黄昏の序曲 第二話後編 友の寿命は一二五日
「漆間さんに与えてしまったもう一つの能力は『最も信頼する人の寿命を奪い続ける』というものです」
三人の間に数小節の沈黙が流れた。赤いワインがグラスから溢れ、綾崎の肘を通って床に垂れている。漆間は目を見開いた姿勢のまま固まっていた。
「……『最も信頼する人』?」
表情そのままになんとか漆間はそう繰り返した。にわかには理解できない言葉をなんとか咀嚼しようとしている。戸惑う漆間に田沼は続けた。
「例えば母、あるいは妹、そして友人」
一つ一つ例をあげる田沼の表情は掴めなかった。しかしこれまで彼が見せた表情の中で最も悪魔的なのは間違いない。
「あなたはそのいずれか一人の寿命を奪い尽くすのです。その人が死に至るまで」
田沼のキツネ目は妖しく煌めき、漆間はその瞳に釘付けになっている。綾崎の消費した赤ワインはボトルの中身を僅かに残しただけで、大半は赤い水溜りを作るのに使われた。
「個人差はあれど、一年あたり約二◯年の寿命を奪い、それが尽きると奪われた者は老衰で死にます。そしてあなたのターゲットは別の人に移り変わる。別の『最も信頼する人』に」
「何を……?」
「初めは母、次に妹たち。漆間さん、あなたは図らずも家族の寿命を奪い続けてきたのです。奪って奪ってあなたの寿命は伸びてゆく。今やその寿命は三六◯年にまで達しました」
三六◯年の寿命。漆間はこれから三つの世紀を経験すると言われているのだ。家族の命を踏み台にして。
「俺の……せい?」
彼はうなだれ下を向いた。目を見開いたままフローリングを見つめた。いや、彼はもはや何も見ていない。目のある方向に偶然床があるに過ぎない。
「その通り。母親が老衰で亡くなったのも、妹さんたちが一四歳で老衰で亡くなったのも漆間さん、あなたが能力で寿命を奪い尽くしてしまったからなのです」
項垂れる漆間を見つめる田沼の細い瞳は見開かれていた。口元の笑みは消え、ただ漆間を見つめている。その表情の意味を理解できるものはそこにはいなかった。
「待て、計算が合わないぞ」
綾崎はグラスから溢れた赤ワインで肘を濡らし、ほとんど空のワインボトルを持ったまま言った。
「一年あたり約二◯年の寿命と言ったな? 確か漆間のおばさんが亡くなったのは八年前で、能力を得たのは十年前。二年間で四◯年の寿命を奪った。妹たちが亡くなったのは四年前でおばさんが亡くなってから四年。四掛ける二十掛ける双子だから二で一六◯年。おばさんのと合わせて二◯◯年だ。仮に漆間自身の寿命が残り八◯年としても二八◯年。どうやっても三六◯年にはならないぞ」
「そうです。綾崎さんあなたにとって深刻なのはそこです」
田沼は綾崎を振り返り見た。両の目は紅く輝いている。
「漆間さんの妹たちが亡くなってから四年、彼の能力はすでに別のターゲットを選んでいるのです。別の『最も信頼する人』を」
「まさか……!」
漆間が綾崎の方に視線を移す。二人に見つめられた綾崎は困惑の色を隠しきれない。田沼の口からは恐ろしいことが吐き出されようとしていた。
「そうです。綾崎さん、あなたはこの四年間で漆間さんに約八◯年の寿命を奪われています」
手から滑り落ちたワイングラスが儚い音を立てて粉々になった。綾崎の足元は黄泉の沼のように赤い水溜りになっている。
「俺……?」
「綾崎さんの残りの寿命はそのボトルに残ったワインのように僅かです。おそらく数ヶ月ほどでしょうか」
二人は同時にボトルを見た。中身は数ミリ単位でしか残っていない。
「俺はもうすぐ死ぬのか……?」
絶望とも呆然ともとれないなんとも言えない声。突然の知らせは彼を混乱させるばかりで、脳の正常な機能を妨げていた。
「綾崎!」
立ち上がった勢いで腰掛けていた椅子が飛んだ。左手の手袋を脱ぐと、輝く左手で綾崎の頭に触れようした。
「今、治してやる……! だからお前は死なない!」
「無駄です」
ゆらりと幽鬼のように立ち上がった田沼はピシャリと言い放つ。
「あなたの両手の生命力の授受と、寿命のシステムは全くの別です。栄養の点滴で癌は治らない」
氷のような冷たさを持つ田沼に漆間は怯まない。
「ならお前がなんとかしろ!」
田沼の胸ぐらを掴み、壁際に追い詰めた。
「お前は魔法が使えるんだろ!? 綾崎を救えるんだろ!?」
漆間の頬を流れる二本の筋はなんであったか? 自分自身の呪われた運命のためか、あるいは死にゆく親友を救うためであろうか? 頬を流れる水滴は暖かかった。
田沼は瞳に憂いを見せている。キツネ目に哀れみを秘めている。漆間は田沼が口を開くのが怖かった。聞きたくない答えを聞きそうで怖かった。自然、胸ぐらを掴む両手に力が入る。しかし、首元を締め上げられた田沼は苦しむでもなく平然と話し出した。
「私にはできません」
漆間がすがろうとした希望ははじめから存在せず、彼は田沼から手を放し膝から崩れ落ちた。フローリングの床に水滴がこぼれる。喉の奥から、悲しみの叫びが放たれようとしたそのとき――
「私にはできませんが、六人の悪魔が集まれば」
「え?」
漆間と綾崎は同時に声を出す。田沼は続けた。
「世界に散らばる悪魔の力を合わせれば、綾崎さんに寿命を戻し、漆間さんの能力を解くことができます」
「魔本の悪魔はお前だけじゃないのか?」
「私を含めて六人、世界には六人の悪魔がいるのです」
――悪魔は田沼だけではなく、世界にはあと五人いる――
目の前でメガネの奥のキツネ目を輝かせ、口元に微笑をたたえるこの悪魔からもたらされた情報は聞き手の二人を驚かせた。
「どういうことだ? 悪魔が六人? もう少し分かりやすく言ってくれ」
「世界には私と同じように願いを叶える悪魔があと五人いるのです。そして私を含めた六人の悪魔の魔力を合わせれば、漆間さんの能力、寿命を奪う能力をなくし、綾崎さんの寿命を戻すことができるのです」
田沼はキツネ目を煌めかせ繰り返した。口元には微笑が戻っている。
「母さんと妹たちは生き返るのか?」
漆間の虚ろだった目はこのときわずかな期待に輝いた。
「私はこれまで何度も『死んだ人を生き返らせてくれ』という願いを聞いてきました。しかし、一度たりとも生き返ったことはありません。なのでおそらく……」
漆間の瞳の輝きは一瞬のことだった。母さんと妹たちは生き返らない。しかし、綾崎はまだ間に合う。当の綾崎は奥歯に物の挟まった顔をしている。
「綾崎だけでも助かるのなら十分だ。詳しく教えてくれ」
綾崎は緊張の溶けた糸のように顔を緩ませ、田沼に尋ねた。
「で、どこにいるんだ? その残り五人の悪魔たちとやらは」
「私は彼らの位置を正確に知ることはできません」
かぶりを振りながら、彼は答えた。
「彼らは私同様、普段は本の中に身を潜めています。ですから彼らの魔力を探ることはできません」
二人はうなだれた。場所がわからないのでは探しようがないではないか。落胆する綾崎を横目に漆間は少し考え込んだのち、尋ねた。
「正確に、と言ったな。大まかにはわかるのか?」
キツネ目をニコリと微笑ませ、悪魔は答える。
「ええ、わかります。彼らの使った魔法の気配、すなわちあなたたち能力者を感じれば、彼らの生み出した能力者の位置を知ることはできます。能力者が集中的に存在する場所にきっと悪魔たちはいるでしょう」
「それはどこなんだ?」
いい加減、田沼の婉曲な話し方に苛立っていた漆間が間髪入れずに問いただした。すると田沼は一体いつから持っていたのか、サッカーボール大の地球儀を取り出し、五ヶ所に赤いピンのようなものを刺した。
「ラスベガス、リオ・デ・ジャネイロ、モスクワ、ヴァチカン、そしてアフリカ大陸中央部」
漆間と綾崎は息を飲み、ピンの刺さった場所を見つめた。
「私以外の残り五人の悪魔たちはきっとそこにいるでしょう」
範囲が広すぎる。残り数ヶ月で全て探しきれるのだろうか? 共通の不安が二人を貫いた。
「まるで世界旅行じゃねえか。間に合うのか?」
「綾崎の寿命は正確には残り何日なんだ?」
旅を始める前に、正確なリミットを知る必要がある。いつ来るともしれない限界をわからないまま旅を続けるのは綾崎も避けたい。
「四ヶ月と三日。つまり一二五日です。それが綾崎さんに残された命の時間です」
一二五日――、それが綾崎に残された寿命。
「春に見たのが俺の見る最後の桜か」
「縁起でもないことを言うな!」
冗談さ、とコロコロ笑う綾崎に、漆間は大きく舌打ちをした。
「どこから行くんだ漆間?」
綾崎は気持ちを切り替え、クールに問いかけた。
「田沼、位置は正しいんだろうな?」
ニコニコして田沼は答えた。
「自信があるのはラスベガス、リオ、ヴァチカンの三つです。その三ヶ所はよく能力者が現れます。特に確信を持てるのはラスベガスです。毎日のように魔法がつかわれますから。残りはいまいちよくわかりませんね。最近、魔法が使われていないようです。アフリカに至っては最後に能力者が現れたのが二三年前という始末でして……」
「もういいよ。よくわかんねえんだろ?」
笑いながら言い訳をする田沼は腹立たしい。しかし残りの魔本を探し出すにはこの悪魔の力に頼るしかないのだ。
「決めた。まずはラスベガスに行く」
「どうして?」
「田沼が自信のないところに行って無駄骨というのはごめんだ。それにラスベガスはリオにも近い。すぐに次の魔本探しに行ける」
「そうだな、漆間のいう通りだ。まずはラスベガスへ行こう」
一つ目の魔本を手に入れるためラスベガスへ行く。
「ラスベガスといえば、カジノだ。今から楽しみだな」
「バカか! お前の命がかかっているんだぞ」
「わかってるさ。だけどどうせなら楽しく行こうぜ」
「お前ってやつは……」
お気楽なやつだな。
しかし、その綾崎の性格に彼は救われていることを知っていた。
「長い旅になる」
「なあに、世界一周旅行をするだけさ」
「もう日本には帰れないかもしれないぞ」
「帰ってくるさ。来年の桜を見たいからな」
綾崎は軽くウインクした。
「馬鹿みたいなこというなよ」
漆間は言いながら微笑んでいた。
「いいじゃねえか。身近な目標で」
漆間は心の中で綾崎に賛成した。
「じゃあ、行くか。来年の桜を見るために」
「おう」
旅の決意をしたところに田沼は話しかけてきた。
「ところで私は約束を守ってもらわなければなりません」
唐突だった。約束とはなんであったか? 二人がまるっきりわからない顔をしていると、田沼は続けた。
「ミナトを元に戻してください」
彼らは同時にPCチェアに延長コードでくくりつけられたミイラを見た。哀れにも椅子ごと床に倒れこんだミイラはピクリとも動かない。二人は驚きの連続で完全に失念していたのだ。
「友人に別れを言わなければなりません。私もあなたたちふたりの旅に同行しますから」
そう言うと田沼はミナトを縛り付ける延長コードをそっと解き始めた。口を塞いだガムテープは剥がさない。今剥がすとおそらく乾いた皮膚ごと剥がれてしまうだろう。
「悪かったな。約束は守る。別れを済ませるといい」
左手の手袋をそっと外すと、現れた左手は暖かな白光を放っている。その手でそっとミナトの額に触れた。
「ミナト、目が覚めましたか?」
瞼が重い。疲れているのだろうか。いつもより目が開きにくい。それでもゆっくりと目を開けるとそこには田沼がいた。
「おはよう田沼。どうしたの? 君が起こしてくれるなんて珍しいじゃないか。痛つつ!」
全身が満遍なく痛い。筋肉痛とも関節痛とも違う痛みが身体中を襲った。
どうしてこんなに痛いんだ?
「気がついたか?」
「ええ。漆間さん、あなたのおかげです」
田沼が漆間と呼ぶ男は天井に届きそうなほど背が高く、髪の長い男だった。おそらくミナトよりも頭一つ、いや一つ半ほど長身だろう。彼はこの男をどこかで見たような気がしていた。
「あの写真のヤツがこうなるとはねえ。見る影もないとはこのことだな」
「綾崎、余計なことは言うな。田沼、さっさと済ませろよ」
痛みに耐えながらもミナトはこの状況に引っかかりを覚えていた。
この部屋は紛れもなく自分の部屋だ。でもベッドの上じゃあない。何故かカーペットの上で田沼に抱えられながら目を覚ました。
そしてこの妙に見覚えのある二人組は誰なんだ? そして何故こんなに全身が痛いんだ?
周囲を確認するために何気なくあたりを見ると、部屋が随分と荒れていた。カーペットは汚れているし、ダイニングにはワインがこぼれて赤い水溜りを作っている。ふと隣を見ると、そこには何かスーツのようなものが脱ぎ捨てられていた。否、彼らはまだスーツを着ていた。そこには枯れ枝のようなミイラが二体横たわっていたのだ。
「あれは!」
ミナトの脳に電撃が走り、意識を失う前の出来事が網膜内で結ばれた。彼は眠ってしまう前、警察官を名乗る二人組に暴行を受けたのち誘拐されかけ、そこにこの目の前の二人が現れ警察官をミイラにかえたのだ。
「全部思い出したぞ! この部屋に何をしに来たんだ! 田沼は渡さない!」
ミナトは右手の指を鳴らそうとした。しかしそれを直前で阻む二本の腕。その腕は田沼のものだった。
「どうして止めるんだ! こいつらはきっと君を奪いに来たんだ!」
「落ち着きなさいミナト。この二人はあなたを助けてくれたのです。感謝こそしてもその力で傷つけるなんてもってのほかです」
掴まれた腕を見ると赤く腫れ上がり、触れられるだけで激痛が走る。
「痛いよ田沼。放して」
「すみません」
田沼は腫れ上がった両腕をそっと放す。彼はミナトへのいたわりの心を忘れない。田沼がミナトを裏切ったことなど一度もないのだ。
「わかった。田沼がそう言うなら信じてみる」
不服ながらも、ミナトは一旦田沼に従った。
「どこのどなたかは存じませんが、助けていただいてありがとうございます」
感謝の言葉に多少のトゲが含まれたのは、一社会人としては失格の部類だったが、長髪と茶髪の男たちは気にも留めなかった。
「そこの暴力警官どもから奪った生命力をお前に与えておいた。今は傷だらけだが、すぐに良くなるだろう」
長髪の言葉に腕の傷を見ると早くも赤い腫れは青タンに変わりつつあった。どうやら想像もつかないようなスピードで傷が治っているらしい。
「この二人は誰なの?」
先ほどより幾分か冷静になったミナトは一つ、田沼に質問をした。
「髪の長い方が漆間夜一さんで、茶髪の方が綾崎京二さんです。お二人とも私に用があって私を訪ねていらしました」
「用ってなに?」
「とても深刻で命に関わる用です。その用を済ませるために、私は彼らについて行かなければならないのです」
「やっぱり田沼を奪いに来たんじゃないか!」
「騒ぐな」
見ると髪の長い男は手袋を取り、黒い右手をミナトの眼前に突き出していた。
「お前も落ち着け、漆間!」
間に入った綾崎が二人を引き離す。
「しかし、こうも騒がれては……」
「そんなこと言って田沼が来てくれなくなったらどうするんだよ」
漆間は軽く舌打ちして窓の外を眺めた。
「ええと、興梠君、だっけ? 君は俺たちのことを物盗りかなんかみたいに言ってるけど、そこに転がってる奴らから助けたのは俺たちなんだぜ? 俺たちが偶然こなけりゃあのミイラどもに連れ去られてたんだ。何処ともわかんねえところにな。その辺、少し考えてくれてもいいんじゃないか? それに、君はこいつらが何者で、なぜ君を連れ去ろうとしたのかわかっているのかい?」
なにか言い返そうと口を開きかけたがそのままつぐむ。確かにミナトは何も知らない。ミナトは知る必要があるのだ。自分のこと、田沼のこと、そしてこの二人のことを。
「騒いですみませんでした」
己の浅はかさを知ったミナトは詫びた。さっきよりも誠意が込められている。綾崎は、分かりゃいいんだ、と笑った。
「話を聞かせてください。僕の身に何が起きているのか」
ミナトの瞳は真剣だった。漆間と綾崎はこれは、と顔を見合わせたが、二人とも心は決まっていた。素直になったミナトに漆間と綾崎は語り始める。その間、田沼は黙って遠くを見つめていた。
二人から語られる寿命と能力のこと、六人の悪魔のこと、そして田沼のことにミナトは聞き入っていた。
「すまねえ田沼。全部喋っちまったよ。何か聞かせたくないことがあるらしかったのに」
田沼は微笑して、構いません、とだけ言った。
「それで、結局こいつらは何者なんですか」
二つのミイラを指さした。
「そいつらは公安警察だ。能力者とそれを生み出した魔本、つまり田沼のことを探している。警察はなぜか知らんが能力者を集めているらしい」
「興梠君が狙われたのもそういうわけさ。もっとも普通はそんなに殴られたりしないはずなんだけど」
「公安警察に目をつけられたからには君もこれからは奴らに追われる人生になるだろう、覚悟するんだな」
漆間の言葉には冷酷さと憐れみとが合わさっていたが、奇妙なことに少しだけ温かみを感じる。それは彼と綾崎に降りかかっている運命を知ってしまったからなのかもしれない。
「事情は分かりましたか?」
静かに待っていた田沼が話し始める。
「私は漆間さんと綾崎さんについていかなくてはなりません。だからミナト、お別れです」
ミナトの瞳を優しく見つめ肩に手を置いた。憂いを含んだそのほほえみは悪魔というには慈愛に満ちすぎていて、むしろ別れを儚む天使のようだった。
その田沼の別れの言葉を全身で受け止めたミナトはというと、彼らしくもなく眉をゆがませ、歯を食いしばり苦悶の表情だった。顔の傷はもうほとんど治っている。
「では……、行きます」
何も言えなくなったミナトを残し、彼らは部屋から立ち去ろうとした。
「待って!」
ミナトは叫んだ。田沼を含む三人は振り返る。
「僕もついていく」
「ミナト!」
「だって、ここにいたってどうせまた公安が来るんでしょ? きっと今度は会社にだってくる。そしたらどうせ僕は逃げなきゃいけない。だったらここにいる意味なんてないじゃないか。それにこの部屋の家賃だって高いし、そろそろ引っ越さなきゃなあ、なんて思ってたし、それに、それにそれに……」
ミナトは田沼を真っすぐ見つめた。
「僕は君と離れたくないんだ」
「ミナト……」
田沼は初めて困ったような顔をした。これはどれほど珍しいことなのだろうか。その場にいる三人はだれもそれを知らない。
ミナトは今度は二人に向き合い必死に言う。
「漆間くんに綾崎くんだったよね? お願いします、僕を同行させてください。必ず力になるから! 約束
する!」
「おいおい……」
綾崎は漆間にやれやれと視線をやる。漆間は何を見ているのだろうか、遠い目をして何かを考えているようだった。
「田沼を連れていくなら僕も連れていってください! お願いします!」
ミナトはひたいを床に擦り付け、必至に頼み込んだ。漆間の両の目の焦点はミナトの後頭部で結ばれる。その姿に何を見たのか、彼は三小節ほどの休符を経て小さく言った。
「いいだろう。連れて行ってやる」
「ありがとうございま「ただし」
礼を言いながら顔を上げようとしたミナトが見たのは冷徹な瞳だった。
「ただし、俺たちはお前を助けたりはしない。例えお前が骨を折ろうとも、肉を裂かれようとも、俺たちはお前を助けない」
淡々と語る声は死神の冷気が漂うようだった。
「俺たちの旅は過酷だ。世界中を一二五日以内に回らなくてはならない。もしお前がただの足手まといなら必要ない。俺たちに必要なのは役に立つ仲間だ。興梠ミナト、お前にはその覚悟があるのか?」
漆間の意図は明らかだ。一二五日以内に六冊の魔本を揃えられなければ綾崎が死ぬ。そうならないためにミナトは命を掛けて旅をする覚悟があるのか、そして全くの他人である自分たちのためにミナトが命をかけられるのか、それを問いただしているのだ。
そして漆間は答えをもう出している。そんな事は無理だと。そしてそれが目の前の小男から吐き出されるのを待っていた。夜の静寂に包まれる部屋の中、綾崎の舌打ちが大きく響いた。もう行こうぜ、と口を開きかけた綾崎は、思わぬ言葉を耳にする。
「別にいい。僕はそれで構わない。だから僕も行く」
「おいおい正気かよ」
「ただし、僕にも条件がある。全てが終わったら、田沼は僕に返して欲しい。それぐらい構わないでしょ?」
ミナトには覚悟と自分の要求を通す打算との二つが備わっていた。そしてその覚悟すら要求に直結している。
漆間は田沼をちらりと見た。魔本の悪魔は細い目をつぶり、全てを受け入れる覚悟を決めているようだった。口元は笑っている。長髪の巨人はフッと笑う。
「いいだろう。興梠ミナト、お前は今日から俺たちの仲間だ」
「よろしく、漆間くん、綾崎くん」
ミナトは二人それぞれと握手を交わした。漆間は不敵に笑い、綾崎はまだ片眉を吊り上げたままだった。
「本当に大丈夫かあ?」
「精一杯やるよ」
ミナトはぎこちない微笑みを見せた。
「よし、行くか」
漆間が部屋から立ち去ろうとしたとき、ミナトが声をあげた。
「少しだけ待ってほしいんだ」
ミナトは二人にいった。
「もう、帰って来ないかもしれないから、旅の準備をさせてほしい」
「いいさ。もうなんでも」
「明日にはラスベガスに向かう。だから一時間で済ませろ。俺たちにも準備がある」
「ありがとう」
「準備は終わったな?」
ピッタリ一時間後、漆間はミナトに確認した。
「終わったよ」
「じゃあ行くか。田沼は本に戻っとけ」
「ではラスベガスで会いましょう」
執事服の悪魔はテーブルに広げられていた本に帰って行く。
ミナトは今日まで過ごしてきた我が家を見た。自分でも言ったがもう帰ってこないかもしれない我が家を。床には暴力警官二人のミイラがきれいに並べられている。床にこぼれていた赤ワインはきれいに拭き取られ、ボトルの中身も捨てた。カーペットの汚れは諦めた。
もうこれでこの部屋には未練はない。
三人は部屋から出た。ミナトはゆっくりとドアを閉じて行く。過去の自分に別れを告げるように。鍵をカチャリとかけ暗い廊下を突き進んでいった。
漆間夜一、綾崎京二、そして興梠ミナト。
この三人の出会いが全ての始まりであった。
三人がいなくなり静まり返った部屋にごそごそとうごめく者が一人。生命の尽き果てた枯れ枝のような腕で、懐からスマホを取り出す。指紋認証はもはや反応しない。震える指で四桁の数字を打ち込むと、死力を尽くして電話をかけた。プルルルルと、コール音が三度鳴り響く。
「もしもし、嶋野? どうしたの」
潤いを失った乾いた頬で暴力警官嶋野は薄く笑った。
「もしもし、ねえどうしたの? 返事なさい」
電話の向こうで嶋野の返事を探して女性が問いかけ続ける。
雨が降り始めていた。