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義父の錯乱



 私の心配していたとおり、鰯の塩漬けの焼き魚を見た朱鷺子さんはとても嫌そうに眉を寄せた。


「こんなもの、食べられない。朝から魚なんて。しかも鰯よ? 私の一番嫌いな、鰯! お姉様は私に嫌がらせをしているのね。昨日のことを恨んでいるのでしょう?」


 畳敷の八畳間の居間の食卓に、三人分の朝餉をのせたお膳が並べてある。

 私はおひつのご飯をお茶碗に盛って、配っていた。

 朝の身支度を整えが朱鷺子さんがます最初に居間にやってきて、それから幸次郎さん、そして朱海お母様が現れた。

 朱鷺子さんがお食事のおかずに怒るのは良くあることだ。

 鰯でも、鮭でも鯖をでも、朱鷺子さんは同じように怒る。

 お魚に怒ることもあれば、お肉が硬いと怒ることもある。鳥が嫌だと言ったり、牛が嫌だと言ったり、豚が嫌だと言うこともある。野菜に怒ることもあるし、卵に怒ることもある。

 だから、朱鷺子さんが怒りはじめたら、ただ謝るより他はない。


「ごめんなさい。鰯をたくさんいただいたものですから……」


「一体誰が売れ残りの魚を持ってくるの? 売れ残りの魚を私たちに食べろと? 馬鹿にするんじゃないわよ!」


 今の言葉は、良くなかった。

 朱海お母様が私の頬を叩いた。頬を叩かれた衝撃でお茶碗が手から落ちて、ご飯が畳の上に溢れてしまった。


「ごめんなさい……!」


 畳の上にうずくまるようにしながら、私は謝った。頬がひりひりと痛む。

 それ以上にみじめで、頬よりもずっと心が痛んだ。

 何も感じなくなれば良いのに。頬の痛みも、心の痛みも。


「あぁ、恐ろしい。朱鷺子さんを恨んでいるの? あんたが愚図なのが全部悪いんじゃない」


 這いつくばる私の頭に、ぼたぼたと何かが落ちてくる。

 焼いた鰯と、お味噌汁だ。

 お母様が私の頭の上でお膳をひっくり返したらしい。お椀やお皿が畳の上に散らばって、硬く耳障りな音を立てる。割れてはいないみたいで、よかった。

 割れると片付けが大変だから。

 幸次郎さんは私たちのやりとりが目に入っていないかのように、朝食を食べると「それじゃあ仕事に行くから」と言って居間を出ていった。


「……せっかくの食事が、もったいないわよね。畳にこぼしたのはあんたなんだから、全部食べなさい」


 朱海お母様は、私を嘲笑いながら言った。

 どうしてお母様は私を嫌うのだろう。

 私が、できそこないだから。愚図で、役立たずの、鬼子だから。

 そんなことはできないと、私は首を振った。

 なけなしの自尊心が、畳にぶちまけられた食べ物を食べることを、拒絶している。

 朱海お母様は私の髪を掴むと、私の頭を畳に押し付けた。


「ほら、食べなさい。せっかく私が食べて良いと言っているのだから、ありがたくお食べなさいな。蜜葉、お母様のいうことがきけないの?」


 私はしばらく唇を噛み締めていたけれど、なんだかとても、疲れてしまった。

 大人しく、畳にこぼれた白米を口に含む。


「まるで犬みたい。お姉様、人間ではなくて畜生だったのね」


「私は犬の子を産んだ覚えがないの。あんたは犬の腹から生まれたのだわ。ああいやだ、いやだ」


 朱鷺子さんと朱海お母様は大袈裟に私を貶める言葉を口にしながら、居間を出て行った。

 一人居間に残された私は、のろのろと起き上がると、朝餉を片付けはじめる。

 食事がこぼされた畳を綺麗にするのに手間取っていると、ほどなくして、お母様たちは喫茶店でモーニングを頂くのだと言って、屋敷から出て行った。

 私はほっとしながら、台所に向かった。

 朝餉は無駄になってしまった。

 体を洗って、服を着替えないと。髪に、白米がこびりついている。

 なんだか、おかしくて。とても、虚しくて。じわりと涙が溢れてきたので、ごしごしと腕で目尻をこすった。

 涙は枯れてくれない。お腹も空いた。残り物を食べるのは本当は嫌だけれど、仕方ない。

 私は誰にも食べてもらえなかった可哀想な鰯を、少しだけ齧った。

 それから、お風呂場に向かった。お風呂掃除をするついでに、体を綺麗にしてしまおう。お湯はないけれど、白米がこびりついたままの髪で生活はできない。また、朱海お母様に叱られてしまう。

 水の冷たさぐらいは我慢できる。


 朱海お母様と朱鷺子さんは、夕方すぎまで帰らなかった。

 どうやら観劇に出向いていたらしい。幸次郎さんが街の劇場のチケットを手に入れてくれたのだと、朱鷺子さんが弾む声で富子さんに話をしていた。

 劇場のある街までは汽車で二時間はかかる。観劇をして、街を散策して帰ってきたのだろう、朱鷺子さんも朱海お母様も、夕飯はいらないと言っていた。

 朝は少し大変だったけれど、今日は比較的平和な一日だったように思う。

 私は布団部屋に戻ると、暗闇の中で丸くなった。

 明日も、どうかーー何もおきませんように。

 そう思いながら、うとうと微睡んでいた。冬は寒いから、古い着物を重ねて寝床を作って眠っても、何度か目が覚めてしまう。

 どのみち部屋は真っ暗だから、目を開けても、閉じているのと同じなのだけれど。

 ーーふと、人の気配を感じた。

 なまあたたかい獣のような吐息が、私の首筋に当たっている。

 私は大きく目を見開いた。

 私の上に、誰かがいる。

 大きな体の、男の人が、私にのしかかっている。


「……っ、いや、……嫌っ」


「静かにするんだよ、蜜葉。皆に気づかれてしまう」


 私の耳元で、幸次郎さんの声がする。

 大声で叫ぼうとした私の口は、幸次郎さんの手で塞がれた。


「駄目じゃないか、蜜葉。今日は帰りが遅いから、起きて待っているように言っただろう?」


「……っ」


「あぁ、蜜葉。本当に美しく育ったね。俺は昔から、お前に夢中だった。朱海さんのような年増より、俺は蜜葉を愛しているんだよ。蜜葉、お父様の気持ちは、もうわかっているだろう?」


 太腿に大きな手が触れる。

 私はくぐもった声をあげながら、じたじたと暴れた。

 おぞましくて、気持ちが悪い。皮膚の上を、毒虫がのたくっているみたいだ。吐き気がする。


「蜜葉。すべすべで、柔らかいね。たまらない」


 暗闇の中ではっきりと、幸次郎さんの爛々と光る瞳が見えたような気がした。

 この人は、誰なのだろう。

 私が鬼子だというのなら、この家の人々はーー。

 私はいつの間にか、鬼の住処に迷い込んでしまったのかもしれない。

 怖い。


(誰か、助けて……誰でも良い、鬼でも、悪霊でも良い……)


 私の祈りは、誰にも届かない。

 そんなことは知っているのに、祈らずにはいられなかった。


「……何をしているの?」


 唐突に、暗闇に光が溢れた。

 髪をぼさぼさに振り乱した朱海お母様が、引き戸の向こうに立っている。

 家に帰ったとばかり思っていた富子さんが、燭台を手にしている。蝋燭の明かりが、私たちを照らしていた。


「朱海さん……! 聞いてくれ、この女に誘われたんだ。君の娘は、頭がおかしいのではないかな」


 幸次郎さんは素早く私から離れると、朱海お母様の方へと逃げていった。

 着物を乱した私は一人、布団部屋に横たわっている。

 恐怖で歯ががちがちと震える。声を出すことも、動くこともできなかった。


「この、売女。富子、鍵をしてちょうだい。この女を、ここに閉じ込めておいて」


 まさかと思った。

 はっきりと見ていたのに、朱海お母様は幸次郎さんの言い分を信じた。

 私は、馬鹿だ。朱海お母様は、私を助けてくれたのだと、一瞬淡い期待を抱いてしまった。

 引き戸が閉められて、外側から鍵をかけられた。

 私は乱れた着物を手繰り寄せて、自分の体を抱きしめた。

 最低なことはたくさんあったけれど、今日が一番、最低だ。

 もうこれ以上嫌なことは起こらないだろう。

 ーーそう思っていたのに、それが間違いだと知るのは、夜が明けてからのことだった。



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