106 賢姉と愚妹 ーウェスコンティ卿家令嬢
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「姫様、足下にお気をつけあそばせ」
マディンを筆頭とするクラカライン屋敷の使用人たちと一緒にセイジェルを見送ったノエルは、屋敷の中を通らず、散歩を兼ねて外から温室に向かうことにした。
お揃いのケープを纏ったドラゴンのぬいぐるみ、みどりちゃんを抱えていて見えない足下が少し浮ついていて心配になったミラーカが声を掛けた矢先、少しばかり盛り上がった地面に蹴躓いたノエルを面白半分に付いて来ていたアルフォンソが襟首を掴んで助ける。
ノエルがホッとしたのも束の間、次の瞬間にはミラーカが声を荒らげる。
「姫様を犬猫のように扱うでない!」
「助けて差し上げましたのにそのように言われるとは、心外でございますね」
わざといじけてみせるアルフォンソの眼下では、助けてもらったノエルが抱えていたみどりちゃんに話し掛けている。
「みどりちゃん、よかった。
ちょびっとしっぽ、よごれた。
ごめんね」
「姫、みどりちゃんの恩人であるわたくしに礼を言うのを忘れておりませんか?」
アルフォンソの主人はセイジェルだが身分はノエルのほうが遥かに上である。
そもそもアルフォンソは使用人の立場である。
それが主家の姫に礼を催促するなど本来は許されないことだが、当たり前のように催促するのが彼らである。
だがノエルも少し前まで身分というものを持たない平民で、今も白の領地で五指に入る高位である自覚など微塵もない。
だからみどりちゃんの尻尾に付いた土を払っていたノエルはアルフォンソの言葉にハッとする。
「わすれてた。
アルフォンソさま、ありがとう。
みどりちゃんもありがとう、いってる」
「いえいえ、どういたしまして」
「本当に姫は素直でいらっしゃる」
やはりわざとらしく嬉しい素振りをして応えるアルフォンソに続いたウルリヒは、これまたわざとらしく 「誰かさんと違って」 などとさらに余計な一言を付け加えてミラーカを憤慨させる。
「お黙りなさい!」
もはや日常となりつつあるいつものやり取りを繰り広げながら、一行はゆっくりと温室に向かう。
そして着いた温室でノエルはみどりちゃんと植物観察を始めるのだが、文字通り観察だけで、温室で世話をされている植物に触れることはしない。
所狭しと植えられた植物や置かれた鉢を、腰を屈めたり座りこんだり背伸びをしたりしてみどりちゃんと一緒に眺めるのだが、決して植物には触れようとしないのである。
初めてこの温室を訪れた時からそうだったから、誰かに叱られたというわけではない。
だがどんなに綺麗な花が咲いていてもノエルは触ろうとしないのである。
「みどりちゃん、おおきなはっぱ。
うらにむしいる。
ノエル、むしきらい」
わざわざ葉裏を覗きこんでみどりちゃんとそんな話をするノエルだが、絶対に植物には触れないのである。
赤の領地にいる頃、ノエルの父クラウスは生前、幼い頃から学んできた調薬の知識を生かして生計を立てていた。
薬草畑も持っていたから、雑草と間違えて抜いてしまうなどして父親に叱られたことがあったのかもしれない。
実際にノエルは特定の植物を見ると言うのである。
「ノエル、このはっぱしってる。
みたことある」
そういう植物の中にはアルフォンソたち五人が育てている薬草もあったから、おそらく父親の薬草畑で見たのだろう。
だが薬効などは知らないらしく、ただその植物を見たことがあると話すだけ。
おそらくクラウスが調剤する姿も見ていただろうが、調剤の知識もないだろう。
ただ温室の中を、みどりちゃんと一緒にいろんな植物を見て楽しそうに過ごすのである。
その裏でルクスに新たな受難が訪れていることも知らずに……。
「ちょっと待て」
「いくらでもお待ちいたしましょう」
クラカライン屋敷において主人の命令は絶対である。
名門ラクロワ卿家の公子であるルクスですら、どんなに足掻いてもセイジェルが 「謹慎」 と 「写本」 を言い付けた以上 「謹慎」 と 「写本」 は絶対なのである。
出された条件をクリアしなければ自由を取り戻すことは出来ない。
クラカライン屋敷を脱出出来れば 「写本」 からは逃れることは出来るかもしれないが、「謹慎」 がある以上それも許されないのである。
そこでルクスは朝食を終えると早速写本に取りかかったのだが、セイジェルの側仕えであるヘルツェンが部屋を訪れて一時中断。
すぐにでもヘルツェンを追い出すために話を聞いたのだが、その用件にルクスは自分の耳を疑う。
そんなルクスを見て、待つのは全然かまわないが用件は変わらないとヘルツェンは笑顔で返す。
「そういうことを言っているんじゃない。
セイジェルが僕に命じた写本は十回だ!
間違いなく十回だ。
それがなぜ二十回になっている?
いつ増えたんだっ?
なぜ増やされたっ?!
僕は増やされるようなことはしていないだろう!」
「そういう意味でございますか。
公子の主張はわかりましたが、そのようなことをわたくしに仰いましても困ります。
わたくしは旦那様の忠実なる僕ゆえ、ただご下命を忠実に果たすだけにございます」
忠臣ぶってみせるヘルツェンは、写本の回数が二十回になったことを伝えに来ただけだと笑う。
それが使用人である自分の務めであり、主人の決定は絶対だとも言う。
「あのクソガキ……」
「公子、お慎みを」
「そのようなことを仰ってはまた……」
整った顔を歪ませて歯がみするルクスを、部屋の中で片付けなどをしていた彼の側仕えたちが近づいてきて宥める。
その様子を見て煽るのがヘルツェンである。
「旦那様も公子もとうに成人されておりますのにガキなどと。
もう少し悪口も成長せぬものでしょうか?
子どもの頃から仰ることが本当にお変わりない」
「黙れ!」
「公子、どうぞお鎮まりください」
「朝食の席で姫君に圧をお掛けになったではありませんか。
あのようなことをなさるから領主様のご不興を買ったのでございます」
「本当に、こんな主人にはもったいない側仕えでございますね。
いい仕事をする上に頭もよい」
「だから黙れと言っている!」
「独り言でございます。
どうぞ、お気になさらずに」
「だったら僕に聞こえるところで言うな!」
「聞こえないところで言っても面白くないではありませんか」
わざと聞かせているのだと口の減らないヘルツェンは、煽りに煽りまくってルクスを憤慨させて楽しむと、夕方頃になって公務を終えてクラカライン屋敷に戻ってきた主人にお遣いの成果を話して聞かせる。
「あのご様子では、あっという間に写本も100回になるでしょう」
そう話しながらヘルツェンはセイジェルの上着を脱がせる。
「それはそれでよい。
教本は何冊あってもかまわないし、製本屋も仕事が増えてよい」
「本当に、旦那様は領民のことをよくお考えでございます」
「比べてラクロワ公子は……」
セイジェルの言葉をウルリヒが褒め称え、それに続くヘルツェンの言葉に合わせて五人の側仕えはわざとらしいほど大きく息を吐いてみせる。
当然セイジェルの部屋にルクスはいないから、おそらくこれはセイジェルに対する嫌味なのだろう。
だがセイジェルも、ルクスのことなどいくら言われても痛くも痒くもない。
それこそ言いたい奴には言わせておけとばかりにわざとらしい溜め息を無視するが、夕食後、部屋に入ってきたマディンの報告には不快感を顕わにする。
「旦那様」
入浴や就寝の支度に忙しい側仕えや使用人たちの中、一人椅子にすわって膝に本を開いて読んでいたセイジェルに近づいてきたマディンは、声を掛けながら手に持っていた銀色の小さなトレイを差し出す。
そこには一通の封筒が載せられていた。
すでに封が切られているのはマディンが内容を確認したからだろう。
その上で主人のところに持ってきたのである。
マディンを一瞥したセイジェルは伸ばした手で封筒を取ると、まずは裏側の封蝋を見る。
そして捺されている封緘を確認する。
「……ウェスコンティ卿家か。
この時期には珍しいな」
独り言なのか?
それともマディンに話し掛けているのか?
わからないが、セイジェルがそんなことを呟きながら便箋を取り出すと、ほんのりと女性用の香水が漂う。
おそらく差出人が愛用の香水を降って匂い付けをしたのである。
その匂いでセイジェルもなにか気づいたらしい。
「そういえば、イリスには妹がいたな」
セイジェルの祖母で、稀代の美女と言われた故先々代領主夫人エラル・ウェスコンティ。
今の当主であるウェスコンティ卿マキャブはエラルの甥で、イリスはマキャブの長女にあたる人物である。
つまりセイジェルとイリスは又従兄弟の関係にあたり、ともに婚約者がおらず、必要に応じてセイジェルのパートナーを務めることもある女性である。
だが同じように独身で婚約者もおらず、セイジェルのパートナーを務めることがあるハルバルト卿家の令嬢ラナーテと違い、イリスはセイジェルが自分以外の誰かと正式に婚約するまでの仮初めであることをよくわかっていた。
だから手紙などはいつも業務連絡的な内容で文章も事務的。
自分が使っている香水で香り付けをするなんて洒落たことなど一度もしたことがなく、そんなことをする必要もないと考えている。
おそらくこれから先もイリス・ウェスコンティは絶対にそんなことはしないだろう。
それこそセイジェルが相手を見つけて婚約が決まれば、お役御免になったイリスもようやく結婚が出来る。
ウェスコンティ卿家は白の領主一族と連なる名門貴族だが、時間が経てば経つほどイリスと年齢的に釣り合う相手が限られてくるからさっさと婚約して欲しいなどとセイジェルを急かすほどである。
セイジェルの仮初めパートナーの一人を務めながら同時進行で自分の結婚相手の候補を見繕い、セイジェルの婚約を今か今かと待っているのである。
「わたくしやラナーテが領主様と結婚することはあり得ませんもの」
聡明なイリスは、おそらくはじめからわかっていたのだろう。
だからずっとそう言っていた。
いや、普通に考えればわかることである。
イリス・ウェスコンティもラナーテ・ハルバルトもすでに成人しているのだから、セイジェルがどちらかとの結婚を本気で考えているのなら、成人前に婚約を済ませ、成人とともに結婚するはず。
現在のクラカライン家には直系男子が三人しかおらず、現領主であるセイジェルには兄弟もいないから後継者問題はかなり重要である。
それなのにどちらとも結婚はもちろん婚約すらしないのだから、セイジェルはこの二人との結婚を考えていないのだろう。
だからイリスは、クラカライン家やウェスコンティ卿家の体面を考えておおっぴらには出来ないが、水面下でひっそりと婚活を進めているのである。
しかもセイジェルは、もう一人の婚約者候補と噂されるハルバルト卿家令嬢ラナーテが領主夫人の座を諦めていないことも、イリスの婚活も知っていたから、ウェスコンティ卿家から届いた便箋から香水の甘い匂いがした瞬間に差出人が彼女ではないと察したのである。
では送り主は誰か?
そう考えた時にイリスの妹のことを思い出したのだが、日頃から関わることがないためか、名前までは覚えていなかったのである。
「マリン・ウェスコンティ嬢でございます」
セイジェルの問い掛けにマディンが低く答える。
特に感情のない声で 「ああ、そんな名前だったな」 と応えたセイジェルは、手にした便箋を開いて文面に目を通す。
内容は収穫祭の食事に、ウェスコンティ卿家に招待したいという実に簡単なものである。
だが慣例として招待状はもっと前に届けられるもの。
特に収穫祭の食事はどこの家でも同じ時期に行なわれるため、他家の招待との調整が難しいからである。
もう今の時期は届いた返事のとりまとめも終わり、席次も食事の内容も決まっているはず。
食材の手配や、遠方からの招待客用に客室を用意するのに屋敷中が忙しくしている頃だろう。
ウェスコンティ卿家ほどの家なら、ギリギリに客が一人くらい増えても問題はない。
席次も、領主は他のどんな客よりも上座と決まっている。
だから問題はそこではなかった。
もちろんこれはハルバルト卿家との暗黙の協定破りである。
だがそれ以上に、マリン・ウェスコンティはこんなギリギリに招待をしても領主の都合がつくと思っているのだろうか?
あるいはウェスコンティ卿家のために領主が都合をつけると思っているのか?
それを当然とでも思っているのか?
そもそもウェスコンティ卿家が主催の食事会なのだから、現当主のマキャブ、あるいはその父である前当主のボスコーブが招待するのが普通である。
それなのに娘の、それも二番目の娘であるマリンの招待というのは領主もずいぶんと軽んじられたものである。
すぐに読み終えたセイジェルは、折り目に沿って畳み直すこともせずマディンが捧げ持つ銀のトレイに便箋を放り投げる。
「ご出席なさいますか?」
「返事をする必要はない。
そのままウェスコンティ卿に送り返せ」
声を荒らげたわけではないが、封筒ごと父親のウェスコンティ卿マキャブに送り返せとはずいぶんと乱暴な返事である。
だがそれだけセイジェルが気分を害したという意思表示でもある。
差出人のマリン・ウェスコンティには返事をしないことが返事であり、おそらくマリンは送り返された招待状を受け取った父親から雷を落とされることになるだろう。
だが礼儀も作法も欠いたのはマリンのほうである。
領主を軽んじたのもマリンである。
イリスの妹だからセイジェルより幾つも歳下であることは間違いないが、セイジェルは容赦なく制裁を下すことにしたのである。
「むしろ表沙汰にしないだけお優しいかと」
それこそ公の場で父親のウェスコンティ卿マキャブを呼び出し、叱責して大恥でもかかせてやればいいのに……などと手紙を盗み見た五人の側仕えたちは囃し立てたがセイジェルは乗らなかった。
そんなことをすればハルバルト卿家派が図に乗るのが目に見えているからである。
アスウェル卿家やラクロワ卿家を煩わせないためにも、ウェスコンティ卿家にはハルバルト卿家の対抗馬的な存在でいてもらう必要がある。
だから必要以上にウェスコンティ卿家を叩くのは避けたかったのである。
それに今回の件を公にしないことでウェスコンティ卿家に貸しを作ることも出来る。
小さなものではあるが役に立つこともあるだろうと考えるセイジェルだが、五人の側仕えたちは不満そうである。
「それともう一つご報告がございます」
放っておけばいつまでも文句を言い続ける側仕えたちを牽制するようにマディンが口を開く。
無言のセイジェルが一瞥をくれると、銀のトレイを捧げ持ったまま直立を維持するマディンは報告を始める。
「昼頃から姫様のお加減がよろしくないようです。
リンデルト嬢や側仕えの話では、医師を呼ぶほどではないようではございますが」
朝セイジェルを見送ったあと、アルフォンソとウルリヒもノエルと一緒に温室に行ったが、昼食前には部屋まで送り届け、それ以降のことは知らないという。
それでもマディンの話を聞き、思案したヘルツェンがヴィッターに話し掛ける。
「熱冷ましはまだありましたか、ヴィッター」
「……少し足して置いたほうがいいかもしれませんね。
あとで確認しておきます」
「頼みます」
するとクレージュが思い出したように言う。
「そういえば眠り薬もそろそろ」
「ああ、そちらはわたしが作りましょう」
ヘルツェンが言うと、ヴィッターが 「ではついでに材料の在庫を確認しておきます」 と応える。
つい先程まで文句ばかり言っていた彼らだが、お抱え魔術師の自覚も仕事も忘れてはいないらしい。
さらにはアルフォンソも思い出したように 「そういえば」 と言い出す。
「例の苗ですが、上手く根付いたようです。
てっきりあのまま枯れてしまうかと思っていましたが」
「やはり姫の?」
尋ねるヴィッターに、アルフォンソは 「わかりません」 と答えて続ける。
「ですが今日も温室には緑の魔力が、それはそれは不快なほど満ちておりましたから、あるいは」
「あの緑のぬいぐるみも曲者ですね。
姫も、温室に行く時はわざわざ緑に持ち替えていますし」
温室までアルフォンソと一緒に同行していたウルリヒも言う。
だが肝心のノエルは、自分にそんなにも関心が集まっていることなど露知らず。
夜には熱が上がってしまったため、翌日の朝食には現われなかった。
翌朝、ニーナから報告を受けたマディンを経由してセイジェルに伝えられたが、セルジュはノエルに興味がない。
珍しいことでもないからあえて訊く必要もない。
ミラーカは前日からノエルが熱を出していることを知っていたから、朝はノエルの部屋に顔を出して様子を見てから食事室に来ている。
つまりルクスだけが知らなかったわけだが……
「まさかお前、あんなチビの食事まで抜いているんじゃないだろうな?」
ノエルがなにかしら粗相をして、朝食抜きの罰を受けたのではないか?
どうやらルクスはそんなことを考えたらしい。
おそらく自分が罰を受けて昼食を抜かれているからそんな発想になったのだろう。
ノエルが朝食の席に姿を見せない理由を自分に重ねてセイジェルを責めるが、セイジェルに代わってマディンから説明を受ける。
すると今度は……
「熱?
あのチビが熱を出したのか?
それってまさか……僕のせいじゃないだろうなっ?」
突如として慌て焦るルクスだが、セイジェルもセルジュも素知らぬ顔である。
そして朝食を始めるのである。
「日々の糧を恵み給う光と風に感謝を……」
「待て、セイジェル!
まさかお前、また写本の数を増やすつもりじゃないだろうなっ!!」
【ウェスコンティ卿マキャブの呟き】
「これはいったいどういうことだ?
クラカライン家からこんなものが送り返されて来ただと?
マリンはいったいなにを考えている!
勝手にこんなことをして……どういうつもりだっ!!
マリン!
マリンはどこだ!!
すぐにマリンをわたしの部屋に連れて来なさい!!」