路地裏の決闘3
幼い頃、まだ自分が一人でここを彷徨っているときのことだ。マークスはまだ見ぬ明日に常に怯えていた。暴力渦巻くこのスラムで、明日は一体誰に殴られないといけないのか、誰に蔑まされないといけないのか、と。寄る辺すらない自分なのに、恐怖に縛られどこにも行けず、闇の中に囚われていた。
颯爽とヒーローのごとく目の前に師が現れ、自分を殴るゴロツキたちを追い払ったとき、憧れとともに抱いたのは自分もこうなれば自由になれるということだった。何者にも脅かされず、心の赴くままにどこにだって行ける。幼い頃のマークスにとって、強さとは自由への切符のように思えた。
――上体ばかりに気を取られるな、足元が留守になってるぞ。
師から一番最初に教えられた歩行術。通常よりも長い槍を使う槍術の中で、一番長く手間取ったそれは、しかし今ではマークスの血肉となり、一般生活においても歩く際に無意識に行っている程だ。
「フッ」
槍を持つ手の位置を巧みに捌きつつ、完璧な足運びで狭い路地の中、長槍を存分に振るう。先程の失態のお陰で、壁と壁との間の距離は完全に把握している。立ち位置を巧みに調整しながら、師の形見である愛槍を突き、薙ぎ、払う。その軌道は全て壁ギリギリをかすめながらも、勢いを失うことはない。
「ぐッ⁉」
二度、魔法を交えた奇襲により懐に入られたが、それ以上の引き出しは相手にはないようだ。完全にマークスの距離を保ったまま、一方的にユリアンを追い詰める。途絶えぬ連撃を徐々に受け止めきれなくなり、ユリアンの顔や体に血が滲み始める。
「馬鹿なっ⁉」
屈辱と驚愕の入り混じった声が聞こえる。だが、マークスはもう相手にするつもりはなかった。半殺しにした上で、きちんとクリスとセティを殺したことを白状させるつもりであったが、その隠さぬ獣性にマークスはユリアンこそが犯人であると確信していた。皆の前へと連れて行って出し抜かれでもしたら傷が広がるだけである。ここでさっくりと殺すことこそがベターな選択なのだ。
仇を討てぬ者たちにとっては悔いが残るだろうが、それは弱き者が背負う当然の枷だ。弱いということは不自由と同義とマークスは信じている。首でも持って行って仇を討ったと言ってやれば嫌でもいつか前を向かざるを得ないだろう。自分は当初の予定通り、一人でこの街をでればいい。
「……」
戦局は既にマークスに完全に傾いている。最早一方的に嬲る形となり、マークスが槍を振う度にユリアンの体からは血しぶきが舞う。後は大きな隙さえあれば、心臓に一突きくれてやればいいし、背を向け逃走しようとするならば、背にそれを突き立てるだけだ。
作業といえるような攻めの中、しかしマークスの集中は途切れない。勝利の瞬間は刻々と近づくように思えたが――
「あああああああああああああああああっ‼」
突如として放たれた相手の絶叫。警戒を引き上げるなかで、相手が取った戦法は玉砕に見える突貫。ジリ貧の中、やけくそにでもなったのかと思ったが、マークスは冷徹に止めをささんと相手の胸部目掛け突きを放つ。
「ッ⁉」
絶妙な距離であった。その為、マークスは躊躇うことなく必殺というべき威力の突きを放つ。その一撃は、両手で握った騎士剣で防ごうとしたユリアンの剣を弾き、少しばかり逸れるも右腕を半ばまでそぎ落とす。
戦闘における致命傷を与えたマークスは、突進してきたユリアンと位置を入れ替わると、突きの勢いを利用したまま流れるように反転し、ユリアンへとすぐさま向き直る。だが、そこで目にした光景にマークスは眼を見開いた。
「わああああああああっ‼」
突進の勢いのまま、マークスの槍を右腕一つ犠牲にして躱したユリアンは、その勢いのままつんのめる様にして無様に地面へと転がる。だが、勢いを衰えさせることなく前転すると、ユリアンはすぐさま背を向けて逃走を始めた。
「クソッ、逃がさんっ‼」
先ほどの無謀とも思える突撃は、逃走のための布石だとマークスは悟った。それは自身の見立てにもなく、完全に出し抜かれる形となってしまった。身構えた分だけ遅れ、距離を稼がれてしまった為、マークスは全力でその背中を追う。
狭い裏路地の中、二人の男は全力で駆ける。いくつもの曲がり角を曲がりながら、他者から見れば鬼ごっこのように滑稽なそれはいつまでも続くかのように思われた。が、足の速さはマークスの方が僅かに速く、徐々にその距離は狭まっている。後は射程に入れば手にした槍でその背を貫けばいい。
マークスは冷静にその機を計る。しかし――
「あんちゃん、おしっこ漏れちゃうよぉ」
「仕方ないなあ。夜だからって一人で出来るようになれよ」
この近辺に住む兄弟だろうか。小屋とも呼べぬ、木を組んだボロ屋から悠長に二人子供が出てくるのが見えた。甘えるような甲高い声と、それを諫める声がマークスの耳にも聞こえてくる。
それと同時に目の前の男が、駆ける軌道を変え、真っすぐその兄弟へと狙いを定めるのが分かった。剣もいつの間にか右手から左手へと持ち替えている。
「止めろッ⁉ 止せっ!」
マークスは自身でも意識せずにそう叫んでいた。そんなことをしても、俺は気にせずお前を追う。そう叫びたかったが、その余裕もなく兄弟の横を男は駆け抜けた。
「うわっ」
夜の闇の中、間の抜けた声が響く。そして兄の方が地面へと崩れ落ちる。マークスの叫び声に反応し、弟を背中越しに庇った兄が斬られるのをマークスは見た。
「あれっ、あんちゃん? あっ、あんちゃーーんっ⁉」
マークスがその横を駆け抜けるのとほぼ同時に、弟が兄の異常に気付いて叫び声をあげる。
傷の度合いは分からない。だが、マークスを足止めするためにしたというのなら絶命はさせていないだろう。今すぐ、奇跡を行使できるというエリスやアンナの下に連れて行けば助かるかもしれない。
だが、マークスは足を止めることはなかった。ただ真っ直ぐに敵の背を追う。ここで仇を逃せば、このスラムに二度と近寄らないかもしれない。顔を知っているとはいえ、広い王都で探し当てる伝手もない。自分も腕が少し立つだけで所詮はここの住人なのだから。
ここで奴を逃せば自身の消えぬ負債となる。マークスはそれ程このスラムに肩入れする気はなかった。この世の中は弱肉強食。常にどこかで、無慈悲にクリスやセティのような子供たちの命は零れ落ちている。過剰にそれに肩入れするのは偽善に等しい。畢竟、人は、いや命は己の足で立たねば死が待つのみ。師が口を酸っぱくして言っていたではないか。――そう、自分が憧れた時の師は……。
――マークス、儂のようにはなるなよ……。
最後に自分に語り掛ける師の言葉。マークスは思わず耳を塞ごうと思った程だ。マノンという糞ガキを拾ってから師は変わってしまった。普通の好々爺のようにただひたすら幼い少女を孫のごとく可愛がり始めたのだ。老年の弱さがそうさせたのか、マノンという少女に特別な何かがあったのか。
――マノンを頼む。
変節したとはいえ、自身を救ってくれた師の言葉は無下に出来なかった。そのため、ここを離れる予定を引き延ばし、ただ一人冒険者ギルドの高難度クエストに挑んで金を貯めたのだ。当初はモーラに金ごと預けようとしたが、予定が狂ってしまった。
だからマークスは、モーラと出会う前に話をつけていた食堂の夫婦にマノンを託すことに決めた。その夫婦はすこしばかりがめついし、善人とはいえないが、信義にもとることはしないし子供好きな一面もある。二人には子供はいないし、無駄に愛嬌のあるあのガキならば気に入られるだろう。
(あの男を討ち、俺はアストリアを出る! 己の武を篝火に、天下を自由に横行してみせる。そうなれば弱者故の屈辱も悔恨も、もう無縁だ‼)
そう、あの男は自身をこの国に縛り付ける最後の枷。決して逃がすわけにはいかない。
――マー君。マー君は強くて優しいから凄いね。絶対英雄になって弱い人たちをいっぱい救って、皆から褒められる人になるね。私もマー君に相応しい女になるために頑張るからね。
自身にとっては疫病神に等しいクソガキ。なのにこんなとき、無垢な表情で微笑みながら自分を見上げる姿を想い出してしまう自分が腹立たしい。
(お前の様なクソガキをいつまでも隣に置くわけがないだろう)
心の中で悪態をついても、信頼を湛えて自分を真っ直ぐに見つめる少女の顔が消えない。そして、いつしかその信頼の瞳を持った顔は、別の人物へと切り替わる。今、自分が仇を討ってやろうとしている少年の顔に。
(クリスッ‼ 今、仇を討ってやる。俺にはそれ以上のことは出来ん)
かつてクリスの懇願を突き放した。それ自体に後悔はない。それでも今心の中にチクリと棘が刺さっているのはやはり悔いがあるからだと、マークスはクリスが逝ってしまってから理解した。始めは他と変わりない掃きだめのようなこの場所で、それでも少しずつマシになり形となっていくのを見るのを悪くないと自分も思っていたのだろう。
だからこそ、マークスはクリスに槍を教えて欲しいと請われた際に断ることなく受け入れたのだ。聡明だが、才という部分に関しては欠けていた少年ではあったが、それでもその純粋な強い想いはマークスに可能性を感じさせるには十分であった。今、必死に仇を討とうとしているのも、その想いが無駄になってしまうことに憤りを感じているからに他ならない。
「誰かっ、助けてッ‼ あんちゃんが死んじゃうよぉ‼」
少年の悲痛な叫びが聞こえる。だが、聞き入れる訳にはいかない。それを聞き入れたが最後、少年の仇は討てず敵を逃がしてしまう。憂いを残さずここを発つためにも、ここで立ち止まる訳にはいかないのだ。
しかし、雑念を閉じ込めようと唇を噛みしめるも、湧き上がるようにかつてクリスと稽古後に語り合った光景が脳裏に呼び起こされる。足元に倒れ伏したクリスはぐうの音もでない程しごき上げた結果、全身はボロボロであった。それでも嬉しそうに笑いながら、弟子ともいえる少年が自分へと微笑み、語り掛ける。
――マークスさん。俺が強くなりたいのは、俺がモーラに助けてもらったからです。そのお陰で今俺は妹と一緒にこうして安穏と生きていける。でも、それを実感する度に思うんです。ここには助けて貰えなかった俺達がきっと沢山いるんだって。今、俺が幸せを感じているときも、きっとその子たちが感じているのは絶望で。だから、今度はモーラに助けて貰ってマークスさんにこうして鍛えてもらった俺が……二人みたいに誰かを助けられたらって。
理想が過ぎるとそのときのマークスは突き放した。だが、それでもただ照れるように笑うクリスの顔が今鮮明に思い浮かぶ。それと同時に再び師の今際の際の言葉も聞こえてきた。変節を認めず、心の奥底に強く封じ込めたその言葉――
――マークス。我が最愛の弟子よ。……強いだけではつまらぬぞ。
「がああああああああっ‼」
迷いを振り払うように、マークスは咆哮する。
「ハアッ、ハアッ」
気付くと自然と足は止まっていた。遠目にクリスの仇である男が曲がり角へと消えていく姿が見える。
マークスは深い夢から醒めたかのように、呆然とした表情でそれを見送った。春が近いとはいえ、夜の寒さが汗に濡れた全身を急速に冷やし、ブルリと自然に体が震える。それと同時に一つ大きく息を吐くと、早鐘のように打つ心臓の音が耳にまで聞こえてきた。意識するまでもなく、男が消えた道に背を向けると、泣きながら必死に倒れた兄を抱き起している少年の下へと向かう。
(未熟者め。お前の望む夢も道も遠ざかったぞ)
己を激しく叱咤したかった。あの男は自分を警戒するだろう。二度とここには来ないかもしれないし、王都を離れられたら仇討の機会は永遠に失われるだろう。だというのに、漏れた自蔑は思いのほか小さかった。その理由をマークスははっきりと悟っている。先程心に過った三人は、今の自分の行動を決して責めず誰よりも誇ってくれるだろうということがはっきりと解るからだ。
別段、それはマークスの望むところではないし、少しばかり前の自分なら癪に感じていただろう。しかし、今は不思議と悪い気はしない。それはあまり望ましい変化ではないが、さりとて良くないとも思えなかった。
「あ」
兄弟の下へと行くと、泣いている少年が怯えるようにマークスを見上げる。今のマークスは槍を携え、血の匂いを漂わせているのだから、怯えるのは当然だろう。ましてや、今兄が斬りつけられたばかりなのだから。
だが、それでもまだ年端もいかない弟は、兄を助けるためにマークスに縋りついてきた。
「た、助けて。あんちゃんが死んじゃう。いなくなっちゃうよぉ」
死が別れと知っているのだろう。恐怖に震える声で、マークスのズボンを血に塗れた手で必死に握りしめてくる。マークスは振り払うことはせず、屈みこむと斬りつけられた兄の状態を確かめる。
(痛みで失神してはいるが致命傷ではないな。奴め、やはりこれを見越して……)
結果として敵の思惑通りになったということは、敗けたということに等しいだろう。今度あの男に会い報いを受けさせるには、最早運命の導きともいえる何かが必要になるに違いない。そんなことを考えながらも、万が一そんな機会が訪れたとしても、そこにいるのは自分ではないだろうという予感が不思議とマークスにはあった。自分は今回の戦いでは目的を果たせなかった敗北者に過ぎないのだ。
「ね、ねえ」
「俺の知り合いに奇跡を使える加護持ちがいる。傷は深いが致命傷ではない」
とはいえ、少年の傷は浅くもない。悠長にしている時間もないのは事実だ。ここからならモーラの家の方が近いだろう。そこならアンナがいるから治療も難しくはない。その算段を立てながら、マークスは傷ついた少年を抱え上げる。
「助かるの?」
「ああ」
そう頷きながら、いつしか泣き声を止めていた少年を見下ろす。いつしか空の雲が晴れ、月明かりが照らす中で、マークスはまだ涙を湛えた少年の瞳を見てハッとする。そこにまるで花が蕾から開くかのように光が宿ったのを見たのだ。それはクリスが夢を語っていた時に見せたものと同じものであり、誰もが希望と呼ぶものであった。
「だから泣くな」
それに気付いたマークスは、いつしか少年に優しくそう微笑んでいた。




