3-25 ベッドシーンの経験はまだないの
「ねえ、ユート。キミも頭の中を――ボク一色にして?」
そんなふうに劇的に微笑むリリアを前にして。
俺の心臓は。
「あは――すっごくドキドキしてる♡」
そう。高く。激しく。鳴っているのだった。
無意識的に。強制的に。必然的に。
その鼓動を、いち思春期男子の俺は抑えることができない。
「よかった、うれしいな。ちゃんとドキドキしてくれて」
リリアは手のひら越しに耳を俺の胸にあてている。
――ちゃんとドキドキしてくれて?
なにを言っているんだ、リリアは。
俺は。俺は――。
「ドキドキなんて……最初からしていたさ」
「え?」
ああ、そうだ。リリアはなにか勘違いをしている。
リリアに対してドキドキなんて、最初からしていた。
それこそ、転校初日に俺と現実的に出会って、そして『ボクと付き合わない?』なんてやっぱりどこまでも異常な提案をしてきたその瞬間から。
俺の心臓の鼓動は止まらなかった。だが。
――その心臓の音に、一体何の意味があるのか?
ほかの時に高鳴る心音とは、劇的に異なるものなのか?
わからない。俺はもう――
「ねえ、ユート……どうして」
「うん……?」
気づくと。
リリアは俺の上で、動きをぴたりと停止させていた。彼女はつづける。
「どうして恋人といるのに――そんなに寂しそうな顔するの?」
「……っ」
俺は正直に。
答えた。
「すまん、俺、本当は……お前のこと、好きなんかじゃないんだ。今まで黙ってて、わるかった」
リリアは二三度まばたきをしたあと、言った。
「それで?」
「……え?」
「知ってたよ? キミがボクのファンなんかじゃないってこと、最初から。……言ったでしょ? ボクはこれでも女優なんだから、そういうの分かるって」
「な……!」
俺は呆然と目を見開く。
「でもね? 今はそんなことはどうでもいいの。今この瞬間、キミに聞きたいのは、そういうことじゃなくて――あ」
あ、と。
リリアが俺の上で体勢を崩した。落ちてきた身体を、俺は片腕で受け止めてやる。
ふたりの距離がゼロになる。
「…………」
「…………」
ゼロ距離で触れ合って。
互いの不規則的な息遣いが耳をくすぐる。
体温を感じる。熱を感じる。
心臓の――鼓動を感じる。
「…………」
「…………」
いつのまにか音楽は途切れていた。
無音になった部屋の中に。
ふたりの心音だけが響いている。
「――あのね?」
最初に口火を切ったのはリリアだった。
「ボク、まだ――ベッドシーンがある作品は経験したことないの」
リリアは俺の上で、ゆっくりと身体をよじる。
触れ合った柔肌が。髪の毛が。体温が。吐息が。苺のように甘い香りが。俺の五感をどうしようもなく刺激する。
「身体が交わったらね」とリリアはつづける。「心も好きになるらしいよ?」
「っ……!」
「今度こそ、本当にボクのファンになっちゃうかも。――ためして、みない?」
ごくりと喉が下がる。心臓が激しく高鳴る。全身が熱をもつ。本能がうずまく。
だめだと思っているのに、どうしようもなく身体が反応してしまう。
こんなものは異常だ。分かってる。それでも。
「ねえ、しちゃおうよ。恋人らしいこと」
リリアはどこまでも劇的な表情で。幻想的な言葉で。俺のことをいざなってくる。
「だいじょうぶ。今日この瞬間だけ。一夜限りの幻。明日になったらぜんぶなくなる、真夏の夜の夢――」
俺は。俺は。リリアのことを。
――どう思ってるのだろう?
そんなことをあらためて思う。
リリアのことは好きか嫌いかでいえば――好き、になると思う。たしかに現在進行系でめちゃくちゃなほどに振り回されてばかりだが……それでリリアのことを嫌うほどかといえばそうではない。俺は彼女が彼女なりに――『御伽乃リリア』という偶像を維持するために――裏側で懸命に努力していることを知っている。今の異常恋愛も、彼女にとってはあくまでその一環だ。
――好きに違いはあるのか? どれだけ好きだったら付き合ったらいいんだ? べつに『付き合いたくない』ってんじゃなければ、付き合ってみればいーんだよ。
いつかスナガミが言っていたことを思い出す。
『好きってなんだ?』という俺の質問に、スナガミはそう答えてきた。
その時はいかにもスナガミらしい、いささか軽薄な答えだとも思ったが……。今の俺の心には、その言葉が重くのしかかってくる。
『好きに違いはあるのか?』――わからない。
『どれだけ好きだったら付き合ってみればいいんだ?』――それも、分からない。
霞音に対する好きと。
リリアに対する好きは。
――一体どう違うんだ?
「ねえ、ユート」
リリアは俺の瞳を覗き込むようにして、ゆっくりと顔をちかづけてくる。
「しちゃおうよ♡」と彼女は繰り返す。
あと0.3秒。
それだけあれば、俺はリリアの身体に手をまわして。彼女のことを受け入れて。
真夏の夜に、全人類が憧れる夢をみることができる。それなのに。
――俺の0.3秒を押し留めているものは、なんだ?
俺はなぜ、この異常な極限状態において。思春期男子の理想郷において。
――御伽乃リリアという世界最高の偶像に手を伸ばさないのか?
ろうそくの灯りが揺れて、じじじと音がなった。
その赤橙色のゆらめきを見ているうちに、意識が曖昧になってくる。
今俺が見ているのは現実なのか。夢なのか。
視界が霞んでくる。
暗闇の中で炎の赤い影が揺らめいて、まるで泡のように形を変えていく。景色が変わっていく。
まるで、俺の中にある古い記憶を再現しているみたいだ。
その夢か現実かも分からない景色に――俺はどうしたって見覚えがある。
「……あ」
ほかでもない。俺が時折みる夢だ。
夢でよくみる、幼少期の記憶。
いつかの夏。虫時雨が響く夜。
ひとりの小さな女の子と線香花火をしている記憶。その情景。が。
俺の目の前に広がった。
目をこする。夢じゃない。現実として。
おれは今、その記憶の真っ只中にいる。
『あのね、ほんとはね――〝火〟をつけたくなかったの』
その少女はおもむろに語りはじめる。
『だって、火がついたら、はじまって。はじまったら、いつかはおわっちゃうでしょう?』
『それって、すっごくさみしいから。さみしくて、かなしいから。』
『だから――そんなきもちになるくらいなら、火なんてつかなくていいって。』
『はじまらなくていいって――思ってたの』
ああ、そのとおりだ。
こんなにもつらい気持ちになるんなら。(もちろんそれは、つらい気持ちにさせるのも含めて)
最初からなにも始まらないほうが良かったのかもしれない。
すべては俺が、ふたりとの疑似恋愛を受けたことからはじまったんだ。
ふたりと身分不相応な夢なんて見ずに。
等身大に見合った現実をただ生きていれば。
だれもが平穏に生きることができたかもしれない。
恋がどうとか、愛はどうとか。
夢みたいなことで悩む必要も、なかったのかもしれない。
『でもね』
しかし。
その少女はつづける。
『今は。きみとこうしてこの光をみられてよかったって思うよ』
その言葉に、ふと。
俺の視界にまさしく光が射したような気がした。
ああ、そうだ。そうだった。
きみだけじゃない。俺だってその瞬間。そう思ったから。
――きみと光をみられてよかったって思うよ。
その瞬間から今の一瞬まで。
俺だって、そう思いつづけてきたから。
俺の心は。
最初からそのひとつ――ひとりに決まっていた。
「――すまん、リリアっ!」
俺は反射的に叫んだ。
記憶世界の2人の少年少女の影が揺らいで、渦のようにロウソクの火の中に消えていく。現実が戻ってきた。
俺は目の前のリリアに向かって。
「俺は、やっぱり、――っ」
言いかけたところで――
ぴりりりりりりり。
スマホの着信音が鳴った。




