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フォーチュンクッキー

 

「佐久間ちゃん、可愛いよなあ」


 帰り道、自転車を漕ぐ太一が、ぽつりと口にした名前にどきっとした。

 今はテスト期間で部活がない。

 普段はバス通だが、帰りが一緒になる時は、太一のチャリの後ろに乗せてもらう。

「重い」とか、「たまには代われ」とか言いながらも、太一は家の近くまで乗せて帰ってくれる。


 太一とは、中学からの付き合いだった。

 知り合って5年目、互いのことはよくわかっている。

 知りたいことも、もちろん知りたくないことも。


 太一は惚れっぽい。

 いつだって「アイドルのまいみーが可愛い」「3組の小西さんが可愛い」とか言っときながら、それらは大抵長続きせず、周期的に変わっていく。


「お前佐久間ちゃんと友達じゃないの?」

「同じクラスになったことないもん」

「使えねえな」

「わかった。じゃあ友達になっても、あんたのことは勧めないことにする」

「待て待て、悪かった。考え直せ」

「ばーか」


 ふふっと笑うと、段差で自転車ががたんと揺れた。

 目の前で、太一の髪が風になびいて揺れている。

 上がっていた口角が、ゆっくりと落ちていく。

 2人乗りでよかった。

 顔を合わせていないから、笑ったふりを続けなくて済む。


 どうせまた、いつもみたいに、少しすれば興味の対象は変わる。

 すぐに他の子に、目移りするはずだから。

 いちいち傷付いてたってしょうがない。

 ――と、わかってはいても、反応してしまう自分がいる。


 太一を好きだと気付いたのは、中3の夏だった。

 それからこういう場面を、何度も経験してきた。

 太一は惚れっぽいから。

 いい加減慣れればいいのに、聞く度に心が軋む音がする。


「好きならさっさと告ればいいじゃん」

「好きとかそういうんじゃないんだよ」

「じゃあ何なの」

「目の保養っていうか? 癒しっていうか?」

「太一、いっつも誰かが可愛いとか言ってるけど、ちゃんと好きな人いたことあるの?」

「そりゃあるよ」

「いつ?」

「何でお前に言わなきゃいけないの?」

「流れで聞いてみただけだし」

「お前こそあんのかよ」

「あるよ」

「へえ、誰? いつ?」

「あんたに言うわけないでしょ」

「別に聞きたくねえし」


 横腹を軽くグーで殴ると、「いてっ」と言って自転車が少し蛇行した。

 そのまま、下校中らしき同じ制服を着た高校生2人組を追い抜いていく。

 でもさあ、と太一が言った。


「可愛いって思う子はいっぱいいても、付き合いたいなって思うほど好きになる子はそうそういないよなー。きのりんとか、萌ちゃんとか、春花とか佐久間ちゃんとか」

「そもそも、付き合えるわけないでしょ」


 芸能人も一般人も見境なく上げた太一に突っ込むと、ブレーキをかけた自転車が減速した。

 肩越しに見える信号が、赤になっている。

 地面に足を着いた太一が、ぽつりとこぼす。


「最近は、吉中もいいと思ったんだけどさあ」


 新たに上がった名前に、また胸がちくりと痛む。


「それ前言ってた、部活の後輩?」

「そ。でもやっぱ、何か違うんだよなあ…可愛いんだけど。お、青」


 変わった信号に、太一が前屈みになってペダルをひと漕ぎする。

 ほっとした。

 胸の痛んだ部分は、止まった信号に置いていく。

 ゆっくりと進みだした自転車に、すぐに太一の姿勢は戻った。

 もうすぐ行けば、川沿いに出る。


「あんたって、可愛ければとりあえず誰でもいいの?」

「誰でもいいわけじゃないけど、そりゃ、可愛いほうがいいだろ」

「じゃあ可愛くない子は最初から対象外ってこと?」


 たとえば、あたしみたいな。

 口には出さずに付け加える。


「そんなことないけど。だって、可愛くなくても、いい子はいるだろ」

「たとえば?」

「優しくて気がきくとか、話してておもしろいとか」


 うーん、と太一が少しだけ上を見上げるような仕草をする。

 後頭部が、わずかに鼻先に近付く。

 太一の匂いがする。

 でもそれは、すぐに元の位置に戻った。


「吉中もどっちかっつったら、顔よりそっちだったかも。あいつの気遣いすげーんだよな。さりげなく体調気遣ってくれてたり、練習中に飲み物渡してくれたり」

「じゃあ何で駄目だったの?」

「駄目っていうかなんか、あいつの気遣いは俺に対してだけじゃなくて、みんなに対してだからな。それに気付いたらなんか、まあいいかーって。だから今は、佐久間ちゃん」


 わずかにこちらを振り返った口元が、楽しそうに笑っていた。

 その口を、つねってやりたくなる。

 川にぶつかり、右に折れる。

 すでに前を向いた太一に呟いた。


「勝手にすれば」

「何だよ、冷たいな」

「あんたがいくら見定めたって、肝心の相手がその気にならなきゃ意味ないんだから」

「そんなのわかってるよ。ってか、お前こそ頑張れよ」

「はあ?」

「せっかくの高校生活なのに、ずっと彼氏いないなんて可哀想だろ」

「あんたに言われたくないし」

「俺はいたもん」

「たった1カ月で別れたのに、偉そうなこと言うな」


 憮然と言い返しながらも、胸には再びもやもやが溜まっていく。

 太一は1年の時、彼女がいた。

 高校に入学してすぐ、相手から告白されて付き合って、そしてすぐに別れた。ふられたのも太一だった。

 たった1カ月でも、嫌だった。

 別れてほっとしている自分に気が付いて、それがまた嫌だった。


 でもそれからも、自分が太一の視界に入ることはなくて。

 好きな食べ物も、嫌いな食べ物も、苦手なことも、エロ本の隠し場所も知ってる。

 女子の中で一番、太一のことをわかってる自信がある。

 でも、彼女にはなれない。

 太一が興味を持つのは、いつも自分以外の誰かだ。

 こんなに長く一緒にいるのに、笑えてくる。


「あたしも……」

「え?」



 ――あたしも、見て。



 言いたい。

 けど言えない。

 ずっと内に秘めてた想いが。

 溢れそうで。


「なんか言った?」

「何も」

「ふうん?」


 言えるわけがない。

「あたしも見て」なんて。

 言ったところで、答えなんてわかってるから。

 でも。

 そろそろ限界――かも。


『――あたしも、見て』


 声には出さず口だけ動かして、引き結んだ。

 目の前で自転車を漕ぐ太一は、何にも気付かない。

 当たり前だけど。

 荷台を掴んでいた腕に、ぐっと力をこめた。


「うおっ……! ってマコ?!」


 自転車を飛び降りると、よろめきながら踵を返した。

 背後で急ブレーキの音がした。

 降りながらすでに自転車は傾いていたから、こけそうになったかもしれない。

 でも、見届けることなく、それまで来た道を、走った。

 謝るより何より、離れたかった。

 川原を駆け下りる。


「おい!」


 太一が追いかけてきた。

 走りながら肩越しに振り返ると、自転車は停めたのか太一は自分の足で走っていた。

 前に向き直ると、後ろの太一に叫んだ。


「追いかけてくんな!」

「はあ?」

「さっさと帰れ!馬鹿!」

「お前だって、荷物は!」

「知らない!」


 そんなことどうでもいい。

 今はとにかく、離れたいのだ。

 1人になりたかった。

 なのに。


「っはぁ……何だよこの鬼ごっこ」


 後ろから腕を掴まれて、強引に止められた。

 太一の足の速さが恨めしい。


「……追ってくれなんて、頼んでないし」

「お前何、怒ってんの?」


 肩で息をしながら、数歩先の地面を見つめる。

 何でもないで通せばいいけど、そうしたところでまた、落ち込むだけだ。

 無理して笑って、聞きたくもない話を聞いて、そうするうちに、一緒にいることが苦しくなる。


 好きなのに。

 ずっと好きだったのに。

 もう嫌だ。

 どうせ太一は、こっちを見ないんだから。

 我慢したって、いいことなんかない。


 掴まれていた腕を振り解いた。

 振り返らないまま、想いが口からこぼれていく。


「そりゃあたしはっ……ただの友達で、可愛くないし、優しくもないし、乱暴でガサツで、全然…全っ然、興味ないのはわかるけどさ!」

「マコ…?」

「わかるけど、むかつく!」

「は?」

「むかついてんの!」

「だから何で?」


 本当に、何に対して怒っているのかわからない声だったから。

 さらにむかついて。

 両手の拳を強く握った。


「……少しはあたしのことも見ろよ!馬鹿!」

「は……?」

「馬鹿! だから馬鹿! もうやだ!」

「いやだから、何なのお前」


 本当にこいつは、あたしのことをなんとも思ってないんだ。

 本当に、ただのこれっぽっちも。

 そう思うと、睨んでいた地面が歪んだ。


「えっ……」


 後ろから回りこんで、あたしの顔を見た太一の声が上ずった。

 あたしが、泣いていたから。


「え、ちょっ……待てお前何で。怒ってたんじゃ」

「怒ってるよ!」


 鼻をすすって、頬をこすった。

 怒っているのだ。

 こんなにそばにいるのに。

 こっちを全然、見てくれないから。


「あたしだって、女子なんだよ」

「んなことわかってるけど」

「わかってないよ」

「わかってるって」

「じゃあ何で、見てくれないの」

「は?」

「見てよ」

「何を」

「見て」

「だから何を」


 あぁ、何でこんなやつ、好きになったんだろう。

 最初から最後まで言わないと、わからない男。

 あたしのことなんか、これっぽっちも見てない男。

 でも――好きだから。

 すっと息を吸うと、横に立っていた太一を、睨むように見上げた。



「あたしのことも、ちゃんと見て」



 他の子を見るなとは言わない。

 でも、あたしも見て欲しい。

 あたしも、同じ場所に立たせて欲しい。


「そしたら……ちゃんとあたしのことも見た上で、それでもやっぱり駄目だって言うなら、もうこんなこと、言わないから……」


 言いながら、最後の方は尻すぼみになった。

 言葉にしなかったところで、想いが消えるのかはわからない。

 また、鼻の奥がつんとしてくる。

 こちらを見ていた太一の目は、はじめ少し揺れたかと思うと、しばらくして、戸惑いがちに口を開いた。


「お前さ…もしかしなくても、俺のこと、好きなの…?」


 耳の後ろが、かっと熱くなった。

 思わず目をそらす。

 そうだけど。

 わかりきってることだけど。

 当の本人から突きつけられるのは、思いのほかいたたまれなかった。


「……えーっと……そうなんだ……」

「まだ何も言ってない」

「じゃあ違うの?」

「……」


 違わない、けど。

 視線はどんどん下がっていく。


「……だって」

「だって?」

「好きって……言ったところで、希望ないじゃん」

「何で?」

「あたし、可愛くないし」

「……」

「否定しろよ」

「いや、まあ、今は黙って聞くところかなと」


 ちらりと見上げると、フォローになっていないフォローを口にする。

 小さくため息をついた。


「ここまで言っても、あんた、平然としてるし」

「いや、結構驚いてるし、動揺してるけど」

「でも別に、嬉しくはないんでしょ」

「いや…うーん、でもまあ、だって……お前のこと、そういう風に見たことなかったし」


 はっきり言うなこの野郎。

 予想はしていたけど、やはり落ち込む。


「……じゃあ、もういい」

「え」

「見ようとも思わないってことでしょ」

「誰もそんなこと言ってないけど」

「は?」


 聞き間違いかと思った。

 思わず下がっていた視線が太一の顔に戻る。


「確かにそういう風に見たことはなかったけど、今から見ることはできるし」

「……」


 こいつは、自分が何を言ってるのか、わかっているのだろうか。


「あんたそんなに、見境なかったの?」

「は?」

「何でそんな簡単に、意識変えられるわけ?」

「お前がそうしろって言ったんだろ」

「言われてできることなの?」

「できるんじゃないの? やってみれば」


 簡単に言ってのける。


「そういう目でお前のこと見たことなかったけど。別に今だって、嫌いなわけじゃないし。むしろ人間的には好きだからつるんでるわけだし」

「す…」

「じゃなきゃこんなに長く友達やってないだろ」


 さらりと言うと、太一は腕を組んだ。

 言葉に詰まっているあたしを前に、片足に体重を乗せて、頭から爪先まで視線を動かすと、また顔に戻した。


「お前、足はいいよな」

「は?」

「これ言ったら殴られるかもと思ったから、言ったことなかったけど」

「足?」

「そう。お前中学ん時陸上部だったじゃん。そのせいか知らないけど、いい足してるよな。それは前から思ってた」


 言われて、自分の足を見下ろした。

 制服のスカートから伸びる、2本の足。

 いい足だなんてそんなこと、これまで言われたことがなかったけど。

 顔を上げると、太一はまだ足を見ていた。

 それが急に、恥ずかしくなって。

 無理だとわかりつつも、手で隠そうとした。


「ちょっと! 見るな!」

「隠せてないけど」

「見るなって!」

「見ろって言ったり見るなって言ったり、難しいこと言うなよ」

「……っ!」


 見ろと言ったのは、そういう意味じゃない。

 それは太一もわかっていて、からかっているのだろうけれど。

「もういい」と、言ってしまいたいのをぐっと堪えた。


「……足以外は」

「そうだなぁ……」


 太一はこちらを見たまま、少し首を傾げた。


「まあ、何でも気兼ねなく喋れるのは楽だよな」


 組んでいた腕を解くと、腰に手を当てて頷いた。


「うん、それはお前のいいところなんじゃないの」

「何でも喋れること?」

「そう。確かに俺が女子で一番喋るの、お前だもんな」


 太一はふらりと体を川のほうへ向けると、しゃがんだ。

 一緒にはしゃがまなかった。

 太一は足元の草をちぎると、手首の先で放った。

 その背中を見下ろして、次の言葉を待っていると、太一は予想もしていなかったことを口にした。


「……お前案外、俺のこと落とせちゃうかもよ?」

「は?」


 しゃがんだまま、首だけ振り返る。

 その顔が、悪戯をたくらむ子供みたいで、一瞬からかわれたのかとも思ったが、太一は続ける。


「さっきは正直ちょっと、ドキッとしたし」

「さっき?」

「あたしも見てって言った時」

「……」


 恥ずかしい台詞を繰り返されて、口をつぐむ。

 前を向いた太一が、また草をちぎって、挟んだ指先でくるくると転がす。


「付き合い長すぎて考えたことなかったけど…なくはないかもな」


 指を止めると、こっちを見上げた。


「頑張ってみる? お互いに」


 軽い口調は、どこまで本気なのかがわからない。

 それでも太一は、人を傷つけるような冗談は言わないから。


「頑張ってくれるの?」

「だって付き合うなら、お前だけが好きでも、俺だけが好きでも駄目だろ」


 まあ、と太一は続ける。


「そうじゃなくても付き合うことはできるけど。そしたら、1カ月で別れるかもな」


 まさに経験者は語る、だ。

 太一は腰を上げた。

 持っていた草の切れ端を放って手をはたく。


「どうする?」


 どうするも何もない。

 見てくれるというなら。


「……頑張る」


 具体的に何を頑張ればいいのかは、正直わからない。

 でも、そう答えることで、太一に気持ちが、少しでも伝わるなら。


「わかった」


 太一ははっきりと言った。



「じゃあ俺も、ちゃんとお前を見る」






 走って逃げた川原を、2人で自転車があるところまで戻った。

 鞄がひとつ、道路に放り出されたままだった。

 拾った鞄をカゴにのせ、太一が先に跨り、その後ろに座る。

 少し迷ってから、腰のあたりのシャツを掴むと、太一は何も言わずにゆっくりと自転車を発進させた。

 太一の揺れる短髪を見つめ、しばらく沈黙が続く。


 話題を。

 何か話さなきゃと思うのに、すんなりと口から出てこない。

 いつも何を話していたっけ。

 テストのヤマの話は、もうしたっけ。

 頭の中でぐるぐる考えていると、ふとあることに思い至った。


「太一」

「んー?」

「佐久間さんは」

「佐久間ちゃんが何?」

「佐久間さん、どうするの」

「どうするって?」


 太一がちらりと振り返る素振りを見せた。


「可愛いって、言ってたじゃん」

「言ったけど。でも別に、俺佐久間ちゃんと付き合ってるわけじゃないし。付き合いたいと思ってたわけでもないし。まあ仲良くなれば、わかんないけど」

「……」


 つい今しがた告白してきた相手に、それを言うか。

 後ろで黙っていると、太一の声が笑った。


「何だお前、やきもち焼きかよ」

「別にやきもちとかじゃ」

「こりゃ、付き合ったら大変そうだな」

「……」

「冗談だよ」


 ははっと、太一が笑う声が、風に乗って背中に流れていく。


「やっぱちょっと、むずがゆいのな」

「……」


 俺さー、と前を見たまま続ける。


「ちゃんと見るって言ったけど、たぶんこれからも、馬鹿って言うだろうし、重いから代わりに漕げって言うだろうし、急にお前の扱い変わんないと思うんだよね」

「うん…それでいいよ」


 急によそよそしくなられたら、気まずい。

 望んでいるのは、そういうことではない。


「だからお前も、頑張るったって、別に特別に何かする必要ないから」

「え……」

「だってそれだと、お前じゃないじゃん」

「……」

「第一今から何か変えようと頑張ったところで、これまでのお前知ってるし。いきなり何か変わったら、逆に戸惑うっつーか…」


 それはそうだ。

 つまり太一も、自分と同じ。

 今のままでいい。

 でもそれなら、自分は何をどう、頑張ればいいのだろう。


「たとえばさ……今みたいに」


 太一は言う。


「お前にシャツ持たれても、全然嫌じゃないんだなとか」


 太一のシャツを掴んでいる、自分の手を見下ろす。

 いつもは、持っていない。

 何だか気恥ずかしくて。

 自分が座る荷台に掴まっているか、段差がある時に、背中のあたりを片手で握るくらいだ。


「これまで知らなかったけど、やきもち焼くような、可愛い面もあるんだなとか」


 やきもちではないと言ったのに。

 でも、それを可愛いと思ってくれるなら、そのままにしておいてもいいかもしれない。


「そういうの、一個一個、確かめていくから」

「……」

「だからまあ、変に意識すんなっつーか…お前はお前どおり…って言ってる俺が何かもうおかしいけど」


 太一は自分で言ったことを、自分で笑う。

 もしかしたら、意識するなと言う太一も、意識しているのかもしれない。

 そうならば、それは、大きな変化で。

 自分の想いが、ちゃんと届いて、伝わっているということで。

 そう思うと、強張っていた気持ちが、少しほぐれた。


「……太一」

「……何」

「ありがとう」

「おー」


 前を向いている太一の表情はわからない。

 照れているのか、それを隠して頬が硬くなっているのか。

 さっさと平静を取り戻して、いつもどおりの顔に戻っているのか。


 自転車はゆっくり進んでいく。

 この先、どうなるかはまだわからないけど。

 少しでも、可能性があるのなら。

 太一がいつか、後輩でも佐久間さんでもなく、あたしの名前を、言ってくれるように。


「そういえばさ、田島が張った古文のヤマ、もう聞いた?」

「えっまじ? どこ?」


 変えた話題に、太一はすぐに食いついて来た。


「4章が出るだろうって。中でも過去と完了の助動詞は絶対」

「一番苦手なやつじゃねえか」

「ノート貸してあげようか」

「何だよ、何か条件あんだろ」

「数学教えて」

「うわー」

「いいじゃん得意でしょ?」

「お前の理解力やべーじゃん」

「失礼な。数学だけだし」

「よく言うよ」


 喋りながら、いつもの調子を取り戻していく。

 その力を、借りて。


「太一」

「何?」

「好きだよ」


 後ろから見える顎が開きかけて、また戻った。

 すぐに答えは、返ってこなかった。


「……さっき、そんな頑張んなくていいって、言わなかったっけ、俺」

「言ったけど」


 何もかも、これまでどおりにはいかないだろう。

 それに、言いたかったのだ、自分が。

 少しは、頑張らなきゃだめだ。

 可愛くないなら可愛くないなりに。

 他の子にはない気安さであったり、太一が褒める足であったり、きちんと、想いを伝えることであったり。

 だって言ったら太一は、ちゃんと応えてくれたから。


「ドキッとさせる作戦? みたいな?」

「お前……開き直ったな」


 最後には少し、照れ隠しが入るけど。

 そうしてどんどん、あたしのことも、見てくれたら。

 いつかはあたしだけを、見てくれたら。

 まだ抱くには少し早い、小さな望み。

 でもとりあえずは。


「明日ノート貸すから、数学、付き合ってね」

「おー」


 自転車はゆっくり、進んでいく。

 ゆっくりでいい。

 太一はちゃんと、あたしを見てくれる。

 そう思うと、頬がにやけて。

 白いシャツの背中に、もっと近付きたくなるのを我慢した。





AKB48の「フォーチュンクッキー」聴いてた時に思い浮かんだ話。

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