不夜城の怪人 第三〇話 ディヒューマナイザー 2
「おや、起きたかい? ハンス」
こびりついた目ヤニを擦り取るようにして目を開けると、パパが優しく微笑みかけていた。ずいぶん長い間眠っていた気がする。
「おはよう」
そう言ってパパは白い髪をかきあげた。僕とおんなじ雪のように真っ白な髪。僕とパパがちゃんと血が繋がっている証みたいで僕はこの髪が好きだった。僕の髪が真っ白になったのは何才のときだったろうか? 確か八才の誕生日にパパに起こしてもらったときにはもう白かった気がする。そういえば……
「ママはどうしたの?」
もう何年もママの顔を見ていない気がするのはどうしてだろう。
「ママはね、ちょっとおでかけしてるんだ。すぐに帰ってくるよ」
パパはそういうと、僕のパジャマの袖を捲り上げた。肘の内側には針が刺さっていて、そこからチューブが伸びている。パパがいうには僕は病気らしい。だから子ども部屋でおとなしく寝てないとダメなんだって。
パパはチューブの先についている何だか甘そうな色をした水が入ったポリ袋を交換する。今、繋がっているのは中身が空っぽになっちゃったから取り替えるみたい。新しいのは綺麗なピンク色の透明な水が入っていた。何だかとっても美味しそうだ。食べたいなぁ。
ピンク色の水がチューブを伝って流れてくる。ゆっくりと降りてくる水を見ていると、何だか寂しくなってくる。どうしてだろう?
ピンク色の水が僕の身体の中に入ってきた。身体がフワフワと夢の中を泳ぐような気持ちになってくる。まぶたが急に重たくなった。眠いのかな? だけどあんなに眠っていたのに?
ふいに僕はパパにお願いしてみようと思った。
「あのね、僕ね、お外でね……、遊ん、で……みたい、の……昔、みたい、に……」
眠ってしまうまでのほんのすこしの間、僕が見たパパの顔は何だか、何だかとっても怖かったんだ。悪魔が笑いかけてるみたいで……
漆間くんの借りたスイートルームに三人はいた。ソファにどかっと腰を掛けた中年で小太りの男がテーブルのメロンを頬張る。みずみずしい音を立ててメロンは男の口に消えていった。その様子を小柄で華奢な僕は膝に握りしめた手を置いて眺め、丸メガネの男は脚を組んで微笑んでいる。
「『願い』を叶えられんとはどういう意味だ?」
男はメロンの皮を放り投げた。高価そうな絨毯の上を湿ったそれが鈍い音を立てて転がっていく。メロンの汁がべっちゃりとこびりつき、掃除するのが大変そうだ。
しかしそんなこと微塵も気にせず、小太りの男、テオ・ランベルティは質問を繰り返す。
「お前が田沼だろ? 『願い』を叶えないとはどういう意味だと聞いている」
「それは……」
「てめえは黙ってろ、三下が!!」
僕が口を開こうとすると、テオは温厚そうな外見からは信じられない剣幕で僕を怒鳴りつける。そして刺すような視線でつけ足した。
「これは大人の話さ。バンビちゃん」
顔が沸騰したように熱くなる。いくらなんでもあんまりだ。子どもっぽく見えるからって僕はもう成人している。
「なあそうだろ? 田沼さんとやら」
そこで初めてただ脚を組んで黙っているだけの田沼の方を見た。彼はいつにもまして何を考えているのかわからない。そもそもテオの『願い』をできないと突っぱねたのはこの悪魔なのだ。
「俺は漆間の野郎と契約したんだ。この興梠とかいうガキを見つけることができりゃあ、『願い』を叶えてやるってね」
高価そうなエメラルドの指輪をした太い指がこちらを指す。
「で、俺ァみごと見つけたワケだ。なんで約束を守っちゃくれねえ?」
ひとしきり言いたいことを言い終えると、テオはフンとソファに座りなおした。何を言われても反論できるよう構えているようにも見える。
ただ微笑むだけだった田沼は初めて口を開いた。
「その漆間さんはどこですか?」
「さあな、グランドキャニオンに呼び出されてから連絡がない。多分殺されちまったんだろ。よくあることだ、気にするな」
「死んだ!?」
テオはギャっと目をつむり耳を塞いだ。
「漆間くんが死んだだって?」
「知るかよ。アジア人の女に手紙で呼び出されて行っちまったんだよ。ちったあ心当たりがあんだろ。あとで監視カメラの映像を確認したが綺麗な女だったよ。あの野郎もあんな美人に殺されて本望だろうさ」
綺麗なアジア人の女? 全く心当たりがない。
「綾崎さんはどこです?」
田沼のふたつめの質問はテオの意表をついたようで、彼は一瞬拍子抜けしたように目を見開いた。
「そういえばあいつはどこいった? 漆間がグランドキャニオンに行ったのも、元々は綾崎が拐われたからだったはず……。――まあ関係ないね、俺には。いいからさっさと『願い』を叶えなよ」
テオは短い脚を組み、招き寄せるように田沼に向かって手を開いた。『願い』を叶えてもらうのか、叶えさせるのか。それはホテル王としての彼の経歴がそうさせるのか。
しかし田沼はそれに無関心だった。
「お教えしましょう。綾崎さんは今、日本にいます」
「日本?」
僕とテオの疑問の声は同時だった。
「なんで帰ってるの?」
「そして漆間さんは……」
パチンッ
田沼が指を鳴らすと、いつの間に持っていたのか、地図が現れる。細長い指でそれを拡げると、北緯三七度……西経……とつぶやき、地図上の一点を指し示した。
「ここです」
不敵な笑みを浮かべる悪魔以外の二人が地図をそっと覗き込む。細長い指は青白かった。
「本当にここか?」
「ええ、私にはわかるのです。漆間さんはここにいる」
テオの唇は震えていて、額からは汗が一筋垂れている。
「やっぱり関わりたくねえ。今すぐ『願い』を叶えてくれ」
視線を切ると、もといたソファにどかっと腰を沈めた。貧乏ゆすりが止まらない。田沼の示す座標を確認してから、テオの様子が何かおかしい。
「ちょっと待ってくださいよ。ここって何ですか? 砂漠かなんかにしか見えませんけど」
「うるせえ! そこには触れちゃいけねえんだよ! ――場所がわかるってぇから探してやってもいいかと思ったのに、よりにもよってそこかよ。俺はぜったい関わらんぞ。探すならてめえらで勝手にしな!」
貧乏ゆすりは激しさを増していく。組んだ腕の上腕を人差し指でいらいらと何度も叩いている。曲がりなりにもホテル王、ラスベガスの影の帝王と呼ばれるテオである。警察権力を掌握し、FBIの干渉すらテオの目の届かないところでは起こらない。彼がタクトを左右すれば、それに従ってこの街が動く。
そんな彼が怯えている。関わるのを恐れている。一体ここには何があるのか?
「テオさん、教えてください。田沼の指すところには何があるのかを。関わってくれとは言いません。ただ教えてくれるだけで構わない。でなければ僕は漆間くんを助けにもいけない」
僕はテオの、怯えたホテル王の、両目を真っ直ぐ見つめた。彼のふたつの目はいらだちに歪み、額からは流れる汗は焦りと緊張を伴っている。
僕は助けなきゃいけないんだ。アレックスの仇を討つためにも、「彼」を殺すためにも。どうしても漆間くんの力が必要になるはずだ。
「……そこはグルーム・レイク空軍基地という。アメリカ空軍が駐屯し、軍の科学者連中が日々研究を行なっている基地だ」
テオはためらいながらも、打算の末、話しはじめた。
「その顔はピンときていないな? そりゃあ日本人は知らねえかもしれんね。だがネヴァダ州の人間は皆知っている」
「何をですか?」
「グルーム・レイク基地には別の呼び名があると言うことを、だよ」
「別の呼び名?」
といかけるとテオはもったいぶるようにひと呼吸ためた。
「知らんかね? “エリア51“という名前を」
いつも通りに点滴を交換し、我が息子ハンスは眠りに落ちた。一瞬目を覚ましたのは驚いたが問題はない。妻のモニカはこの部屋には入ってこない。彼女はハンスが昏睡状態に陥っていると思っているし、そのことで心を痛めている。彼女はまさか自分の夫が息子を意図的に白雪姫のように眠らせているとは気づくまい。
モニカは「彼」にとって都合のいい女だった。付き合っているときも、結婚したあとも、うちに警察を名乗る軍人が訪ねてきたときも、彼女は「彼」の思い通りに動いてくれた。それも彼女自身はそうと気づきもせずに。唯一の誤算は妊娠したことだけだった。だがそれもしかし……
「モニカ、君が私にしてくれたことの中で、特に素晴らしいのはハンスを産んだことだよ」
「彼」はその場にいない妻に向かって語りかけ、ハンスの雪のように真っ白な髪をそっと撫でた。
突然、視界がぐるんと反転する。自分の腹の中をくぐり抜けるような気味の悪い感覚が「彼」を襲う。そして目の前がひらけると、「彼」はベッドに寝転がっていた。
目の前に見えるのは、雪のような真っ白な髪に、少し高めの背には痩せ気味の身体つきの男である。痩身の男は虚ろな半目を開いて立ち尽くしている。それは「彼」自身の身体だった。
しばらくすると、「彼」の痩せた身体はゆっくりと床へと崩れ落ちた。ドスンという音が鳴ると、「彼」の身体は糸が切れたマリオネットのように倒れている。ハンスの手が横たわった「彼」に伸び、その真っ白な髪に触れた。
また腹の中を通り抜けるような不快感が駆け抜ける。ひらけた視界の中にはハンスの横たわるベッドの脚が写っていた。
「彼」は立ち上がった。
「ハンスは私のモノだ。私だけのモノだ。誰にも渡さないし、決して誰にも教えない。この秘密は私だけのモノなのだ。計画にハンスは不可欠だ」
ゴート計画。山羊の名を冠した血塗られたワルツ。三拍子はハンス、イザーク、そして「彼」によって紡がれる。その牧童の踊るような陽気な旋律は赤い五線譜にのせられていた。
「彼」はどこから取り出したのか銀仮面を身につけた。
「いざゆかん、フリーモントストリートエクスペリエンスへ。今宵も新しい能力者を産み出そう。……そこに彼も来てくれればいい。私の新しき友、興梠ミナトよ」
風に吹かれたロウソクの火のように、「彼」の身体がゆらめくと、フッと消えた。あとには眠り続ける幼いハンスだけが残される。ハンスは羊だった。「彼」があの男に捧げる犠牲の羊だった。
カチャカチャっと、ドアの方から音がした。テオは振り向く。田沼も僕も振り向いた。
「なんの音でしょうか?」
「さあな、空き巣だろ。だがあの扉は開けられねえ。俺のご自慢のスイートだからな。セキュリティは最高レベルさ」
テオは自信満々にそう言い切り、田沼はいつも通りに笑っているだけだった。
「それより続きだ。田沼が、漆間がいると指したエリア51だが……」
ガチャンと錠が開く音がした。華麗な装飾のなされた重たいドアが、ぎこちない音をたてながら開いていく。
「おいおいおい! なんでカギが開いちまうんだ? あのカギは完璧なはずだぜ?」
全員が開いていくドアに釘付けになっている。そこから姿を現わすのは何者か? 敵か、味方か?
「漆間を助けて!」
甲高い声が響き渡る。
「あんたたち漆間の友だちなんでしょ!? お願い、拐われちゃったの!」
ドアから飛び出したのは少女だった。光り輝く黄金の髪に、幼く華奢な身体、そしてそれに釣り合わない大人びた力強い目。
「何者だガキ、土足で人の部屋に入り込みやがって。名を名乗れ!」
テオの怒号にピクッと肩を震わせた少女は迷ったように口をパクパクさせたが、やがて意を決したように拳を握りしめた。
「わたしはリタ・シュミット。漆間の友だち。お願い、漆間が空軍に拐われた」
視線の端で田沼が得体の知れない笑みを浮かべた気がした。




