黄昏の序曲 第一話後編 願いの悪魔の名は田沼
第一話の後編です。
紫の空の下、探偵事務所を出た漆間と綾崎は、事務所の近くのコインパーキングに来ていた。
「お前、止める時も言ったけど、本当にこの車こんなとこに止めていいのか?」
「仕方ないだろう。これしか車持ってないんだ」
黄色いクラシックな車だ。二人は車に乗り込んだ。キーを捻りエンジンをかけると、座席の後部から唸り声のような重低音が響いてくる。ペダルを踏むとゆっくりと車は動き始めた。少しずつ走り始めた車は、道路の白線を、街路樹や街の景色を次々に後ろへと追いやっていく。立つよりも椅子に座るよりも低い視界から見える景色は普段よりも大きく感じられた。
「しかしよう、この二十一世紀にランボルギーニミウラなんてよく見つけたなあ。どんだけ金持ってるんだよ」
右側の助手席から綾崎は冗談めかして聞いてきた。それに対して漆間の答えはやや素っ気ない。
「生きるのに必要なだけ」
「またそれか、お前の人生はコスパが悪すぎる。俺にも少しは分けろ」
「この十年間、誰の金で生活してたと思ってんだ?」
漆間の反撃に意地の悪い笑顔を浮かべた綾崎はこう宣うた。
「もちろん漆間さまのおかげです。たいへん感謝しておりますとも」
「分かればいい」
漆間はハンドルをゆっくりと切った。
「冗談はさておき、実際問題どれくらい金もってんだ? 昔からお前は言わなかっただろ」
綾崎の本題はこれだったのかもしれない。
「いくら持ってても仕方ないさ」
漆間は夕日を避けるように目を細めた。
「?」
「本当に大切なものは金じゃ買えない」
ミウラも金だけじゃ買えないがな、漆間は心の中で付け加えた。
「はんっ、そうかもな」
綾崎の静かな同意はエンジン音にかき消された。
完全に日が落ちた。ミウラのライトをつける。ヘッドライトが車体からせりだされてくる。運転席から見える景色が少しだけ照らされた。
「田沼に会うのは十年ぶりだな」
昔を懐かしむような、同意を求めるような口調で綾崎は田沼の名前を口にした。
もう十年も前なのか。
「漆間、懐かしいだろ?」
「少しな」
「俺もそうだ。あのときはお互いまだ十歳だったからなあ」
「そうだな」
「あのとき俺たちは田沼の願いの力で、俺は自由、漆間はとんでもない大金を手に入れた。いくらなのか教えちゃくれないけどな」
「……」
「そして、妙な力も手に入れた」
綾崎は指を鳴らすマネをした。だけど鳴らさない。漆間はハンドルを強く握りしめた。
「ガキのころが懐かしいぜ」
綾崎は目を閉じていた。思い出を瞼の裏に映しているのだろうか。この男のする仕草はいちいち映画俳優のようで格好が良かった。それは漆間がひっくり返っても手に入らない美点である。
漆間と綾崎が願いの魔本の悪魔、田沼に願いを叶えてもらったのが十歳のときだ。あれからもう十年経っている。当時の自分とは随分変わってしまった。そして変わってしまったのは自分だけではない。
「戻りたいのか? あの頃に」
漆間は悪戯っぽく聞いてみた。これはいささか彼らしくないセリフだ。そのらしくないセリフに綾崎は少しも悩まずにこう答えた。
「いや、今の方がいいね。なにせ楽しいことができないからな。ガキのカラダじゃ女も抱けない」
「言ってろ」
慣れないことは言うもんじゃない。ウインクして言う綾崎を見てそう思った漆間は彼らしくもなく少しにやけていた。
「漆間はどうなんだ? 戻りたいか、あの頃に」
漆間の脳裏に父の姿が浮かんだ。泣いている父の姿だ。怒りと哀しみが複雑に絡み合い、顔を覆って涙を隠している彼の父は言った。
―——お前は生まれてくるべきじゃなかった。
慣れないことは言うもんじゃない。再び漆間は思った。気軽な気持ちで聞いた綾崎はあからさまにしまった、という顔をしている。
「分かってるだろう」
戻りたいさ。
これは言わずとも綾崎に伝わることだった。
「そういやあ、これから興梠ミナトとかいう奴の家に田沼を迎えに行くわけだが」
綾崎は話運びはやや急だった。やはり彼は切り替えが早い。
「興梠ミナト本人はどうするんだ? 奴の部屋に行く以上、居ることもあるんじゃないか?」
もっともな疑問である。田沼の潜む魔本を手に入れるのに「興梠ミナトの部屋」へと忍び込むわけだが、そこに家主がいないとは限らない。これに対して漆間は短く答えた。
「眠ってもらう」
「眠って、ね」
訳ありげに綾崎は目線を逸らした。
「田沼には聞かなくてはならないことがある」
綾崎の表情に暗いものがさす。無理もなかった。
綾崎はあえて田沼を「迎えに行く」と表現したが、実際には彼らは田沼の潜む魔本を「盗みに行く」のだ。そう、彼らはこれから魔本を盗みに行く。「興梠ミナトの部屋」へ。住居不法侵入に、窃盗、つまりは犯罪である。漆間も綾崎も、正当防衛はあっても犯罪に手を染めたことはなかった。そして興梠が在宅なら罪はより大きなものとなるだろう。
しかしこれから罪を犯しに行く。魔本の悪魔、田沼に真実を聞くために。
「覚悟はできてるさ」
綾崎は漆間にウインクした。
「チッ、いいところに住んでいやがるぜ」
興梠ミナトのマンションはそれなりに立派だった。単身者用のマンションであり外観は黒を基調として落ち着いた雰囲気だ。あたりには観賞用の樹木が植えられ、心なしか空気が澄んでいる気がする。築年数も若そうだった。
「文具メーカーの営業ってのはそんなに儲かんのかねえ」
「知るか、大したことない」
「金持ちは言うことが違う」
「しつこいぞ。それよりも見ろ、オートロックだ」
エントランスは白中心の大理石で、オートロックのガラス戸で仕切られている。汚れの目立つ色にも関わらず、くすみ一つないのは掃除が行き届いている証拠だ。興梠ミナトの部屋にたどり着くにはこの荘厳かつ厳重な門扉を突破しなければならない。
「フン、そりゃもう俺の出番ってもんですよ」
自身満々に言い放つと、綾崎はガラス戸の向こうに見えるエレベータの少し手前あたりを見つめ始めた。
パチンッ
綾崎が指を鳴らした。まぶたを瞬かせる程の刹那の暗闇。気がつくと漆間はエレベータの前にいた。
「おーい、開けてくれ」
彼が振り返るとガラス戸の向こう、大理石のエントランスで綾崎が大きく手を振っている。漆間はいつの間にかオートロックの内側にいた。
「どうよ?」
内側からオートロックを開けてやり、綾崎を迎えると彼は自慢げな声を投げかけてきた。
「まあまあだな」
「照れちゃって」
「行くぞ」
エレベータの中で探偵から貰った資料を見ると、「興梠ミナトの部屋」は五階の一番端、五◯一号室にあるらしい。角部屋かよ、と綾崎はまたぼやいている。
ピンポン、五階です
エレベータの無機質な案内音声が到着を告げた。「興梠ミナトの部屋」は一番右端である。
「暗い廊下だな」
綾崎がポツリと呟いた。確かに暗かった。それ以降、先ほどまでのくだけた空気はなくなっていった。照明の少ない薄暗い廊下には彼ら以外には誰もいない。エレベータから部屋までの短い廊下を歩く間、自然と二人は口を開かなくなっていった。コツ、コツ、という二人の足音だけがほの暗い空間で静かに響いている。響く足音は胸の鼓動を一歩一歩と否応なしに早めていく。
はじめに気づいたのは綾崎だった。
「なんか変だぞ」
綾崎が指をさしたのは廊下の照明である。明かりはついていない。
「それがどうかしたのか?」
「よく見ろよ」
漆間がもう一度見ると、LEDライトがソケットから外されている。偶然外されてしまったというより、何らかの意図を持って人為的に外されていた。廊下は暗かったのではない。暗くされていたのだ。
誰が? なんのために? 胸騒ぎがする。
探偵の言葉が脳裏をかすめる。「興梠は二人組の男に監視されています。おそらく公安に」
「走るぞ!」
漆間の声に応じることなく、綾崎は走り始めていた。二人同時に五◯一号室の前にたどり着く。ドアノブをひねった。…鍵が開いている。勢いよくドアを開けると中の様子が明らかになった。
どれくらいの間殴り続けられていただろうか。コンポから流れるCDアルバムはすでに三周していた。ミナトの黒く大きな目はパンパンに腫れたまぶたに覆い隠され魅力を半減している。サラサラの髪は乱暴に引っ張られ無造作を通り越し嵐が通り過ぎたようである。筋の通った鼻の骨は折れ、二本の赤い筋が痛々しい。ミナトは全身に満遍なく殴打を受け、赤くなっていない箇所はなかった。
度を越した暴力にオールバックとレスラー風は満足したのか、幸福感とともに本来の仕事に戻っていた。すなわち興梠ミナトの誘拐だ。
ミナトは自室にあったPCチェアに座らせられていた。口はガムテープで封じられ、身体は延長コードでチェアに括り付けられている。彼は無意味で凄惨な暴力に耐え、二人組のサディストの嗜虐心を満足させたが、それも結局は徒労であった。二人組はミナトを解放することなく、そのままどこかへ連れ去ってしまうのだから。
ミナトにとって唯一の救いはオールバックとレスラー風に願いの魔本「堕天使の懺悔」が見つからなかったことである。彼は魔本の悪魔、田沼をなんとか守りきることができたのだ。しかし、疑問も残る。それでは一体どうして自分は連れ去られようとしているのか?
オールバックとレスラー風はミナトの部屋に来てから魔本については一度も何も言わなかった。『能力』について少し触れたぐらいである。そして彼らはミナトを拘束したあとも部屋を物色したり、それについてミナトに尋ねたりもしなかった。ただただ、ミナトをどこかへ連れ去ろうとしている。
どうでもいいか、そんなこと。
不意にミナトの心の中に諦めに似た感情が満たされた。
僕は田沼を守れたし、自分も死ななかった。だからもういいじゃないか。僕がこれからどこへ連れ去られたってどうでもいいじゃないか。
それはミナトの本心であったが、彼の通常の思考でもなかった。長く続いた暴力の中で、死という緩やかな坂をゆっくりと下っていくような諦めが彼の傷ついた身体に染み渡っていたのだ。
「さて、行こうか興梠君? 警察は君を首を長くして待っている」
オールバックはミナトのボロボロの肩に手を掛け微笑んだ。レスラー風はPCチェアの背もたれをがっちり掴んでいる。もちろん、ガムテープで口を塞がれたミナトはうんともすんとも言わなかった。
ゆっくりとミナトを乗せたPCチェアは進む。
さよなら、田沼——―
ミナトは心の中で友人に挨拶を済ませた。
これで後悔はない、諦めを含んだ覚悟を決め、二人組に連れ去られることを甘受した。
この部屋を出たらたぶんもう僕には自由はない。そう思うけれども仕方ない。仕方ないんだ。だけど、この部屋の家賃高かったからなあ、それを払わなくて済むと思えばちょっと気が楽だな。
ミナトは心の中に整理をつけ、ゆっくりと目を閉じ縛り付けられた椅子に身をゆだねる。そしてカラカラと転がるチェアのキャスターが部屋に不釣り合いな小ささのカーペットから出ようとしたとき、突然事態は動き始めた。
ドアが突然開いたのだ。玄関の向こう、薄暗い廊下側に二人の男が立っていた。一人は長髪の男、もう一人は茶髪の男だ。ミナトは事態が飲み込めない。突然現れた長髪と茶髪は何者だろうか? オールバックとレスラー風の仲間であろうか?
「ギリギリだ…!」
内開きのドアを開いた長髪の男が叫んだ。
「なんだてめえら!」
レスラー風は地響きするような大声で叫んだ。オールバックは二人組を訝しんでいる。どうやらこの長髪と茶髪の登場は二人の暴力警官にも予定外のことらしい。レスラー風の怒号は意に介さず、長髪は素早く右手の手袋を脱いだ。
「……!」
思わず息をのむ。長髪の手袋の下からでてきたものにミナトは背筋に冷たいものが流れるのを感じた。
現れたのは黒い手。ただ黒いのではない。その手は闇を纏ったようであり宇宙の深淵のようであり、そして死を身近に感じさせるように黒い手だった。
「綾崎!」
「わかってる!」
綾崎と呼ばれた茶髪男はすでに指を構えていた。
パチンッ
茶髪の男、綾崎が指を鳴らすと、長髪男は玄関から消えた。どこに行ったのか? ミナトが探すと、隣から驚きの叫び声が聞こえてきた。
「てめえ、なにしやがる!」
見るといつの間に移動したのか、長髪の男がオールバックの顔を黒い右手で鷲掴みにしていた。オールバックの中で驚きから怒りへ振り子が移ろうかというその瞬間——―
ズキュゥゥゥン!
突如オールバックの表情から生気が失われた。時間にして二秒だろうか、みるみるうちにオールバックは若さを失い、半世紀ものときが経たような老人の顔に変わっていく。そして遂にオールバックは萎れたゴボウのように細く枯れた肉体になってしまった。
「うわぁぁあ!」
ミナトは叫びたかったが口が塞がれていて叫べない。では耳に鳴り響く恐怖の叫びはどこから発せられているのか? 叫び声をあげたのはレスラー体型の短髪だった。みるみるうちに老人に、あるいはミイラになっていく相棒に、自分の中の恐怖心を隠しきれなくなっている。気づくとレスラー風はがっしり掴んでいたPCチェアを離していた。
「綾崎!」
オールバックを哀れなゴボウのように萎れさせてしまった長髪はまだ玄関付近にいる綾崎という茶髪に大声で呼びかけた。
「てめえ『死神』だな! よくもこの野郎!」
恐怖心と敵愾心との均衡に折り合いをつけたのか、レスラー風の目には怒りの炎が燃え上がっている。右腕を大きく振りかぶると、ミナトを縛り付けた椅子を押しのけ、ミナトの頭ほどもある大きな拳を長髪の方へと繰り出していた。レスラー風に押しのけられた椅子はミナトを乗せたままゆっくりと倒れていく。
「死神このヤロぉぉお!」
パチンッ
ミナトは倒れゆく椅子に座ったまま見ていた。「死神」と呼ばれた長髪が姿を消し、レスラー風の巨拳が空を切る様を。
空ぶったレスラー風はよろつき、親鳥を見失った哀れなひな鳥のように辺りを見渡した。
「こっちだ」
死神はいつの間にかレスラー風の後ろに移動していた。呼ばれて振り返ったレスラー風の顔は戸惑いよりも怒りに満ちている。死神はさっきと同じように黒い右手でレスラー風の顔を掴んだ。
ズキュゥゥゥン!
「ぬぐをぉぉぉぉお…!」
オールバック同様、レスラー風も生気を失っていく。岩石のように厚かった胸板は、突けば割れるベニヤ板のように薄くなり、巨木のようだった脚は哀れな枯れ枝のように細くなってしまった。
ミナトを乗せた椅子はカーペットの上に倒れた。
「終わったか」
ヤクザ警官二人の枯れ枝のように細く衰えた肉体を見下ろし、長髪は呟いた。
「んんぅ……」
突然聞こえたうめき声に長髪はどう思ったのだろう? しかしそれはうめき声ではない。口を塞がれたままミナトが出した、声にならない助けを求める声だった。死神と呼ばれた長髪は振り返ってミナトを見た。PCチェアに延長コードで縛り付けられ、さらにはそのチェアごと床に倒れているミナトを見た。死神の見た顔はボコボコで原型を留めず、折れた鼻から垂れた赤い筋は口を封じたガムテープ上で左に曲がっている。ミナトの腫れたまぶたから覗く目は真っすぐに死神の瞳を見つめていた。彼は期待したのだ。暴力警官二人を瞬く間に打倒したこの長髪男が自分の味方であることを。窮地に陥った自分に遣わされた救世主であることを。ミナトはすがるような瞳で「死神」を見つめた。しかし――
「眠ってろ」
死神はミナトの顔を掴むとほかの二人と同じようにミナトを干からびたミイラに変えた。興梠ミナトは椅子に縛られたまま眠るように意識失ってしまった。
「終わったかあ?」
玄関に控えていた綾崎が気の抜けた声でリビングに入ってきた。
「うわ、お前人ん家で靴脱がねえとかありえねえ! ここは日本だぜ」
お前が靴のまま室内に入れたんだろうが、と言いたいのを漆間はぐっとこらえた。漆間を靴のまま室内に移動させたのは綾崎だ。漆間からすれば綾崎が悪いとしか言いようがないのだが、彼はその正論がはぐらかされるのを知っている。
「うるさい、魔本を探すのを手伝え」
右手に手袋をはめ直しながら漆間は言った。靴は脱がなかった。そして今や見る影もないが元はオールバックだった男の持ち物を探り始めた。漆間はこのオールバックとレスラー風の二人組が魔本目当ての公安警察だと推測していた。
「こいつまで『生命力』を奪う必要あったのか? もうボコボコだったんだろ?」
綾崎はPCチェアに延長コードで縛り付けられた上にカーペットに横たわっている、おそらく興梠ミナトであろう男を指さして言った。
「面倒だったからな。魔本が見つかったら返してやるさ。それより早くその木偶の坊の服を探れ」
ちぇっ、と応じ綾崎はしぶしぶながらレスラー風の方へ行った。
「どうせ脱がすなら女の服の方が良かったぜ。なにが悲しくて野郎の、しかもこんなゴボウみたいになっちまった奴の服をまさぐらなきゃならんのか」
綾崎は不満たらたらだったが、漆間も文句を言いたかった。しかしそんな不平不満は口に出しても仕方ない。
「魔本のタイトルってなんだっけ?」
「堕天使の懺悔」
「ああ、そんなだったな」
ミイラになったオールバックとレスラー風の持ち物を探りながら緊張感のない会話が続く。
「おい、漆間。こいつは持ってねえぞ」
レスラー風の所持品を探りつくし、綾崎はどうしてくれるんだ、お前のせいだぞと言わんばかりに膨れている。
「こっちの方も持ってない」
苛立って言いながら漆間は嶋野巡査長と書かれた警察手帳を後ろへ放り投げた。
「なんだそりゃあ、見たくもねえのに野郎の服を脱がせて魔本は持ってませんでした、だと? 俺は悲しいぜ、脱がせ損じゃねえか」
言いたいだけの文句を言いつくすと綾崎は部屋の隅へと行ってしまった。
本当に魔本を持っていないのだろうか?
いや、そんなはずはない。
少なくともこの二人組が興梠ミナトを誘拐しようとしていたのは事実なのだ。きっと魔本も奪っていたに違いない。漆間は念のため興梠の持ち物も確認してみた。しかし興梠からも見つからない。いくら探してもこの三人の持ち物の中からは魔本「堕天使の懺悔」は出てこなかった。
どういうことだ?
「おい」
不意に綾崎が漆間に声をかけた。
見つかったか?
綾崎の方に目をやると、部屋の隅で何か本を手で弄んでいる。
まぎれもない、十年前に見た魔本「堕天使の懺悔」だった。
「どこで見つけた?」
食い気味で聞く漆間に綾崎は無感動に本棚を指差した。埃の積もる本棚は一ヶ所だけ拭き取られたような筋ができていた。本を取り出したあとだろう。
「そこのバカ二人は魔本を放ってどこ行く気だったんだ? 興梠ミナトだけさらってよ」
半ば不服そうな、もう半分は本気で疑問のような言い方で綾崎は不平を鳴らした。
「見つかったならどうでもいいさ。さっさと田沼を呼ぶぞ」
「お前が呼んでくれ。呼んで用事があるのは漆間の方だからな」
綾崎は魔本を漆間に渡した。六人の天使が描かれた表紙に、「堕天使の懺悔」と大きく銘打たれているその本は十年前と全く変わらず、擦り切れや日焼けの類も少しもなかった。
漆間は受け取った魔本をパラパラとめくり始めた。そこには六人の天使たちがなぜ堕天使となってしまったのかが詳細に書かれていたが、二人には全く関係のないことで、興味を引くものではない。綾崎はただ本をめくる漆間を彼の隣で見つめている。漆間が何の感傷もなくただめくり続けていると、いきなり内容と関係のないページがでてきた。
「十年前と同じだな」
「少し、書いている文字が違う」
十年前、漆間が幼少の頃、同じようにめくっていて現れたページには「一生困らないほどのお金持ちになりたい」と書かれていた。しかし十年後の現在、二十歳になった彼が本の中に見たものは違っている。
――十年前に戻りたい――
本の中には明朝体でそう書かれていた。
「十年前に戻りたい」
漆間は感情のこもらない空疎な声で読み上げた。綾崎は天井を向いて目を閉じていた。
漆間の声に反応し、本の上の文字はゆらりと消える。白ページとなったのは一瞬ですぐに魔本はまばゆい光を放ち始めた。これも十年前と同じである。カーテンが開いていればその光は部屋の外からも見えていたことだろう。
「田沼がくる」
漆間は静かに言った。綾崎は何も言わない。幼い頃に願いを叶えてくれた田沼。母を救う力をくれた田沼。昔と同じならその田沼が光の中からやってくるはずだ。
魔本の中から放たれる光は太陽の光に似ている。目を凝らして開かれた本を見ると本の中には広大な草原が広がっていた。そしてその奥の方に黒い影が一つ。
影はゆっくりとこちらに向かっていた。否、ゆっくりと見えるがとてつもないスピードでこちらに向かっている。逆光でよく見えないが、影は次第次第に大きくなった。そして遂に影は本の中から飛び出してきた。
飛び出した影はもはや影ではない。まるっきり人の形をしていた。影だった男はキチンとした執事服に身を包み、丸メガネを掛けている。メガネの奥の瞳はキツネ目で、口元には微笑をたたえていた。漆間と綾崎はこの怪しい男を知っている。そう、十年前から知っている。
「久しぶりだな、田沼」
再会のあいさつにしては淡白だった。
「お久しぶりです漆間さん、綾崎さん。今日はどういったご用ですか?」
口元の微笑は崩さなかったが、キツネ目は少しも笑っていない。
「お前には聞きたいことがあるんだよ」
「何ですか?」
「八年前に母さん、四年前に妹たちが死んだ」
漆間は自分の半生にわたる思いを込めて言った。
「俺の母さんと妹たちに何をした?」