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第三十二章

 早朝からホームセンターでバールを買い求めた高藤隆治は、冷たい金属の感触に一瞬手を強く握り直した。娘の由美が閉じこもる部屋の前に立つと、背後で妻の恵美がかすかに息を飲む音がした。


 「よし、やるぞ」


 隆治は自分に言い聞かせるように呟き、バールをドアの隙間に差し込む。渾身の力を込めて体重をかけると、板が軋む音とともに釘が外れる音が響き、心臓が喉元まで高鳴った。その瞬間——


 「やめろおおおお!」


 部屋の中から突如響いた怒鳴り声に、隆治は思わずバールを取り落とした。隣で見守っていた恵美も驚きの表情を浮かべる。


 「今の、由美か?」


 可憐で美しい20代の娘とは思えない咆哮に、隆治はたじろいだ。


 「おい、開けたらまずいんじゃないか?」


 「何バカなこと言ってるのよ! あともう少しじゃない!!」


 娘の4日間の沈黙に耐えかねた恵美は、必死に自分を奮い立たせるような声を上げた。そして床に落ちたバールを拾い上げると、再びドアの隙間と格闘し始めた。



 そのときだった。扉にわずかに空いた隙間から、突然のこぎりの刃が飛び出してきた。


 「危ない!」


 とっさに隆治が恵美の体を引き寄せる。刃が引っかかった部分からじわりと血がにじみ出ていた。


 「おい、大丈夫だったか?」


 恵美は呆然と自分の腕を見つめている。痛みがようやく伝わったのか、かすかに眉をひそめた。



 隆治は娘の部屋を覗き込もうとしたが、中は真っ暗で何も見えない。次の瞬間、ガタガタっと音がして、隙間が板で塞がれた。トンカチで釘を打つガンッガンッという音が耳に響く。


 「一体、何がどうなっているんだ……」


 呆然と呟く隆治をよそに、恵美が小さく呻いた。


 「ああ、血がっ」


 隆治は慌てて1階に降り、ティッシュで血を抑えながら恵美をソファに座らせた。タンスをごそごそ漁って救急箱を引っ張り出す。


 「まずは消毒だな」


 『マキロン』と青字で書かれた白い容器を手に取ると、傷口にシュッとスプレーした。


 「いたたっ!」


 「染みるよな。でも、のこぎりなんて触れたんだ、ちゃんと消毒しないとな」


 恵美の愚痴を聞き流しながら、ガーゼに『オロナインH軟膏』を塗って傷口に当てた。



 治療が終わると、隆治は恵美を休ませようとコーヒーを淹れ始めた。不慣れな手つきで道具を取り出し、湯を注ぐ。


 「私たち、これからどうしたらいいの?」


 恵美の声がかすかに震えている。

 「まずは落ち着こう」と言いながら、隆治は湯を慎重に注ぎ続けた。その仕草は丁寧で、湯気が立ち上る様子に全神経を集中しているように見えた。


 「私、真剣に聞いてるのよ」


 恵美の声には焦燥感が混じる。しかし隆治は顔を上げず、湯を一滴もこぼさないようにフィルターの上に注ぎ続けた。


 「……話は後で。まずはコーヒーだ」


 そう答える隆治の声には、どこか自分を正当化する響きがあった。



 ようやく完成したコーヒーを恵美に手渡すと、彼女は無言で受け取り、カップを口に運んだ。小さくため息をつくその姿に、どこか物言いたげな空気を感じながら、隆治も自分のカップを手に取った。

 しかし、いつもはふくよかな香りが楽しめるはずのコーヒーも、今日ばかりはどこか味気なく感じる。


 「こんな時にコーヒーなんて……」


 恵美の小さな呟きが、湯気とともに消えていくようだった。



 「いざとなったら、警察に相談したいと思うんだ」


 隆治が真剣な声で言うと、恵美の顔がさっと青ざめた。両手を口にやりながら、ふるふると首を振る。


 「そんな! ご近所様になんて言われるか!!」


 「だからその話を由美にするんだよ。ほら、閉じこもった日にお前が警察を呼ぼうとしたら、由美が返事をしたんだろ?」


 恵美がはっとした顔で、こくりとうなずいた。


 「そうだったわ。由美もそんな大事件にしたいとは思ってないはずだもの。うまくいくかもしれないわね!」



 そのとき、2階からギシギシという床の軋む音が聞こえた。隆治が不審そうに天井を見上げる。


 「由美は何をしているんだ?」


 「たぶんバレエの練習だと思うわ」


 「バレエだって?」


 「ええ。大学受験の年まで、バレエを習い続けてたじゃない。毎日自分の部屋で練習していたのよ。気がつかなかった?」


 「いつも帰りが遅いからな。そうだな、小学生の頃は、2階でドタンバタンと音がしていたと思うんだが」


 恵美が口の端をゆがめてふっと笑った。


 「あの頃はまだまだ下手だったから、音もうるさかったわね」



 床が軋む音は、軽く単調なリズムで続いている。隆治はため息をつきながら天井を見た。


 「バレエって言ったって、部屋の中は真っ暗だったぞ。どうやって踊ってるんだ」


 「目をつぶってでも踊れるのよ」


 恵美はカップを持ち上げながら話を続けた。


 「由美は真面目な子でしょ。レッスンでやったことは体に染み込むくらい反復しているのよ。以前見せてもらったことがあるんだけど、あの子、じゅうたんの同じ場所でくるくる回りながら、器用に踊っていたわ。『目隠しされても踊れるよ』って言ってたくらいだもの、部屋が暗くても平気なんじゃない?」


 「そりゃすごいな」



 隆治はもう一度、2階を見上げた。この音が続いている限り、娘は元気そうだ。それが確認できたことで、気持ちが安堵する。


 「まあ、今日はこのままにしておこう。由美が踊ってる間は、大丈夫だろう。僕もそろそろ出社の時間だし」


 そう呟きながらも、足が重くて動けなかった。壁にかかった時計を見やって時刻を確認するふりをしながら、隆治の頭にはかつて編集部が活気に満ちていた頃の光景が蘇っていた。

 スタッフたちの笑顔、活気ある雑談、そして書類の山に追われる忙しさ。すべてが懐かしい思い出だ。

 だが、バブル崩壊のあおりでその日常は崩れ去り、今では借金取りに追われる日々が続く。編集部は隆治ひとりだけになり、抱えきれない現実が胸を締め付ける。


 「今日明日で残った仕事を片づける。二十七日に由美を説得しよう」


 隆治は意を決して言葉にした。


 「日曜日ね」


 恵美は静かに頷いた。その目には、期待と不安が入り混じっているように見えた。


 「週休二日制なんて、私たちには関係ないものね。零細企業じゃ日曜が唯一の休みだって、由美もわかってくれればいいんだけど……」


 恵美の言葉に、隆治はコーヒーを飲む手を止める。しばし沈黙が続いたが、やがて彼は通勤カバンを手に取って言葉を続けた。


 「話さえできれば、何が原因で閉じこもっているのかがはっきりするはずだ。じゃあ、いってくる」



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