第30話 書けるところまで整えたので、先に渡しておきます
朝、庭に出ると老庭師のフェルドが花壇の前にいた。
先週植えたばかりの夏向けの苗が、地面からまっすぐ立っている。
春の花の跡は完全に消えていた。
緑の葉が揃って並んでいて、花壇が一段落ついた様子になっていた。
「根づきましたか」
「まだ様子を見ています。植えてすぐは水のやり方が大事で、ここ数日は朝に確認しています」
フェルドが土の状態を確かめながら答えた。
「植えたら終わりではないんですね」
「最初の形が整っても、根づくまでの見方がずれると後で崩れます。最初だけ正しくても、維持の仕方が合っていないと保ちません」
それだけ言って、フェルドは次の苗の足元に手を向けた。
部屋に戻った。昨日の紙がまだ机の上にある。
◇
書きかけの骨格を広げた。
昨夜より少し冷静に見えた。
8項目を順番通りに目で追うと、2か所が引っかかった。
記録者の欄を一番最初に置いていたが、書く側の手順で言うなら日時と出来事が先にある方が書きやすい。
あとから誰が書いたかを足す形の方が自然だった。
もう1か所は、変更の有無という項目の隣に承認者の欄を置いていなかった。
変更が出たとき、誰が承認したかが残らないと、後から確認が取れない。
昨日は抜けていた。
直してから老執事を呼んだ。
「これを見てもらえますか。離宮でやっていることを本宮向けに書き起こしたものです。本宮の規模で使うとき、抜けがないか確認したいです」
老執事が書面を受け取って読んだ。少し間があった。
「変更の承認者はここに入れましたか。これは良かったです。入れていないと、変更が出るたびに誰が決めたかを口頭で確認することになります」
「朝に気づいて足しました」
「もう1点、伝達済みかどうかの欄に、伝達した日時を入れると後で整理がしやすいです。誰に伝えたかは残っても、いつ伝えたかが抜けると順番が追えなくなることがあります」
「ありがとうございます。足します」
老執事が書面を返した。
「離宮では自然にやっていることですが、こうして書くと改めて見えてきますな」
「書いていなかったからできていたのか、できていたから書かなくてよかったのか、どちらかだと思います」
老執事が少し考えてから「おそらく両方でしょう」と言い、出ていった。
伝達日時の欄を足した。項目は9つになった。
◇
昼前にルナが来た。
「今日も書いているんですか」
「仕上げています。記録の形式です」
ルナが机の上を少し見てから「記録が残っていると、何が楽になるんですか」と聞いた。
「言った言わないが減ります。変更があっても、誰が承認してどこへ伝えたかが残っていれば、あとで食い違いが起きにくいです」
ルナがしばらく考えた。
「引き継ぎのときも楽ですね。誰が何をしていたか書いてあれば、急に代わっても迷いにくいです」
「それも入れておきます」
「役に立てましたか」とルナが少し嬉しそうに言って、出ていった。
客人への説明済み事項の欄の下に、一行足した。
引き継ぎ時の確認欄。
前世で言うなら、記録は面倒だから書くものではなかった。
あとで面倒にならないために書くものだった。その差は大きい。
面倒だから書く記録は、形だけ残って誰にも読まれない。
今書いているのは、あとで誰かが困らないための記録の形だった。
◇
午後に書面を仕上げた。
10項目になっていた。
日時・記録者・関係者・決定事項・保留事項・変更有無・承認者・伝達先・伝達日時・客人説明の要否と引き継ぎ確認。
書いている間、誰がこれを使うかを先に想定した。
判断する側と、記録をつける側と、後から確認する側では、読む場所が違う。
項目の並び順を、記録をつけるときの手順に合わせた。
まず何が起きたか、次に何を決めたか、最後に誰に伝えたか。
時系列で追えるようにした。
前世で言うなら、大きな組織ほど決めたことより誰に伝わったかが抜ける。
会議の内容より伝達の記録の方が後から役に立つことが多かった。
この書面はその伝達の部分を埋めるためのものだった。
老執事に渡した。
「フィリアン様へ届けてください。書状に一行添えます。たたき台なので、本宮の規模に合わせて調整してください、と」
老執事が「かしこまりました」と言い、書面を受け取って使いに持たせた。
◇
翌日の昼前に短い書状が届いた。フィリアンからだった。
『受け取った。使う。前のものより中が深い』
前のものより中が深い、という部分を一度読んだ。
受け取ったということと、気づいたということだった。
それ以上ではなかった。
それで十分だった。
ルナが入ってきて、卓の端にお茶の道具を並べ始めた。
湯を注いで茶杯を置き、余った布巾を手にたたんでから「届きましたか」と聞いた。
「届きました」
「また短いですね、フィリアン様の返事」
「用件が済んでいれば十分です」
ルナが少し考えてから「でも今回で終わりじゃないですよね、たぶん」と言った。
「使い始めれば、また何か出てくると思います」
「また来るんですね」
「来たら、その時に考えます」
ルナが少し間を置いた。
「でも今日はここまでですね」
「今日はここまでです。書いて渡して終わりにしました。その先は向こうの仕事です」
ルナが「そうですね」と言い、出ていった。
窓の外で、フェルドが花壇の苗に水をやっていた。
植えた後の管理が続いている。
こちらも渡した後の管理は向こうに任せる。そういう仕事だった。
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