第一話 日常だったはずなのに
世界が終わる瞬間というものは、もっと騒がしいものだと思っていた。
でも、実際は誰にも知られずに朽ちていくものだと知った。
空が真っ赤に染まり、大地が割れ、天から無数の光が降り注ぐ。あるいは、世界を滅ぼそうとする魔王が高笑いし、大魔法使いが最後の力を振り絞り自らの命を賭して、杖を掲げる。
シオリがかつて暮らしていたのは、そういう世界だった。
魔法があり、魔物がいて、王女様がいて、そして大魔法使いがいた。
大魔法使いは幾多の苦難を乗り越え、仲間と出会い、何度も敗北しかけながら成長した。村を襲う魔物を退け、迷宮を攻略し、魔王軍の幹部を倒し、最後には世界を脅かす魔王をも討ち果たした。
その旅路には、たくさんの人々が関わっていた。
彼に魔法の才能を見出し、いつか魔王を打ち倒すまでに育て上げた師匠。
旅を始めたばかりの頃に彼を助けた名もなき兵士。
旅の途中で出会い、最後の戦いまで彼に同行した薬師。
魔王軍の幹部に故郷を焼かれ、彼に救われた少女。
彼らはそれぞれの人生を持ち、それぞれの事情を抱えていた。
しかし、物語が終わるとき、彼らの人生もまた、終わりを迎える。
大魔法使いが魔王を倒した。
世界に平和が戻った。
そして、故郷に凱旋した大魔法使いはその国の王女と結婚した。
――めでたし、めでたし。
それが、この世界に与えられた結末だった。
王都では盛大な祝宴が開かれた。
鐘が鳴り、花びらが舞い、広場には笑顔があふれていた。長い戦いを終えた大魔法使いと王女が並び立ち、人々の祝福を受ける。
誰もが幸せそうだった。
そして誰もが、悪は滅ぼされ、この幸せな世界は永遠に続くと思っていた。
だから、誰も気づかなかった。
空の端から、色が失われ始めていることに。
最初は、夕暮れの終わり際のような薄い灰色だった。
遠くの山が輪郭を失い、森が絵の具を水で溶かしたように薄くなっていく。建物の壁が透け、街路に咲く花が音もなく消えていった。
祝宴の音楽は止まらない。
人々は笑い続けている。
まるで、世界を脅かす終焉は去ったと妄信的に信じているかのように。
「……ごめんなさい」
シオリは、街の外れにある丘の上で、それを見ていた。
その景色を見続けることを堪えられないかのようにその目を伏せる。
隣には、彼女の幼い頃からの親友——コトハが立っていた。
コトハは剣の柄に手をかけたまま、遠くの街を見つめていた。いつもなら真っ先に状況を整理し、何をすべきか決める彼女も、このときばかりは言葉を失っていた。
「シオリ。あれ、何?」
「……ごめん、今は言えないの」
それが、彼女の至極当然の問いに答えることのできないシオリに選べる、唯一の返事だった。
大魔法使いは勝った。魔王は倒された。王女は救われた。
物語としては、すべてが正しく終わっている。
なのに、世界が消えていく。
「ねえ、コトハちゃん」
「なに」
「私たち、これからどうしよっか」
コトハはすぐには答えなかった。
代わりに、シオリの手を強く握った。
「知らないわよ。そんなこと」
彼女らしい答えだった。
「でも、消えたくないなら、立ち止まってる場合じゃないでしょ」
シオリは親友を見た。
コトハの顔には恐怖があった。強がってはいても、指先は震えていた。
それでも、彼女はシオリの手を離さなかった。
シオリは息を吸った。
状況を理解できていないコトハが自分を励ましてどうする。
いまこそ自分がコトハを助ける番だ。
自分だってこれからどうなるかはわからない。
ただ、一つだけ確かなことがあった。
このままでは、コトハが消えてしまう。
それだけは、嫌だった。
「……行こう、コトハちゃん」
「どこへ?」
「ここじゃないところ。どこでもいいから」
シオリは思いと共に両手を前にかざした。
空間の境目を探る。
世界と世界を隔てる、目には見えない境界。その綻びを見つけ、指先で引き寄せる。
今まで何回も繰り返してきたことのはずなのに、いつもより何倍も難しく感じた。
世界そのものが崩れ始めているせいか、境界は不安定に揺れている。触れたそばから形を変え、指先をすり抜けていく。
「シオリ、無理しないで!」
「大丈夫……!」
大丈夫なはずがなかった。
それでも、やめるわけにはいかなかった。
ようやく、小さな裂け目が生まれた。
向こう側に何があるのかは見えない。
安全かどうかもわからない。
それでも、ここにいるよりはましだ。
シオリはコトハの手を引いた。
二人は崩れゆく世界から、一歩を踏み出した。
二人がこの世界を後にした瞬間、丘も、街も、空も、音も、すべてが白く塗りつぶされた。
大魔法使いが王女と結婚した世界は、そこで終わった。
◇
目覚まし時計が鳴った。
「……あと五分」
俺——三上透は布団の中から手を伸ばし、枕元の時計を叩いた。
アラームが止まる。
静寂が戻る。
俺は目を閉じた。
五分だけ。
それくらいなら神様も仏様も許してくれるはずだ。
だって仏像とかって目を閉じてるのが多いけど、あれ多分胡坐をかいて寝てるだけだと思うんだよね。
だから、そんな領域に達してない俺が二度寝するくらい当たり前なこと……グー……。
「透ー! 起きなさーい! 遅刻するわよー!」
「起きてる!」
「じゃあ返事だけじゃなくて起きなさい!」
階下から飛んできた声に、俺は渋々目を開けた。
朝七時十二分。
登校まで、まだ時間はある。
ただし、布団から出る時間を除けば。
「……最悪だ」
俺はありえないほどにはねた前髪に悪態をつきながら、上体を起こす。
三上透、十七歳。
特技なし。名家の血筋なし。特殊能力なし。世界を救う使命なし。
成績は中の上。運動は平均より少し苦手。友人はいるが、クラスの中心にいるタイプではない。
どこにでもいる高校二年生。
少なくとも、俺はそう認識している。
人生で一番大きな事件といえば、中学時代に自転車で転んで左腕の骨を折ったことくらいだ。
その後のリハビリは長い上に治療費が高く、本当に辛かった。
俺はあの経験から、転倒と金銭的損失とカルシウムを軽視しない人間になった。
ちなみにカルシウムばかり摂るのではなく、ビタミンDやビタミンKを多く摂取することが骨を強くするのに一番大事である。(これで君も骨博士だ!)
……つまるところ、人は痛い目に遭うと学習する。
それが成長というものだ。
「透! 朝ごはん冷める!」
「今行く!」
俺は制服に着替え、鞄の中身を確認した。
教科書、筆箱、財布、スマートフォン。
財布の中身は千八百四十円。
今週の小遣いを考えると、無駄遣いはできない。
今日の昼食は購買のパンで済ませる予定だった。新作の焼きそばパンが気になっていたが、値段次第ではいつものコロッケパンにせざるを得ないかもしれない。
だがそれでいい。
平和な朝だ。
何も起きない。
何も起きないことが、一番いい。
*
「おはよー、透」
「おはよう」
通学路の途中で、同じクラスの男子に声をかけられた。
「昨日の課題やった?」
「やったよ」
「マジか。学校着いたら写させて」
「自分でやれ」
「ケチー、つまんねーの」
他愛もない会話。
信号待ち。
コンビニの前で立ち読みする人。
自転車のベル。
駅へ向かう学生たち。
いつもと変わらない街の風景が、透の目の前を流れていく。
そして、いつもと変わらない朝には、いつもと変わらない面倒事も存在した。
「きゃっ!」
交差点の向こうから、少女の声が響いた。
誰かとぶつかったらしい。
抱えていたノートが宙を舞い、紙が風に散らばる。
「ご、ごめんなさい!」
「い、いや、こっちこそ!」
少女と少年が慌てて謝り合う。
周囲の人々が足を止め、二人に視線を向けた。
少年が落ちたノートを拾い、少女が顔を赤くする。
なんとなく、漫画やアニメで見たことのある光景だった。
最近は二人のそういう展開に飽きたのでさっさと付き合ったらどうなんだ、とは思うが今日もそんな様子は微塵も感じられない。
最近の若者は相手に告白させるゲームでもやっているとでもいうのだろうか。
そんなどうでもいいことを考えながらも、俺は歩く速度を変えなかった。
ああいうことは、物語の中でもよく起きる。
偶然ぶつかった相手が運命の人だったり、落とした本を拾った相手と恋が始まったり。
そういうのが好きな人もいるのだろう。
だが、俺には関係ない。
あの二人が恋人になろうが、結婚しようが、世界を救おうが、俺の昼食代が増えるわけではない。
それに、恋愛には興味がないわけではないが、わざわざ他人の恋路に首を突っ込む趣味もなかった。
誰かの青春は、誰かの青春。
自分の生活は、自分の生活。
それでいい。
俺はイヤホンを片耳に入れ直し、歩き出した。
そのときだった。
頭上で、金属の嫌な音がした。
キィ、と何かが軋む音。
続いて、ガコン、と重いものが外れる音。
俺は反射的に足を止めた。
工事中のビル。
歩道に沿って組まれた足場。
その一部が、ゆっくりと傾いていた。
「……え」
考えるより先に、身体が動いた。
足場が崩れた。
人の何倍もの大きさをした鉄骨が落ちる。
板が外れ、重なり合いながら歩道へ降ってくる。
まず、その場を占拠したのは誰かの悲鳴だった。
逃げ惑う人々。
俺は走ろうとした。
だが、すぐに気づいた。
自分のすぐ前に、同い年くらいで金髪の少女が立ち尽くしている。
落下物を見上げたまま、動けずにいた。
助けるべきか。
いや、無理だ。
間に合わない。
そう判断した瞬間、俺は自分の足も止まっていることに気づいた。
怖かった。
当然だ。
頭上から金属の塊が落ちてくるのだ。
自分だって、当たればただでは済まない。
逃げるべきだ。
そう思った。
そのとき、視界の端を何かが横切った。
少女の腕を誰かがつかんだ。
次の瞬間、二人の姿が路地の奥へと消えた。
ガシャァンッ!
足場が歩道に叩きつけられた。
轟音と粉塵。
透は咄嗟に頭をかばい、後ろへ飛び退いた。
破片が頬をかすめた。
数秒間、何も聞こえなかった。
やがて、誰かの叫び声が戻ってきた。
「大丈夫ですか!」
「救急車! 誰か救急車!」
あまりにも非日常な光景に自分の頬に触れると、手のひら一面に黒ずんだ赤色の液体がベッタリと付着していた。
俺は息を切らしながら、崩れた足場を見つめた。
さっきまで自分が立っていた場所に、太い鉄骨が転がっている。
あと一歩、前に出ていたら。
あと一秒、後ろに飛び退くのが遅れていたら。
そう考えただけで、膝から力が抜けそうになった。
「……助かった」
誰かに言うわけでもなく呟く。
少女を助けた人物は、もう見えなかった。
俺は路地の入口に目を向けた。
俺は自分の命が最優先だし、自分の前にいた少女を咄嗟に助けられなかったことを後悔はしてない。
ただ、いったいどんな人物があの危機的状況の中で誰かを助けようと思うのか、気になった。
当事者の自分が現場を離れるのはどうかと思ったが、事故の直後だ。警察や救急隊が来て事情聴取されたって、自分ができることは、せいぜい状況を説明することくらいだ。いてもいなくても変わらないだろう。
そう考え、俺は路地へ向かうことにした。
ごつい男の人だったら嫌だなーとか、やっぱりこのまま逃げようかなーとか思いながら歩いていると、もう曲がり角に差し掛かっていた。曲がり角を曲がった先には二人の少女がいた。
一人は、明るい色の髪を肩まで伸ばした少女。そして、目が行くのは、その傷だらけの四肢と、着ている服。もともとはかなり上質なものであったのだろうと素人目でもわかる代物だが、今や見るも無残なボロ布になっていた。
もう一人は、黒い髪を後ろでまとめた少女だった。こちらも着ている衣服にも身体にも切り傷が多く見て取れた。
明るい髪の少女は壁にもたれ、苦しそうに呼吸しており、黒髪の少女はその前に立ち、周囲を警戒していた。その出で立ちはまるで華奢な姫君を守る中世の騎士のようだ。
どちらも、傷だらけで、服が汚れていた。
それだけなら、事故に巻き込まれた人間として不自然ではない。
しかし、俺は二人の格好に違和感を覚えた。
制服ではない。
コスプレにしては、装飾が細かすぎる。
布地は見慣れない素材で、腰には見たこともない形の道具が下がっている。黒髪の少女の服には、刃物を入れる鞘のようなものまであった。
何より、二人とも、ひどく疲れているように見えた。
「あの……大丈夫ですか?」
俺が声をかけると、黒髪の少女が即座に振り向いた。
鋭い視線が向けられる。
俺は思わず両手を上げた。
「いや、怪しい者じゃないです。さっきの事故で……」
「事故?」
「足場が崩れたんです。こっちに逃げてきたんですよね?」
二人は顔を見合わせた。
黒髪の少女は、何かを考えるように透を見つめた。
「あなたは、あれを見たの?」
「見ましたけど」
「それで、ここに来たの?」
「はい。怪我してるみたいだったので」
答えながら、俺は少し後悔していた。
自分は何をしているのだろう。
知らない人間に話しかけ、知らない場所で、知らない事情に首を突っ込んでいる。
興味本位で、自己犠牲の塊のような人間を知りたいだなんて思わなければ良かった。
警察を呼べばいい。
救急車を呼べばいい。
それで終わりだ。
そう思ってスマートフォンを取り出した。
「とりあえず、救急車を呼びますね」
「きゅうきゅうしゃ?」
明るい髪の少女が、聞き慣れない言葉を繰り返した。
「……え?」
「それは、何?」
俺は固まった。
冗談を言っている様子ではない。
黒髪の少女も、スマートフォンを見て不思議そうに眉を寄せていた。
「いや、救急車は救急車ですけど……。怪我人を病院に運ぶ車です」
「病院……?」
二人はまた顔を見合わせた。
俺は頭を抱えたくなった。
日本語は通じている。
会話も成立している。
なのに、常識が噛み合っていない。
どういう状況だ、これは。
「えっと……あなたたち、旅行中ですか?」
「旅行?」
「外国から来たとか……」
言いかけて、俺は口を閉じた。
外国人というには、言葉が通じすぎている。
それに、服装があまりにも現実離れしていた。
明るい髪の少女が、困ったように笑った。
「……遠いところから来たの」
「遠いところ?」
「うん」
それ以上は言わなかった。
黒髪の少女が一歩前に出る。
「私たちは大丈夫です。あなたは戻ってください」
「いや、でも怪我してるでしょう」
「問題ありません」
「問題あるように見えますけど」
黒髪の少女は答えなかった。
俺は二人を見比べた。
このまま立ち去るのは気が引ける。
かといって、無理に病院へ連れていくこともできない。本人たちが拒んでいるし、何より、事情がまったくわからない。
そのとき、明るい髪の少女が小さく咳き込んだ。
壁に手をつき、身体を支える。
「シオリ!」
黒髪の少女が慌てて肩を支えた。
俺はその名前を聞き取った。
シオリ。
明るい髪の少女の名前らしい。
「……無理しないで」
「ごめん、コトハ。ちょっと疲れちゃった」
コトハと呼ばれた少女は、悔しそうに唇を噛んだ。
俺はため息をついた。
「……わかりました。じゃあ、せめて休めるところまで行きませんか?」
「必要ありません」
「でも、立ってるのもつらそうっすよ」
「あなたには関係ありません」
こっちは善意で聞いてんだよ、何様じゃい、と思わなくもなかったが、ちょっと待てよと思い直した。
そうだ、このコトハとかいう奴の言う通りだ。俺には関係がない。
名前を聞いただけの他人だ。
助ける義務もなければ、事情を知る権利もない。
だが。
それでも。
俺は、崩れた足場の下敷きになりかけた少女を思い出した。
自分は助けられなかった。
何もできなかった。
それが引け目になっているのか、目の前で倒れそうな人間を放っておくのは、どうにも後味が悪かった。
おかしい、そんなことは気にしない性質性質なはずなのに
「うち、すぐそこなんです。姉がいるので、何かあっても対応できると思います。嫌なら、休んだあとで帰ってもらって構いません」
「……あなたの家?」
「はい」
「見ず知らずの人間を家に入れるの?」
「普通はするわけないじゃないすか」
俺は即答した。
「だから、できれば俺もそうしたくないんですけど」
「……」
「でも、ここで倒れられると、寝覚めが悪いので」
コトハは、俺をじっと見つめた。
その目は警戒に満ちていた。
それでも、やがて疲れ切った様子のシオリの顔を見て、小さく息を吐いた。
「……わかった。少しだけよ」
「ありがとうございます」
なんで、俺が感謝してんだと思ったが、俺の内心は、これからどう姉に何と言い訳するべきか、考えることに全てのリソースが使われていた。
知らない女の子を二人お持ち帰りしました。
片方は怪我をしていて、もう片方も疲れ切っています。
しかも、救急車を知らないくらい箱入りみたいです。
説明できる気がしない。
というか、説明した末、平均約三回殺される未来しか見えない。
俺は、今日という日がすでに最悪の部類に入っていることを確信した。
*
「……で?」
玄関を開けた姉は、透と、その後ろにいる二人を交互に見た。
三上夏希、二十一歳。
大学三年生。
両親が海外赴任中のため、現在は透と二人で暮らしている。
面倒見がよく、行動力があり、そして弟の事情に対して妙に勘が鋭い。
ただし、その勘が常に正しいとは限らない。
「透」
「はい」
「説明して」
「……道で会った」
「うん」
「怪我してた」
「うん」
「だから連れてきた」
「なるほど」
夏希は笑顔だった。
笑顔だったが、目が笑っていなかった。
「もうちょっと説明して?」
「俺もそうしたいのはやまやま」
「そうじゃなくて」
夏希はため息をつき、それから二人の少女に向き直った。
「ごめんね。うちの弟、あほで」
「いえ……」
シオリが小さく頭を下げた。
「突然お邪魔してしまって、すみません」
「いいのいいの。怪我してるんでしょ? とりあえず座って。透、救急箱!」
「はい!」
俺は反射的に返事をして、棚から救急箱を持ってきた。
姉の命令を聞くようにこの十七年調教されてしまったので、姉の命令には逆らえないのだ。
三上家は女尊男卑が激しい家で有名なのです。
夏希は二人をリビングに通し、怪我の具合を確かめた。
シオリの腕には擦り傷があり、服の裾も裂けていた。コトハにも打撲の跡があり、手の甲には小さな切り傷がある。
「病院に行ったほうがいいと思うけど……」
夏希が言うと、二人は同時に顔を強張らせた。
「……今は、ちょっと」
シオリが答えた。
夏希はその反応を見逃さなかったが、問い詰めはしなかった。
「わかった。じゃあ、ひとまず応急処置ね。傷が深そうなら、やっぱり病院に連れていくから」
「ありがとうございます」
「いいのよ。困ったときはお互いさま」
夏希は手際よく傷を洗い、消毒し、包帯を巻いた。
透はその様子を見ながら、改めて自分の姉の頼もしさを実感していた。
こういうとき、夏希は強い。
状況がわからなくても、とりあえず目の前の問題から片づける。
俺にはなかなか真似できないやり方だった。
「ところで、二人ともお腹空いてない?」
夏希が尋ねた。
シオリは少し迷ってから、こくりとうなずいた。
「……空いてます」
「よし。じゃあ、ご飯にしよう!」
「姉ちゃん、まだ十時だけど」
「だから何? ご飯は大事でしょ」
夏希は胸を張った。
「透、冷蔵庫から卵と野菜取ってきて!」
「はいはい」
俺は立ち上がった。
いつの間にか、家の中に知らない少女が二人いる。
優しい方がシオリという名前で、もう一人の怖い方がコトハ。
どこから来たのかもわからない。
何があったのかもわからない。
それなのに、夏希はごく自然に二人を食卓へ迎え入れていた。
不思議な光景だった。
けれど、温かい食事を前にしたシオリの表情が少しだけ緩んだのを見て、透は何も言わなかった。
コトハも、最初こそ警戒していたものの、食事が進むにつれて肩の力を抜いていった。
「おいしい……」
シオリが呟いた。
「ほんと? よかった!」
夏希が嬉しそうに笑う。
「おかわりもあるからね」
「ありがとうございます」
俺は箸を動かしながら、二人を観察していた。
食べ方におかしなところはない。
会話も普通に成立する。
ただ、二人の視線はときどき窓の外へ向けられていた。
何かを警戒している。
誰かに追われているのか。
それとも、別の理由があるのか。
聞きたいことは山ほどあった。
しかし、聞いたところで答えてもらえるとは思えなかった。
俺は深く追及しないことにした。
人には話したくない事情がある。
自分だって、初対面の相手にすべてを話す気にはなれない。
今は、それでいい。
*
夜。
食事を終えた二人は、夏希が用意した部屋で休んでいた。
俺は自室で、今日の出来事を振り返っていた。
足場の崩落。
謎の少女二人。
救急車を知らないという発言。
明らかに普通ではない服装。
考えれば考えるほど、わからないことばかりだった。
だが、疲れていた。
明日は学校がある。
いつまでも考えていても仕方がない。
そう結論づけ、透は布団に入った。
そのころ、リビングでは夏希がシオリとコトハに温かい飲み物を出していた。
「それで、二人はどこから来たの?」
夏希は、できるだけ穏やかな声で尋ねた。
シオリはカップを両手で包み、しばらく黙っていた。
「……遠いところです」
「旅行?」
「……少し、違います」
「そっか」
夏希はそれ以上、問い詰めなかった。
「帰る場所はある?」
その質問に、シオリの指先が止まった。
隣にいたコトハが、彼女の表情を見つめる。
「……今は、帰れません」
「そう」
夏希は小さく息を吐いた。
理由はわからない。
家庭の事情なのかもしれないし、何か大きな問題に巻き込まれているのかもしれない。
ただ、二人が簡単には話せない事情を抱えていることだけは伝わってきた。
「じゃあ、帰れるようになるまで、ここにいていいよ」
「え……?」
「もちろん、透とも相談するけどね。あいつ、口では文句を言うくせに、困ってる人を放っておけないところがあるから」
「姉ちゃん、聞こえてるんだけど」
自分の部屋からすぐ調子に乗る姉に一言入れる。
「聞こえるように言ってるの!」
「最悪だ……」
夏希は笑った。
シオリも、つられて少し笑った。
コトハはまだ警戒を解いていなかったが、それでも、先ほどまでよりは表情が柔らかくなっていた。
この家は安全かもしれない。
そう思いかけた自分を、コトハはすぐに戒めた。
まだ何もわかっていない。
親切な人間がいることと、ここが安全であることは同じではない。
それでも。
「……ありがとうございます」
コトハは、頭を下げた。
その夜、三上家では三人の人間が眠りについた。
一人は、明日もいつもと同じ朝が来ると信じて。
一人は、失った世界のことを考えながら。
もう一人は、親友を守るために何をすべきか考えながら。
そして、彼らの知らない場所では、一つの記録が開かれていた。
*
――■■■■■。
■■の■■を■■し、■■間の■■■■を■■し、■■の■■性を■■する組織。
その一室に、複数の職員が集まっていた。
壁一面の記録装置には、さまざまな■■の情報が表示されている。
ある■■では■■が■■れ、ある■■では■■が始まり、ある■■では■■の■■が■■■■■いた。
無数の■■。
無数の運命。
その中に、一つの記録が浮かび上がった。
「■■■■■のシオリ……所在不明のままか」
「最後に確認されたのは、■■■■からの離脱時です」
「同行者は?」
「一般人で、コトハと記録されています。■■■■■■■と推定されています」
「推定?」
「記録が不完全です。■■■■時の情報が欠落しています」
職員の一人が眉をひそめた。
「それで、こちらの■■に■■した形跡があると?」
「はい。ただし、■■地点の特定には至っていません」
「捜索を継続しろ。境界能力は貴重だ。放置はできない」
淡々とした命令だった。
別の職員が、画面に表示された新たな記録を確認する。
「……待ってください」
「どうした?」
「■■■■■■で、記録に不整合が発生しています」
「不整合?」
「はい。通常の記録では、該当時刻に特筆すべき事象はありません。しかし、現地の■■■■に、説明できない変動が残っています」
「対象は?」
職員は記録を拡大した。
そこには、一人の少年の情報が表示されていた。
三上透。
年齢、十七歳。
所属、現地の高等学校。
能力、該当なし。
血統、特記事項なし。
物語上の役割、特記事項なし。
「……普通の人間だな」
「はい。現時点では」
「なら、なぜ記録に異常が?」
「わかりません」
沈黙が落ちた。
やがて、上席の職員が画面を閉じた。
「当該人物の記録は、検索してはならない」
「……理由をお聞きしても?」
「命令だ」
職員はそれ以上、尋ねなかった。
記録は閉じられた。
だが、少年の名前だけが、誰にも気づかれないまま■■■の記録の片隅に残り続けていた。




