黄昏の序曲 第二話前編 願いの魔法と悪魔の技術
「俺の母さんと妹たちに何をした?」
単身者用のマンションの一室、家主である興梠ミナトを含む三人のミイラが横たわる部屋の中で、漆間は魔本の悪魔、田沼を問い詰めていた。八年前に死んだ母と、四年前に死んだ双子の妹たちへの罪を問いただすために。
「答えろ田沼。母さんは三八歳で老衰で死んだ。妹たちはまだ一四なのにそれも老衰で死んだ。いくらなんでも普通じゃない!」
秋雨の時期に晴れた夜、十畳ほどの部屋に彼の怒気が充満した。採光用の小窓がカタカタと鳴らないのはむしろ不自然なことだった。
綾崎も漆間を抑える様子がない。物憂げな瞳を部屋の隅にやり、ただなりゆきを見守ろうとしているようだ。
一方田沼は執事服のタイを整え、丸メガネを中指の腹で持ち上げた。口元の微笑は崩さない。
「俺のこの左手、生命力を与える左手でも助けることはできなかった。なぜだ!?」
漆間は左手の手袋を半分外し田沼にそれを見せた。白く輝く左手は、暖かな光で包まれていてどこか癒しを感じさせる。しかし、柔らかで心地よい光は、今この場では最も相応しくないものだった。漆間は使い込まれた革手袋をつけ直し、湯気の立つような表情で続ける。
「お前のせいじゃないのか田沼! 俺の願いを叶える代わりにお前が妹たちや母さんの命を奪ったんじゃないのか!?」
激情に身を任せた漆間と、クールで理知的な漆間。どちらが本当の漆間か? それはこの場にいる者はみな知っている。
母が死んで以来、あるいは妹たちが亡くなって以来、漆間が溜め込んだものの全てが吐き出された。長身の彼は顔を紅潮させ、肩で息をしている。綾崎は何も言わなかった。口を真一文字にし天井を見やるばかりである。二人の目元にはキラリとしたものが光っていた。
漆間の数年にも渡る怒りと悲しみと疑念とを一身に受けた田沼はというと、食器棚からカップを取り出しインスタントコーヒーを淹れようとしていた。淡々と湯を沸かし、二つのカップと小振りな茶碗にインスタントの粉を振り分ける。
「何をしている」
「コーヒーを入れています」
田沼の答えは淡白にすぎた。口元には依然微笑をたたえている。
「笑うんじゃない」
「これは真顔です」
「馬鹿にしているのか!」
田沼の微笑が漆間の感情を逆なでる。右手の手袋を素早く脱ぎ去ると死を感じさせる黒い手が現れた。見るだけで暗い気持ちを呼ぶような手だ。床に横たわる三人のミイラを生み出したのはこの右手である。その闇を纏った手で田沼に掴みかかろうとした。しかし間に綾崎が立ち塞がった。
「落ち着け、漆間」
綾崎は右手を避けて慎重に止めに入ったが、漆間の怒りはおさまらない。
「どけ綾崎! 邪魔をするな! 俺は家族を失ったんだ。母さんも妹たちも、それに父さんも!」
「親父さんは生きてるだろ」
「あんなのは生きてるとは言わない! ただ酒に溺れて死んでいくだけだ!」
「それでも俺の家族よりましだ」
漆間はハッとした。綾崎は漆間の両肩を掴み、真っ直ぐに彼を見つめている。
「すまない、そんなつもりじゃなかった」
綾崎は別にいいさ、とウインクし肩から手を離す。
「漆間さん、綾崎さん、コーヒーが入りましたよ」
田沼は二つのカップと一つのお茶碗に入ったコーヒーをテーブルの上に置いた。
「何のつもりなんだ?」
今度は綾崎が聞く。ふざけているとしか思えない。まさか漆間の質問に答えすらしないつもりなのか? 茶碗にコーヒーなんか入れやがって。綾崎が憤りをぶつけようと再び口を開こうとしたとき、田沼は綾崎の唇に人差し指をあて、それを封じた。
「少し、長くなります。私はあなたたちに落ち着いて聞いてほしいのです。そのためにはほら」
田沼はコーヒーを指差した。
「コーヒーが一番です」
「俺が茶碗かよ」
「すみません。カップは二つしかないですし、これは私のカップです」
言われて綾崎は辺りを見渡した。食器棚にどんぶりが二つ、お椀が二つ、箸が二膳。ダイニングには椅子が二つに小さなテーブル。よくよく見るとこの部屋の家具や食器類などは二人での生活を想定しているようだった。きっと洗面台には歯ブラシとコップが二組あるだろう。
右手に手袋をはめ直した漆間は田沼に問い直した。
「話して貰おうか。俺の家族に何が起きたのか」
コーヒーをすする音がその場を支配する。田沼は鼻腔を抜けるコーヒーの香りを楽しんでいた。
「最近のインスタントは質がいい。戦前はコーヒーを手に入れることすらままならなかったのですよ」
漆間と綾崎は同時に思っただろう。見かけは二十代後半のように若いが、思考がかなりジジくさい。整った身なりに不自然な庶民志向。田沼の若い外見と彼の積み上げた経験とが、対面したものに強烈な違和感と不可思議な親しみを覚えさせた。
「さて、本題に入る前に一つお願いがあります」
「お前、お願いできる立場だとおもってるのか」
突っかかる綾崎を漆間は右手で制した。一杯のコーヒーのお陰か、彼は完全に元の冷静さを取り戻している。
「なんだ?」
田沼のお願いは予想だにしないものだった。
「私が全てを話し終えた後、そこに倒れている興梠ミナトを元に戻して欲しいのです」
田沼はカーペットの上でPCチェアに括り付けられた上、椅子ごと倒れてミイラになっている興梠ミナトを指差した。三人の話す部屋の家主であり、先ほど漆間がミイラに変えた男であった。
「なんだそりゃ?」
綾崎は疑問の声を上げ、漆間は微笑を崩さない田沼を訝しんでいる。不足を感じた田沼は説明を加えた。
「友人をミイラにしたまま床の上に横たわらせたままというのは忍びないのです。かといってこれからする話を彼には聞かせたくない。だから話を終えたら元に戻してやって欲しいのです。その後でなら私のことはどうして頂いても構いません」
彼の語るごく普通の自己犠牲は人間が語るなら美しいものだった。しかし語り手は悪魔である。漆間と綾崎は喉に小骨が刺さるかのような違和感をおぼえた。しかし、数秒の葛藤の末、漆間はこの条件をのむことにした。どうせ彼は元に戻してやるつもりだったのだ。断る理由はない。
ありがとうございます、と漆間に言ったあと田沼は額に人差し指を当てて少し悩み始めた。
「さて、何から話すべきでしょう」
「俺の母と妹たちの死について、だ」
「物事には順序があります。美味しいコーヒーを淹れるにはまず豆を選び、焙煎し、ブレンドします。そしてそれを挽いて淹れる。どれか一つでも順序が狂えば美味しいコーヒーは淹れられません。同じように、話す順序を間違えてしまうと正確な事実が伝わらないかもしれません。ですから……」
田沼は丸メガネをクイっと持ち上げた。
「まずは私の魔法についてお話ししましょう」
「綾崎さん、あなたが私に十年前、なんとお願いしたか覚えていますか?」
田沼は突然綾崎に話をふった。メガネの奥のキツネ目はまっすぐ綾崎を見つめていて、口元にはやはり微笑をたたえている。
「もちろん、忘れもしないね。俺は「家族から自由にしてほしい」と願ったよ」
「その願いは叶いましたか?」
「んー、おかげさまで」
二人は田沼の意図をはかりかねていた。今更なんの確認なのだろう。尋ねられなくとも二人の願いは完全に叶えられている。漆間にとって問題はそこではないのだ。
「何の話をしている?」
漆間の質問を田沼は鮮やかに無視をし綾崎への質問を続けた。
「願い以外に何か変わったことはありませんか?」
「変わったよ? 妙な力が使えるようになった」
パチンッ
綾崎が指を鳴らすと目の前に置かれたなみなみとコーヒー注がれた茶碗が一瞬消えた。そしてすぐに田沼のカップの横に現れる。中身のコーヒーもそのままだ。
「俺は物や人を瞬間移動させることができる。そしてやはり茶碗でコーヒーは飲めん」
「そう、それです」
「?」
「綾崎さん、あなたは願いの他にも特別な力を身につけてしまった」
「何が言いたいんだ?」
「私の魔法は完璧じゃないのです」
田沼は漆間の方に向き直った。気づくと夜空の星は翳り、今にも降り出しそうな曇り空になっていた。
「私は魔法で人の願いを叶えるとき、その人に特殊な能力を残してしまうのです」
田沼の言うことを要約するとこういうことらしい。
田沼は人の願いを叶えることができる。しかし未熟なせいか、叶えるときに余計な効果、つまり副作用のようなものを残してしまう。そのせいで魔法で願いを叶えた人間は特殊な能力を身につけてしまうというのだ。
「つまりなにか? 俺の瞬間移動させる能力は田沼、お前のミスで身についた能力だってことか?」
綾崎は冷蔵庫の中を物色しながら疑問を口にした。田沼はそれに直接は答えず遠回りをする。
「薬というものは風邪を治したり、頭痛を止めたり、あるいはガンの進行を抑えたりといった良い効果がある一方で、胃腸の調子を崩したり、髪が抜けてしまったりといった悪影響が出てしまいます。これが副作用」
田沼はカップを指で弾いた。鈍い高音がキーンと鳴る。
「魔法も同じです。人の願いに対してその願いは叶いますが、余計な能力を残してしまいます。大抵の人の場合、綾崎さん、丁度あなたのように非常に便利な能力が身につきます。しかしそれはその人にとって便利な能力であることには違いないのですが、私の意図したことではありません。だから人はそれを超能力と言いますが、私は副作用と呼んでいます」
「便利なのに副作用? そんな悪いように言わなくたっていいじゃねえか。現に俺はこの力を気に入ってるぜ」
綾崎は指を鳴らすマネをする。
「人にとってはそうかもしれません。例えば私が過去に願いを叶えた者の中には空を飛んだり、狼に変身する能力を身につけた者もいました。確かに彼らは喜んでいましたが、私にとってそれが身に付いてしまったことは失敗以外の何物でもないのです」
残念だといった風に首を横に振り、またカップを指で鳴らした。
「誓って言いますが」
漆間に向き直ったキツネ目はそれまでになく真剣であった。ただ笑顔はそのままに。
「私は敢えてそのようなことをしたのではないのです。私はあくまで人の願いを叶えたかっただけで、副作用で能力が身についてしまうのは本意ではありません。どうかそれだけはご理解頂きたいのです」
二人の前で悪魔は頭を下げた。二人の心に稲妻が走る。悪魔に似つかわしくないその姿に、綾崎は食器棚のワイングラスを触る手を止め、漆間は膝の上に置かれた手を握りしめた。
「それはわかったからもういい。俺はこの両手に苦労したし、助かりもした。だから……いい」
「俺も別に構わないさ」
革手袋をした右手で、田沼に頭をあげるよう促す。ほんの短い間だったが、彼はなぜか悪魔が頭を下げる姿を見ていられなかった。その気持ちがどこに由来するものなのか、自分でも分からないでいる。
「それよりも、その話が俺の母と妹たちの死になんの関係があるんだ」
もう声を荒げるようなことはしなかった。ただ、はやく田沼から真実を知りたくて、彼は初めと同じ質問の答えを待った。
「漆間さん、あなたの能力はその両手。黒い右手で生命力を奪い、白く輝く左手で生命力を与える。右手で掴まれた者は老いていき、左手に触れられた者は若さを取り戻す」
「その通りだ」
田沼は漆間の能力を正確に言い当てた。当然といえば当然なのだが。確かに革手袋の下の両手は生命力をやり取りすることができる。その能力を持った黒い右手のために、床に転がる三体のミイラは生み出されたのだ。
他に右手で触れたものの体力を奪い、左手で疲れを癒すこともできるが、言わずとも田沼は分かっているだろう。
「それだけではないのです」
「なんだって?」
「漆間さん、あなたにはもう一つ能力があるのです。非常に強力で、深刻な能力がもう一つ」
メガネ越しのキツネ目の眼力はそれまでにも増して強く、絶やすことのなかった口元の微笑すら消えている。綾崎はワインをグラスに注ぎながらも田沼の次の言葉に集中し、漆間は生唾を飲み込む音が聞こえそうなほどに緊張していた。これまでの何よりも深刻な真実が田沼の口から吐き出されようとしている。
「漆間さんに与えてしまったもう一つの能力は『最も信頼する人の寿命を奪い続ける』というものです」




