二 どうしてこうなった ⑦
「お待たせしました。袈裟町三丁目でございます」
僕はバスが停車するなり三五〇円と整理券を運賃箱に放りこみ、音声案内を背に目の前の〈鳥嶋外科〉へと小走りに急いだ。運よく市役所前のバス停から直行便を見つけ、定時よりちょっとだけ早く庁舎を出て乗ったはいいが、夕方の渋滞に巻きこまれ到着が遅れたのである。約束の午後六時を過ぎていることもあり、病棟の自動ドアを潜りざますぐに靴を脱いでスリッパに履きかえようとした。
ところが、扉を開けてみた靴箱がことごとく埋まっている。僕はこういうところで間が悪い。しかもどこか空いていないか探すうちに、後から車イスに乗ったおばあさんが入ってきた。僕はようやく未使用の靴箱を見つけてスリッパに履きかえるも、そのおばあさんがふと困っているのが目に入ってしまう。どうやらスロープを上ろうとしているものの何かが足元に引っかかっているらしく、出来れば近寄りたくないほど元から気むずかしそうな顔をますます険しくさせてもがいている。こちらとしては早く室長のお見舞いに行きたいと思う反面、無視もできない。そのうえちょうど病棟の奥から男女ふたりずつの四人組が出てくるも、一向におばあさんを省みる様子がないのだ。
「ねえねえ、今度どこ行こうか」
「湘南なんかどう?」
「いいなあ。羨ましい」
「だったら四人で行けばいいじゃん」
病棟だというのに声を潜める気配すら見せず、楽しそうに話をしている。この調子では見舞った病人も命に別状なかろうと考えると腹立たしい限りだが、かといって僕が何もせずにこの四人組を注意するのも筋が違う。だいたいそんな勇気はない。僕は仕方なくそのまま病棟を出ていく四人を視界から逸らし、おばあさんの背後に回りこんだ。
「大丈夫ですか?」
そう声をかけて車イスを押すも、やはり車輪は動かない。試しにしゃがんで足元を覗いてみれば、おそらく入口付近にある傘立ての一部が外れたものと思しきパイプ状の鉄材が転がっている。それを取りのいてもう一度、車イスを押すとようやく前に進んだ。そしてそのままスロープを伝って廊下の床面まで上りきったところで、おばあさんが口を開く。
「ありがとう」
座ったまま、半ば見上げるように向けられたのは先ほどまでの険しさが嘘のような優しい笑顔である。その眩しさたるや、瞬時に別人に入れ替わったかと思われるほどだ。
「いいえ。どういたしまして」
僕が会釈し、いちど下げた頭を元のように上げるのを目にしてから、おばあさんは自力で車イスを走らせ前へと進む。程なくしてエレベーターへ乗りこむ際にポケットからタバコの箱とライターを堂々と取りだしたのは多少気になったものの、僕はその様子を遠くからほほえましく見守った。ちょっとした頼みごとは嫌と言えない性質ゆえか、昔からお年寄りだけにはあまり邪険にされない身であってもお礼を言われるとやはり嬉しい。それがたとえ節煙のできない不良患者だとしてもだ。そんな風にわずかの間、廊下に立っていると今度は二階から真壁が降りてくる。
「広瀬くん、遅いじゃないか。こっちは上で待ってたんだぞ」
このタイミングで出てきたということは、たぶん二階の窓からバスが到着するのを眺めていて、僕が上がってくるのが遅いのにやきもきしていたに違いない。
「悪い」
理由はともあれ余計に遅れた事実に変わりはなく、一応は謝ろうとするも今度は肝月課長が後から慌ただしげに病棟に飛びこんできた。
「すみません、出先を抜けるのが遅れました。でも広瀬さんも来たところなんですね。ちょうどよかった。さあ、行きましょう」
肝月課長が一緒にいては僕が遅れたのを強くは責められないと見え、真壁は口を噤む。そのまま三人そろって病室へと向かった。部屋の扉を潜ると六床のベッドが置かれ、それぞれがカーテンで仕切られているのが目に入る。室長はうち窓際の一角に横たわっており、はじめは果たして起きているのか不確かなため、音を立てないよう近づくとわずかに首を起こして僕たちに向かって口を開いた。
「課長に真壁、広瀬」
ただ、頭は若干ぼんやりしているようで反応は弱々しい。包帯の巻かれた両腕、布団の歪な膨らみようから両脚も重傷であるのが分かった。肝月課長が真っ先に傍へ歩みより、周りの患者の迷惑にならないよう声を潜める。
「横澤室長、大変でしたね」
「こちらこそ、ご迷惑をかけます」
「いえいえ。横澤室長の顔を見られてほっとしています。お電話でお話を聞いたときは、もっとひどい怪我だと思ってましたから」
「いったいどんな事故だったんですか?」
「これの、地方欄を」
室長は肝月課長の両脇から顔を出した僕と真壁に目くばせをし、おぼつかない動きで自由の利く肘から先を動かして枕元の夕刊を指さす。僕が指示に従って広げてみせたその箇所には、次のような報道がなされていた。
「一月二十四日の午後八時三〇分ごろ、板額町で前方不注意の車が歩道に突っ込み、男性ひとりが脚などの骨を折る重傷を負った」
記事によれば、事故に巻き込まれた室長には何の落ち度もない。最悪のタイミングとはいえ、責められる要素は皆無だ。
「災難でしたね。どれくらいで治りそうですか?」
「本来、脚だけなら全治は二か月。退院は最短で二週間、長くても三週間。病院の先生から許可が下り次第、松葉杖でも何でも突いて出勤しますが、おそらく実際の退院までに一か月はかかるかと……」
にも関わらず肝月課長の問いかけに、なぜか最後の方は口を濁す。体力が回復しきっていないにせよ、話をするうち眠りから覚めかけていたように見えたのに妙だと思った矢先、隣のベッドからやたら陽気な声が聞こえてきた。
「そりゃそうだよな。両脚のほかに真ん中の脚も折っちまったんだからな」
後ろを振りむけば、禿頭のご老体がカーテンを開け、病室には持ち込み禁止のはずのワンカップ酒を片手にこちらに顔を向けている。
「真ん中の脚?」
肝月課長は一瞬、何を指しているか掴めない様子だったが、僕は多少の疑問を抱きつつも大方は把握できた。なるほど新聞に「脚などを骨折」とあるのはこのためか。真壁はといえば、左の掌を右手の拳で軽く叩いている。
「分かりましたから、話しますから、黙ってください」
カーテンを閉め、ベッドへ戻っていった酔っぱらいの声は大きかった。すでに他の患者にも知られているのだろう、どこからともなく視線が注がれ、笑い声まで漏れてくる。
「実は、骨折しているのは脚だけではないんです。海綿体も、その、骨折してまして」
「海綿体、と言いますと……」
「まあ、急所です」
婉曲な表現で真ん中の脚といえば、男性のみが股間に備えるあの器官しかない。とはいえ、そこには骨などないはずだ。
「横澤室長、すみませんが急所を骨折することがあるんですか?」
「はい。お医者さんの説明によると、急所といいますか、あの部分の中には幾つかに分かれた海綿体があって、それぞれが撚りあわさるように互いを引っぱりながらバランスを取っていつもの形を保っているんだそうです。ところが外部から強い衝撃を受けると、その海綿体が破れてしまう場合があるんだとか。これが一本だけでも破れたらいけません。バランスが崩れて、急所があらぬ方向に曲がってしまうんです。これを海綿体骨折と呼ぶようです。車に跳ねられて壁に叩きつけられたのがよくありませんでした。もっともそちらの手術は無事に済みましたのでもう大丈夫ですが、その代わりに脚の手術や回復が遅れるようでして……」
「本当に打ちどころが悪かったんですねえ」
そうだったのか。自分の身体についているものが、そのような造りになっているとは知らなかった。思わぬところで人体の神秘に思いを馳せていると、またしても背後の酔っぱらいが茶々を入れる。
「課長さん、騙されちゃいけねえ。そんな小さなとこ、そうそう運悪く打ちつけるもんか」
小さいとか、かなり失礼な言葉が何気なく飛んだ。苦虫を噛みつぶしたように顔を渋らせる室長には悪いことに、課長はそのご老体の茶々に興味をもってしまっている。
「運が悪かった以外のことがあったんですか?」
室長はいちど酔っぱらいの方を睨んでから、申し訳なさそうに頭を下げた。これ以上、隠し立てをしてもどうせばらされるか、何かの形で秘密が漏れると諦めたらしい。
「私はそのとき、人と一緒だったんです」
「それが、急所の骨折とどう関係あるのですか?」
「その方は知り合いの女性でして」
「つまり、その女性と交際されていたということで?」
彼女と逢おうとした矢先に海綿体骨折したのが単なる不運でないと聞けば、男なら状況はだいたい想像がつく。肝月課長の鋭い指摘に、室長は小さく首を縦に振った。
「はい。少し離れた駐車場に車を停めて、歩いている途中でした」
明言を避けこそすれ、時間帯からしてホテルか何かに入るところだったのは確実だ。
「相手の方は無事だったんですか?」
「車が突進してくるのに先に気づいたのは彼女だったので、どうにか難を逃れました。よかったですよ。しかもその際、私の手を引いてくれたんですから。おかげで怪我もある程度、軽くて済んだんです」
翌日に仕事を控えた平日の夜、あの場所を歩いていなければ事故に遭わなかったとしても、死者に鞭打つマネは出来ない上司の立場があるのだろう。肝月課長は怪我を労り、同時にさりげなく話題を別の方へもっていく。
「それは何よりです。機転が利く方とご一緒だったのが不幸中の幸いでしたね。ところでそのお相手の方はおいくつで?」
「二十歳です。彼女はスタイルもこんな感じで……」
室長はおそらく容姿端麗な彼女を褒めたつもりだったと思われる。両手を胸の上に走らせ山形のラインを描いた。そりゃそうだ。真面目そうな室長が股間を膨らませるくらいだ。多くの男性が発する生理現象の抑制は不可能な状態にあり、海綿体骨折に至った経緯をどうにか弁解したくなる気持ちも分からなくはない。ただし、それを聞かされた方がどう捉えるかまでは頭が回らないようだ。他の二人はともかく、僕の胸には話を聞くうちふつふつと怒りがこみあげてくる。
たしかに室長は紛れもない男だ。実際に他言するか否かは別にして、事態が違えば性別を問わず平等に接する室長を疎ましがるあまり陰口を叩く女子連中に、この事故の顛末を伝えてお前たちの誹謗中傷は事実無根だと言ってやりたい気持ちになっていただろう。またそれまで完璧超人だと思っていた室長の、ある意味では人間らしい部分に触れていっそうの親しみを覚えていたかも知れない。
だが、この大変な時期に何をやらかしてくれたんだ! いかに室長が火床市役所内で能力と実績を認められた優秀な職員であり、建前上は勤務時間外に許されている法律を遵守したうえでの自由恋愛を楽しむ権利が十二分にあるとしても、ここまで若くなおかつスタイル抜群の女の子とホテルに入るほど深い仲にあるなど充実した私生活を送る一方、僕がそれらいずれの恩恵にも与れていないというのは不公平にも程がある! 事故そのものは不運でも、退院が遅れるのには室長にも多少は責められる要因があった。とはいえ苛立っているのは僕だけであり、他の二人は呆れたように深いため息をついている。
「横澤室長、このことは伏せておきます。可能な限り、上には骨折の程度が重いと説明しておきましょう」
とりわけ肝月課長は今しがたの話に憤るより、室長も恥を掻いた事情を汲んだ様子だ。怪我の理由だけでも恥ずかしいのに、それが否応なく医師や看護師に伝わってしまったのである。肝月課長への第一報から察するに、電話を入れてきたお母さまにも知られた可能性が高い。僕の年齢でも嫌だというのに、いい歳である室長はさぞかし気まずかろう。ましてやそれがおかしな形で第三者に吹聴された日には、しばらく大手を振って表を歩けないのではないか。もっとも室長自身に、そこまで頭をはたらかせる余裕はなさそうだった。
「課長、ありがとうございます。大変な時期に本当に申し訳ありません。真壁にも、広瀬にも迷惑をかける」
それだけ言うと、ぐったりと身を横たえた。まだ体力の回復が不十分なばかりでなく、唐突な事故に巻きこまれたせいで精神的に疲弊しているのは明らかだ。そろそろ退出すべく、肝月課長はそっと僕たちに目くばせする。
「ええ。入院中は仕事を忘れて、一刻も早い退院に努めてください。その間は私たちで何とかします」
「退院後は全力で仕事に取りかかります」
「お願いしますよ。では、行きましょうか」
室長はもう声を出す力も尽きたようで、僕と真壁の顔をぼんやり眺めつつ首を縦に振るばかり。長居をしても時間の無駄なのは一目瞭然だった。肝月課長に続いて部屋の戸口まで歩いていき、いちど後ろを振りかえって会釈をしてから病室をあとにする。
そこから病棟を出、駐車場に着くまで肝月課長も真壁も何も言わない。腹の中はそれぞれあるにせよ、揺るがせにできない事実を改めて噛みしめているのは三人とも同じだった。室長が一時的に離脱するのは朝の段階で分かっていたとはいえ、相談室に残された人間は今や僕と真壁の二人だけ。生涯学習課を統括するのが本来の業務である肝月課長に、室長の代わりは期待できない。人ひとりの身体はどう頑張ってもひとつであり、直に僕たちを指揮するだけでも至難の業であるのに、さらに事件解決に向けて知恵を絞る役目を負うなど不可能に近いからだ。何より肝月課長自身が手詰まり感を覚えはじめていると見え、別れる際もわずかに二、三言、気休めの言葉をかけてくるのみ。
「これからが大変ですが、室長が退院されるまで頑張りましょう」
そして真新しいジャガーのドアを開け、運転席に腰を下ろして庁舎へ向かい走りさっていく。具体的な指示はない。すぐに有効な対応を伝えろという方が無理な要求であり、今後も望めない可能性が大だ。たとえ何らかの指示があったとしても、気力の失せかけている僕にそれを理解する自信はなかった。
その僕は真壁に促されるまま、年代もののマツダ・レビューに乗る。しかし隣でキーを回す真壁も黙りこくっていた。室長には少なからず失望しただろうし、深夜の巡回あけに仕事がらみでの外出を余儀なくされたせいで疲れているのかも知れなかった。車がオンボロなせいで、走りだすのに妙に時間がかかる。暖房の排気音が車内に鳴りひびいたあと、しばらくしてエンジンの駆動音とともに真壁がようやく小声で呟いた。
「じゃあ、俺たちも行こう。明日は君が当番だろうから、家まで送る」




