花の姫
裏庭を見渡せるベランダからは風が吹いて来ない。ゆっくりと冷たい空気だけが流れてくる。
ナイルは昔から、こんな所にベランダがあることが不思議でしょうがなかった。表向きに大きなベランダが一つと、裏に小さいのが一つ。裏のベランダは必要ないんではないかと、来る度に思っていた。
カンテラを片手に辺りを照らすと、本当にいろいろな物が棚に積み上げられていることがわかる。棚に乗らない大きな物は床に置かれて、その上にさらに荷物が置かれている。
その中――床に積み上げられている物の山の一番奥から、見覚えのある青い箱を見つけ手にとってみた。しかし、中にはガラクタばかり入っている。
けれど、ナイルは箱の中から次々と中身を出してゆく。作者不明のお世辞にも上手いとは言えない子供の落書きに、破れて空気の抜けたボール、四つの音しか出ない手製の横笛、土のついた錆びたスプーン――――それはすべて、あの秘密基地で使われていた遊び道具だった。しばらく遊ばなくなって、そこに溜まったガラクタを皆でわけて持って帰って行った時の物だ。
「そういえば、大人になったらまた持ち寄るって約束したな……」
その夢はもう叶わない。そう思ってしまうと、少し晴れてきた心がまた曇る。幸せなことは簡単に忘れてしまうが、嫌なこと、苦しいこと、悲しいこと、辛いことほど忘れられない――これほど悲惨なことはない。今の自分なら、そういう事を口にして誰かに訴えることは難しいことではない――そんな気がした。
「これも持ってくか……」
ナイルは青い箱の中身を片付けて、箱を出入口によけた。
次に見つけたのは、男物の服――その中身からしてシルラが旅の途中で集めたものの一部――が詰められた籠だ。その下にも箱があるようだがこれ以上は手が届かないので諦めて、さっさと籠を元に戻した。
次にナイルが見つけたのは、ベランダの近くに積まれた箱の山だ。大体四、五箱は積まれている。この箱には本が入っていた。母が愛読していた物もあれば、シルラが持ち帰った物もある。ナイルは何年か前に同じ場所で本を見つけていたが、せいぜい箱が三つあっても十分ゆとりがあるくらいしか本はなかった。それが今では、どの箱も破れるぎりぎりまで本が詰め込まれていた。
特別何かを読みたいというわけでもないので、タイトルを適当に読み流してからナイルは箱を片付けてゆく。――しかし、その中で一つだけ気になるものがあった。下から三番目の箱、過去に見た時にはその分厚さに目を逸らした赤い本。それだけを取り出して、残りはさっさと片付けた。
箱をすべて元に戻して、カンテラの光だけを頼りに本を照らした。
タイトルは『ジルハード王国説話集』。金色の字で書かれている。このジルハードという言葉にナイルは惹かれた。チルの話したロクサーノとのやりとり、廃屋のアンブランテの門――どちらもジルハードという国がキーワードになっている。
目次を見るだけでも、この本一冊に二十以上の話が詰まっているようだ。中には童話として有名な物語のタイトルもある。
「こんなのがあるなんて……」
家にいながら知らなかった。最近起きた出来事がなければ興味を持てなかった。そんな事を思いながらナイルはページをめくった。彼が見ているのは童話で有名な『花の姫』という話だが、この本に載っている内容はとても子供向きとは言えない、堅苦しいイメージが強い書き方をされていた。
欄外に小さい文字で解説が書かれている。――この物語はジルハード末期、城が封印の被害に遭い、王を失った国が滅んでいった時に書かれたものと説明されている。作品のモチーフとなったのは封印された王女と、王女に仕えた魔術師だそうだ。
――――時はジルハードの最盛期。まだ幼い王女・ルディの元にシャルマという魔法使いがやってきた。彼は護衛として王女の元に仕える事になったのだという。
それから時は流れ、ルディは十五歳になっていた。彼女の両親は流行り病にかかり、その病は森の真っ赤に光る木に棲む悪魔が原因と知ったルディ。自身の魔力を武器に、シャルマと共に魔法で悪魔を倒し、国を襲った流行り病を直して国の平和を守り幸せに暮らしました――――
と、いうのが花の姫という童話の内容である。
だがこの本には、赤い木の事も悪魔の事も一切書かれていない。木と悪魔の代わりに、王女の許婚の男が出ている。二十歳の貴族の男だ。この男が、流行り病で王と王妃が倒れたのをいいことに本性をあらわにし始める。彼は流行り病で王が死んだ事に仕立て上げ、王家の娘の許婚である自分が次期国王となろうと企んでいた。元々、次期国王の座はルディにあった。
童話との最大の違いは、ルディとシャルマが恋愛関係にあり、ルディも国も欲しい為にそれを気に食わない許婚の男と、彼の元恋人との争いがある、泥沼と化した人間関係の描写だ。他にも権力争いや王が過去に寵愛した元側室の登場など、人間の本性がむき出しになった、非常にドロドロとした内容となっている。
本を読みながらナイルは大きなあくびをした。