遠い街の光、近い街の温度(後半)
第九章:遠い街の光、近い街の温度(後半)
4. 不眠の行軍
黒澤が宣言した「国際芸術祭プレイベント」まで、残り二週間。
かつては「波風を立てないこと」を信条に、定時退勤を守り、余った時間をSNSの他人の幸福を眺めることに費やしていた佐伯美紀の姿は、そこにはもうなかった。
市役所の通常業務を終えた後、彼女が向かうのは三番ホーム、あるいは駅裏の倉庫アトリエだ。
「佐伯さん、この申請書類、県の道路課に直接持って行ったほうが早いですよね?」
「健太さん、アトリエの照明、もう少し暖色に寄せられませんか? 涼さんの絵が持つ『温度』を殺したくないんです」
美紀は、何日もまともな睡眠をとっていなかった。目の下には隠しきれない隈が浮かび、指先は常に書類とペイントの汚れで荒れている。けれど、彼女を突き動かしているのは、疲労を凌駕する「祈り」に似た使命感だった。
(私が立ち止まったら、この町の『呼吸』がまた止まってしまう)
佐藤さんや健太、拓海たちもまた、彼女の背中を追うように必死で動いていた。
「美紀さん、コーヒー。……あんた、これ以上無理したら本当に倒れるわよ」
佐藤さんが差し出す缶コーヒーの熱さが、感覚の麻痺し始めた指先に染みる。
「大丈夫です、佐藤さん。……あと少しなんです。黒澤さんが呼ぶ『本物の観客』が来たとき、この町を世界で一番誇らしい場所にしたいんです」
都会のスタイリッシュなイベントではない。
不便で、古くて、けれど人々の記憶が詰まった「リビング・ミュージアム」。
美紀は、涼が東京へ行くか、この町に残るかという問いを、心の奥底に押し込んでいた。自分が完璧な舞台を作り上げることさえできれば、彼に「残る」という選択をさせることができるかもしれない。それは、35歳の彼女が初めて人生に賭けた、傲慢で切ない願いだった。
5. 三番ホームの虚空
開催まで残り一週間。
その日の夜も、美紀は三番ホームで涼と落ち合う約束をしていた。
新しく描き上げた「メインピース」の状態を確認し、展示の配置を最終決定するためだ。
冷たい秋の夜風がホームを吹き抜ける。
美紀は、いつものように三番ホームの、あの木製ベンチの前で足を止めた。
「涼さん、お待たせしました。……今日は、おばあちゃんたちが手作りの看板を……」
言葉が、夜の闇に吸い込まれた。
ベンチには、誰もいなかった。
いつもなら、そこには黒いスケッチブックを抱え、少しだけはにかんだ笑顔で美紀を待つ涼がいるはずだった。
(……遅れているのかな? アトリエにまだいるのかも)
胸を突く嫌な予感を振り払い、美紀は駅裏の倉庫へと走った。
「涼さん! いますか?」
アトリエの扉は、鍵がかかっていなかった。
中に入ると、溶剤の匂いと、静寂だけがそこにあった。
「……涼さん?」
中央に置かれたイーゼル。そこには、数日前まで描きかけだった大きなキャンバスが、白い布で覆われたまま放置されていた。
美紀は震える手でその布を剥いだ。
そこに描かれていたのは、完成したばかりの「三番ホーム」だった。
けれど、そこにはいつもいたはずの人物が描かれていなかった。
美紀は、部屋の隅々まで探した。
彼の私物。使い古したパーカー。おばあちゃんにもらったハッカ飴の包み紙。……何もない。
彼が肌身離さず持っていたスケッチブックも、描きかけの小品も、すべてが消えていた。
置手紙ひとつ、なかった。
美紀は膝から崩れ落ちた。
三番ホームに、最終列車の警笛が響く。
それは、都会へと続く鉄路が、彼を永遠に連れ去ってしまったことを告げる死神の合図のように聞こえた。
「……結局、私じゃダメだったんだ」
涼にとって、この町は再生の場所だったのかもしれない。けれど、再生してしまえば、彼はもうここには必要ないのだ。彼が帰るべきは、光溢れる東京の、あの残酷なまでの「天才」の席なのだ。
美紀は、暗いアトリエで一人、声を上げずに泣いた。
三十五年生きてきて、これほどまでに心がちぎれるような喪失感を、彼女は知らなかった。
6. 立ち止まれないランナー
翌朝、美紀の顔は白く、幽霊のようだった。
「美紀さん……涼さんは? 今日からメインピースの搬入でしょう?」
健太が心配そうに尋ねる。
「……彼は、いません」
美紀の声は、感情を削ぎ落としたように平坦だった。
「東京からのオファーを、受けたんだと思います。何も言わずに……去りました」
仲間の間に、動揺が走る。
「そんな! あと一週間なのに、主役がいないなんて……」
「やっぱり、あんな天才がこの町に残るわけなかったんだよ」
諦めの空気が、重く垂れ込める。
その時だった。
「主役がいない? 何を馬鹿なことを言っている」
入り口に、黒澤が立っていた。彼は相変わらず、隙のないコート姿で、冷徹な瞳を一同に向けていた。
「佐伯美紀。君の計画は、一人の絵描きの気まぐれに左右されるほど、脆弱なものだったのか?」
「……黒澤さん。でも、彼の絵がなければ……」
「絵はあるだろう。あのアトリエに。そして何より、この町そのものが、君たちが作り上げた『事実』だ」
黒澤は美紀に歩み寄り、その頬を打たんばかりの勢いで睨みつけた。
「逃げた男の背中を追って泣くのは、素人の仕事だ。君はプロだろう? 責任者だろう? ……彼がいないのなら、彼が残した『欠落』さえも展示の一部にして、この町を見せつければいい。……土下座させるチャンスを、自ら捨てるつもりか?」
美紀は、黒澤の言葉に顔を上げた。
そうだ。これは、恋の話ではない。
この町に生きる人々の記憶と、未来を賭けた戦いなのだ。
彼がいなくなったことで、この物語が「美談」で終わる道は断たれた。けれど、「真実」を突きつける道は、まだ残されている。
「……健太さん。搬入を続けます」
美紀は、掠れた声で言った。
「涼さんがいなくても、展示は行います。彼の描いたこの町の姿を、私たちが最後まで守り抜くんです」
7. 残り三日の決意
芸術祭まで、あと三日。
町は、これまでにない異常な熱気に包まれていた。
黒澤の仕掛けにより、主要メディアや美術評論家、そして海外のコレクターたちの予約が、地元の数少ない旅館を埋め尽くしていた。
市役所の幹部たちは、手のひらを返したように「わが市の誇る文化的イベント」として、警察の交通整理や警備の準備に奔走し始めている。
美紀は、最後の一分一秒まで、展示の微調整を繰り返した。
三番ホームには、涼の描いたスケッチの複製が、駅の柱の一部であるかのように美しく配置された。
メインのアトリエには、彼が残していった、あの「人物のいない三番ホーム」の巨大な絵が据えられた。
美紀は、その絵を眺めながら思った。
(涼さん。あなたは、自分がいないこの町が、どれほど美しいかを知っていたのね)
人物がいないのではない。
その絵を見る「観客」自身が、その景色の一部になることで完成する。
彼は、去る間際に、この町を「彼一人のもの」から「みんなのもの」へと解き放っていったのだ。
睡眠不足で体は鉛のように重い。心は、彼の不在を思うたびに冷たい氷を飲み込んだような痛みに襲われる。
けれど、美紀はもう、鏡の中の自分を見て「どこにでもいる普通の会社員」だとは思わなかった。
彼女は今、不便な田舎町の三番ホームで、世界と対峙する一人の表現者になっていた。
「あと、七十二時間」
美紀は、スマートフォンの画面を閉じた。
彼からの連絡はない。SNSの『藤代涼介、復帰』というニュースが、タイムラインを騒がせている。
けれど、彼女はもうそれを追わなかった。
三番ホームに、夜の冷たい静寂が降りる。
明後日、一番列車が到着するとき、この町の運命が決まる。
美紀は、ただ一人、月光に照らされた線路を見つめ、静かに呼吸を整えた。
都会の光は遠い。
けれど、今、彼女の足元には、誰にも消せない「自分自身の光」が、確かに灯っていた。




