない」
彼はそう呟き、歩き出した。




