1.2-39 町での出来事30
エリザベス=アレクサンドロス。
それが狩人の本名である。ただ普段は、その名を略されて『リーゼ』と呼ばれており、それがいつの間にか本人も含めて、本当の名前のように扱われるようになっていたようだ。
そんな彼女は、辺境の街サウスフォートレスを中心とした平原を管理する領主、辺境伯ベルツ=アレクサンドロスの二女として生を受けた。リーゼのことを小さな頃から知っている者たちの話によると、彼女は昔から、花や薬草の名前を覚えたり、親や兄に付いて狩りに出かけたり、川で魚を釣ったりするのが好きな、『少年のような』少女だったのだとか。
ところが、彼女が生まれたのは、伯爵の家系。自由に生きることは許されず、男の子は男の子らしく、そして女の子は女の子らしく、生きていかなくてはならなかった。
そのせいもあって、彼女は、屋敷の中に留まるようにと、メイドたちから口酸っぱく言われていたようである。しかし、野を駆け、森で遊ぶことが大好きな彼女にとって、サウスフォートレスの内側にある領主の館の中では、迸る好奇心を満たすには至らず……。彼女は、自身の館どころか、町自体から抜け出すために、様々な隠密のスキルを独学で身に付けていったようだ。
その当時、彼女のその能力が、後に狩人としての才能につながっていくとは、恐らく誰も予想できなかったのではないだろうか。
『ただいま戻りました!』
朝食を摂り終えるのと同時に出掛け、そして夕食の時間になると、満面の笑みと共に、身体中を泥だらけにして帰ってくる少女リーゼ。
そんな彼女としては、一応、キレイに遊んでいたつもりのようだが、誰の目から見ても、そうは見えず……。彼女が普段何をして遊んでいるのか、直接その姿を見ずとも想像できるような格好で帰ってきていたようである。
彼女の周りの者達は『もう少し淑女らしい立ち振舞をするように』と、重ね重ね注意をしたが、彼女が態度を改めることは無く……。次第に監視の目も増えていったが、むしろそれは逆効果。彼女は、より隠密のスキルを高めて、その目を掻い潜るようになっていった。
それは、彼女の父であるベルツ伯爵が、彼女の行動を黙認していたから、というのも一つの理由だろう。もちろん、彼女の母親も然り。
そんなある日のこと。今日も、彼女は館を抜けだした。警備兵の隙をついて、町に出入りする馬車の影に紛れ、魔物が闊歩する草原や小さな森を横切り、そして町からどんどんと離れていく……。
そして歩くこと2時間ほどかかって、彼女が辿り着いたのは、花の咲き乱れる小川の畔。そこが、彼女のお気に入りの場所だったようだ。
そこで彼女は、川の中にあった大きな石の上に腰を下ろすと——
『……ぐすっ』
——どういうわけか泣き出してしまったようである。
彼女は寂しかったのだ。
執務で忙しい両親はもちろんのこと、跡継ぎになる予定の一番上の兄も、長く続く戦争や領地管理に忙しかったために、殆ど彼女に構うことはなく……。その他、3人いる兄姉たちも、王都での徴兵や、他の貴族のところへ嫁いでいたために、既に町にはいなかった。
いつも側にいるのは、側仕えのメイドくらいなものだが、彼女は自分の教師でもあり、口うるさく行動を束縛しようとしてくる人物なので、甘える訳にもいかず……。あるいは、友達が1人でもいれば、気は紛れたのかもしれないが、サウスフォートレスには対等に接してくれる者はいなかったので、必然的に友と呼べる者もいなかった。
その結果、彼女には、屋敷の中に、心を落ち着かせられる場所が無かったようだ。
唯一、満たされるのは、かつて、両親や兄達と狩りや川遊びで訪れたこの場所に来て、楽しいことを思い出した瞬間だけ……。ところが、楽しいことを思い出せば思い出すほど、どういうわけか涙が溢れてくる……。
リーゼにはそれをどう解決して良いのか分からず、ただ涙を零すしか、できることがなかった。
ただし、本当の孤独というわけではなく。
この瞬間も、リーゼのこと誰よりも理解する優しい視線が、彼女のことを見守っていたようだが。
◇
それからしばらくしてのこと。
彼女の生活に、剣の稽古が追加された。この世界の令嬢の習い事としては、特別なものではなく、ごく一般的な習い事だったようだ。
ただ、一点だけ、他の習い事と異なる事があるとすれば——剣の稽古を優先するなら、他の習い事は止めてもかまわない、と両親に告げられたことだろうか。
リーゼは当初、その言葉を聞いて、戸惑いを隠せなかったようである。両親がなぜそんなことを言い出したのか、彼女には言葉の真意を理解できなかったのだ。
とはいえ、それこそが彼女の人生の転機の瞬間で、その日から彼女の才能は、異様な方向へと開花していくことになるのだが。
『せ、せいっ!……んにゃ?!』
最初の頃、彼女の剣術は、お世辞にも巧いとは言えない粗末なものだった。木刀を振っても、迷いだらけで、剣先は常に震えている……。褒められる点があるとすれば、腰が引けていなかったことと、猫のように反応だけは早かったことだろう。
そんな彼女が習っていた剣術は、対人戦闘だけでなく、魔物から自身の身を守る術まで含めた、実用的なものだった。
その剣術には、一種の作法や流れのようなものがあり、最初の内、彼女は、その単調な動きを繰り返し真似させられていたようである。相手の行動を先読みし、対策を考え、その先で勝負を掛ける……。そのための時間を最大限確保するための、基本的な身体の動かし方を覚えるためだ。
しかし当然、最初から上手く身体が動かせるはずもなく……。それまで貴族として大事に育てられてきた彼女にとっては、身体の動かし方一つからして、覚えるのに困難を極めた。その際、彼女は、人生で初めてセンスの壁に当たってしまった、と言えるかもしれない。
そんな彼女のことを、遠巻きに眺めていた者たちの中には、無意味だ、と嘲笑う者たちもいたようである。その言葉の一旦は、リーゼの耳にも届いていて、彼女は悔しさと惨めさを噛みしめていたようだが……。しかし、彼女が諦めることは一度もなかった。
そして……。
諦めの悪い彼女の努力は、模擬戦において、遺憾なく発揮されることになる。
最初の模擬戦の相手は、教練の師でもある、サウスフォートレスの騎士団の副団長。彼はリーゼの力量を把握していたので、彼女に程よい緊張感を与えるような勝負をするつもりだったようである。
だが、そんな彼の計画は……
『…………』ブゥン
ズドォォォォン!!
『『『…………え?』』』
——良くも悪くも、思い通りにはならなかったようだ。
彼は気づくと、青い空を眺めていた。それも、硬い修練場の地面の上で、仰向けに伏せた状態で……。
そしてそこで彼は——弱いはずの少女に、木刀の先端を突きつけられていた。
それを実現させたのは、リーゼがこれまでの人生の中で、必死になって身につけてきた隠密スキルだった。もしかすると、この瞬間、この世界に『狩人』という女性が誕生した、と言えるかもしれない。
それからと言うもの、彼女はメキメキと頭角を現していった。副長を倒してから1年ほど経った頃には、実戦形式の模擬戦において、彼女に勝てる者は、団長以外に、騎士団の中には誰もいなくなっていたようだ。
しかしそれでも、リーゼが鍛錬を欠かすことは無かったようである。まるで、”誰か”の後ろを、必死になって追いかけるかのように……。
◇
そんな日々成長を続ける娘の姿を眺めていた両親は、この上なく嬉しかったようである。
彼らにとってリーゼは、目に入れても痛くないほど可愛い末っ娘。これまで育ててきたどの子どもたちよりも、特別大切に育てたいという思いがあったようだ。
しかし、2人とも、日々の忙しさのあまり、リーゼまで手が回らないことを自覚していた。話相手のいない日々の暮らしに、彼女が寂しさを感じていたことも理解していて、その上、彼女がどうしたいのかも分かっていたようである。
そして——このまま貴族として暮らしても、彼女の幸せには繋がらない、ということも……。
その結果、彼女の両親は、可能な限りの自由を娘に与えることにしたようだ。
それはリーゼが成人(15歳)した次の日のことだった。
『リーゼ……いや、エリザベスよ。今日から貴殿を、ミッドエデン王国国立騎士団、サウスフォートレス方面隊の騎士に任命する』
『……はい?』
突然自分を呼び出した父が、これまた突然何を言いだしたのか分からず、驚きを隠せなかった様子のリーゼ。
これまで姉と違って縁談の話は無かった上、令嬢には必要無いはずの剣の稽古を重点的に習わされていたので、彼女自身も違和感のようなものを感じていたようだ。だが、さすがに、騎士にされるとは、微塵も思っていなかったようである。
『早速だが、貴殿に指示を与える。……明日から、我々アレクサンドロス家の始まりの地、アルクの村に赴き、村の常駐騎士となるのだ』
本来、騎士とは、所属する領地を代表して、戦地へと赴き、そして他国の侵略から民の安全と権利を守るで戦士ある。ゆえに、少年たちの憧れの的で、民からも頼られる存在。それが本来の騎士の姿だった。
しかし、村の『常駐騎士』とは、言ってしまえば、交番のお巡りさんのようなもの。よほど国の存続が危ぶまれるような状況にでも陥らない限り、戦争に駆り出されるわけでもなければ、強制的に招集されることもなかった。
つまり、国を守る騎士に憧れる者にとって、『村』の常駐騎士になることは、言い方を変えれば左遷のようなものだったのだ。なにしろ、怪我をして第一線を退いた騎士が、任命されることの多い閑職なのだから。
ただ、そこには、父親たる伯爵なりの考えがあったようだ。
『必ず2ヶ月に1度は、現状を報告しに、ここへと戻ってこい』
つまるところ、たまには顔を見せろ、ということである。戦いから離れられて、森の近くで生活できて、そして何かあってもすぐに顔が見せられる職業……。それが村の常駐騎士だったのだ。
しかし、急に騎士の任命を受けたリーゼは、頭の中がいっぱいになっていたためか、すぐには状況を飲み込めなかった。そのせいか、彼女は、落ち着いて考えれば本意が見えてくるはずの父の言葉を聞いても、ポジティブには受け止められなかったようである。……なぜ、自分だけが、こんな酷い仕打ちを受けなければならないのか、と。
ゆえに彼女は、泣きそうな表情を見せながら、父親に対して問いかけた。
『父様は、私と一緒にいることが嫌なのですか?』
リーゼがその言葉を口にすると、彼女の父は——何も言わずに手を上げた。
それを見たリーゼは、反射的に身構えるものの、父はその手を娘の頭に置くと、彼女の短い髪をくしゃくしゃに撫でただけで……。その後、氏は、そのまま何も言わずに部屋から立ち去っていってしまったようである。
そう。結局、何が何なのか、状況をつかめていなかった娘のことを、その場に一人残して……。
『今なら……あの時、父様が何を言わんとしていたのか……察しがつくんだけどな……』
そんなことを考えつつ、これが昔の夢であるということに気づいた様子の狩人。
その途端、彼女の意識は、急速に浮上していくのであった。
話を切るわけにいかなかったゆえ、一気に修正したのじゃ。
……もうだめかもしれぬ……。




