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三番ホームの遺失物  作者: 久遠 睦


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遠い街の光、近い街の温度(前半)

第九章:遠い街の光、近い街の温度(前半)


1. 牙を持つ投資家の招集


あの大荒れの会議から一夜明けた、木曜日の朝。

市役所のロビーに、美紀の足音がいつもより静かに響いていた。

昨日の逆転劇は、すでに役所内を駆け巡っていた。廊下ですれ違う同僚たちの視線には、明らかな困惑と、得体の知れないものを見るような畏怖が混じっている。だが、美紀の心はまだ昨日の余韻に浸ることを許されていなかった。

出勤直後、彼女のスマートフォンに一通の簡潔なメッセージが届いたからだ。

『午前十時、駅前の「光和旅館」へ。話の続きをしよう。 黒澤』

「光和旅館」は、この町で最も古い老舗旅館だ。美紀は課長に外出の許可を取り(今の課長は、美紀の願いを断る勇気を持っていなかった)、足早に旅館へと向かった。

通された離れの座敷には、すでに黒澤がいた。

彼は、地元産の日本酒を少しだけ猪口に注ぎ、朝の光が差し込む庭を眺めていた。

「……お呼びでしょうか」

美紀が座ると、黒澤は振り向かずに口を開いた。

「昨日の会議、君の『反逆』は見事だった。だが、あれはまだ序局に過ぎない。渡辺君のような論理の徒は、一度の挫折では諦めない。彼らはまた、より強固な『数字』を携えて戻ってくるだろう」

黒澤はゆっくりと向き直った。その瞳は、昨日よりも一層鋭く、美紀の心の奥底を見透かすようだった。

「佐伯さん。計画を『再考』させるだけでは不十分だ。彼らに、自分たちの無知を恥じ、二度とこの町に土足で踏み込めないほど『土下座』させるための圧倒的な事実を、今から作りに行こうじゃないか」

「圧倒的な、事実……」

「そうだ。一ヶ月後、この町で『国際芸術祭』のプレイベントを開催する。私が世界中からコレクターとプレスを呼ぼう。そこで君たちが守ろうとした景色が、どれほどの価値を持ち、どれほどの外貨を稼ぎ出すのか……そのブランド価値を、あの役人たちの鼻先に叩きつけてやるんだ」

美紀は息を呑んだ。

それは、普通の事務員だった彼女の想像を遥かに超える、巨大なギャンブルだった。

都会の資本を使い、都会の論理を逆手に取って、この不便な田舎町を「聖地」に変える。黒澤の提示した「事実」とは、圧倒的なまでの経済的・文化的勝利のことだった。


2. 藤代涼介への帰還


黒澤との面会を終えた美紀は、その足で駅裏の「旧・写真館アトリエ」へと向かった。

シャッターを開け、仲間たちと再生を始めたばかりのその場所には、すでに独特の静謐な空気が流れていた。

だが、アトリエに入った瞬間、美紀は異変に気づいた。

涼が、一通の厚手の封筒を手に、石像のように固まっていたからだ。足元には、彼が大切にしていた細い筆が一本、無造作に落ちている。

「涼さん……? どうしたの」

美紀が駆け寄ると、涼は震える手でその封筒を差し出した。

差出人は、東京・銀座にある日本屈指の老舗画廊だった。

「……僕を捨てた世界から、招待状が届きました」

封筒の中には、三ヶ月後に開催される現代美術界の権威ある記念展への出品依頼、そして——『藤代涼介』としての正式な復帰オファーが記されていた。

「これって、すごいことじゃない。日本中のトップアーティストが集まる、あの展覧会……」

美紀の声は、途中で途切れた。

涼の顔に浮かんでいたのは、喜びではなく、底なしの絶望だったからだ。

「美紀さん。これは僕を試しているんです。……僕がこの町で見つけた『光』が、都会のきらびやかなスポットライトの下でも色褪せずにいられるのか。それとも、あの場所に戻れば、僕はまた『描く機械』に戻ってしまうのか」

涼は、壁に掛けられた描きかけのスケッチを、縋るように見つめた。

それは、三番ホームで夕陽を浴びる美紀の姿だった。

その日の夕方。二人は三番ホームのベンチに座っていた。

空は驚くほど高く澄み渡り、冷たい秋の風が、都会へと続く線路の上を吹き抜けていく。

美紀は、自分の隣に座る涼が、まるで陽炎のように今にも消えてしまいそうな錯覚を覚えた。

「……行くべきだと思うわ、涼さん」

美紀は、自分の心を引き裂くような想いで言葉を紡いだ。35歳の彼女にとって、これまでの人生で最も辛い一言だった。

「あなたは天才なんだもの。この小さな町に閉じ込めておくには、あなたの才能はあまりに大きすぎる。東京で、もう一度『藤代涼介』として戦ってきてほしいの」

「美紀さんは、僕にいなくなってほしいんですか?」

「そんなわけない!」

美紀は思わず、彼のコートの袖を強く掴んだ。

「いなくなったら、私……また、あの空っぽな毎日に戻っちゃうかもしれない。でも、あなたの可能性を殺す権利なんて、私にはないわ。あなたは、もっと広い世界で羽ばたくべき人なのよ」

涼は、美紀の握る手に、自分の大きな手を重ねた。その手は、かつて出会った時と同じように冷たかったが、確かに熱を帯びていた。

「美紀さん。僕が本当に恐れているのは、東京へ戻ることじゃない。……東京へ戻ることで、この町であなたと見つけたこの『温度』を、忘れてしまうことなんです。都会の光は強すぎて、ここにある微かな、でも温かい光が見えなくなってしまうのが怖い」

遠い街の、冷たく鋭い「光」。

近い街の、不便だけれど確かな「温度」。

三十五歳の美紀にとって、それは単なる選択肢ではなく、自分の「恋」と「正義」が真っ向から衝突する、残酷な分水嶺だった。


3. 戦略としての愛


その夜。美紀は再び、黒澤に呼び出された。

今度は旅館ではなく、夜の三番ホームだった。

彼は、月明かりに照らされた線路を見つめ、懐中時計の蓋をカチリと閉めた。

「涼に、招待状が届いたようだな」

黒澤は、美紀の気配を察して言った。

「……あなたが、仕組んだことなんですか?」

「まさか。私はただ、彼を『観測』しているだけだ。……佐伯さん。君に教えておこう。私が言った『圧倒的な事実』、その最後のピースは、涼の去就だ」

黒澤は、美紀の瞳を射抜くように見つめた。

「もし、涼が東京の華やかなオファーを蹴って、この不便な町に残ると宣言したらどうなると思う? 世間はそれを『愛による美談』とは受け取らない。『この町には、世界的な才能を東京から引き剥がすほどの、とてつもない魅力がある』という、冷徹な証明になるんだ」

美紀は息を呑んだ。黒澤の戦略は、あまりに冷酷で、あまりに完璧だった。

「涼さんが残ることが、町を守る最大の武器になる……ということですか」

「そうだ。だが、それは彼自身の意志でなければ意味がない。誰かに強制された選択では、絵に嘘が出る。……佐伯さん。君の役割は、彼を繋ぎ止めることじゃない。彼に『ここが東京よりも価値のある場所だ』と、魂の底から確信させる環境を、この一ヶ月で作ることだ。それができなければ、君の負けだ」

三十五歳。どこにでもいる普通の事務員だった彼女に課せられた、あまりに重い十字架。

美紀は、黒澤が立ち去った後も、一人ホームに残った。

都会へ行くことが、涼の「成功」なのか。

それとも、この町で共に生きることが、二人の「真実」なのか。

自分を幸せにしてくれるのはどちらか、ではない。

涼を、そしてこの町を、最も高く誇りある場所へ連れて行けるのは、どちらの道なのか。

美紀は、スマートフォンの電源を切り、暗い夜空を仰いだ。

「……土下座させるほどの、事実」

彼女の瞳に、静かな、けれど逃れようのない覚悟の炎が宿る。

涼を愛しているからこそ、彼を自由にする。

けれど、彼が自らここに留まりたいと願うほどの「世界」を、一ヶ月で、自分の手で作ってみせる。

それは、人生で初めて、美紀が「誰かのため」ではなく、「自分自身のプライド」をかけて挑む、最大の革命だった。

不便で、愛おしい日常。

三番ホームに、最終列車の警笛が遠く響く。

物語は、いよいよ一ヶ月後の「芸術祭」という名の決戦へと加速していく。


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