おうじさまのお友達
「あ、すみません。大丈夫ですか?」
「あ、はい……いやそちらこそ」
「ああ、気にしないで」
何処かで見た顔なのだが、思い出せない。顎髭がワイルドな方は、死ぬほどセクシーな声をしていた。下品に言うと腰に来る。現に私は立ち上がればフラフラになりそうで、彼が落とした荷物を拾った。本ばかり、いや漫画ばかりだ。
「ごめんね、手伝ってもらって」
「私がぼーっとしてたのが悪いんです。本、汚れちゃいましたね、すみません」
「紙袋なのが悪いんだよ……あちゃー破れてる」
「え?!」
彼が見た袋は確かに持ち手と袋の接着部分からばっさり破れていた。重量過多と私とぶつかった衝撃が悪かったらしい。
「ごめんなさい!」
「大丈夫大丈夫、袋としての使命と天寿は全うしただろうから。まぁ家まで持ってくれれば言う事なかったけど」
「あの」
私は鞄からトートバッグを取り出した。これは授業用のバッグには必ず入れている。学期の最初は教科書やらシラバスやらが殺人的な重さになってしまうので、サブバッグを使っているのだ。1年生の最初に貰った紙袋をいまの目の前の惨状のようにしたことは忘れていない。
「これ使ってください」
「え?」
猫が描かれたトート。眼前の野性味溢れる人には似合わないだろうが、背に腹というやつだ。鞄を差し出したまま、男性を見る。
年嵩は兄や尭葵くんより上か。ウェーブが緩くかかった髪は少し長め。整えられてるはずの髪型から二房ほど顔にかかる前髪が、完璧さを壊していて親しみやすさが出ている。お顔はとっても整っていた。尭葵くんは最早嘘みたいな美しさに近いのだが、彼は彫りが深くて雄といった感じだ。でも男臭くなくて、スマートさもある。この人はモテるだろうなぁ、と思った。
「いいのか?だってそれ」
「いいですよ、使う予定もないですから」
「ありがとう」
ワイルドさんはそう言って漫画を詰めて行った。確かいま大人気の漫画だ。13冊くらい出ていて、アニメ化するんじゃないかって言われている……と麻衣子が言っていた。表紙はカラフルでとても面白そうだ。多分彼女が持っているだろうから借りてみよう。
「よし、ありがとうな。この鞄どうしたらいい?」
「いいです、差し上げます。結構使っちゃってて申し訳ないですけど」
「いやそういう訳には行かない。かわいい猫ちゃんの鞄だし」
こんなかっこいい大人の人が"猫ちゃん"なんて言うアンバランスさが、可愛い。私は顔が綻ぶ。
トートは高いものではない。だから返してもらう手間を考えれば、あげても良かった。
「メルアド教えて?返すから」
「柚希」
「?!」
突如抱かれた肩に、驚いて飛び上がりそうになる。低い声、その声は。
「ごめん、待たせたね。何してるの?」
「……尭葵くん」
掛けているはずの眼鏡が無い。尭葵くんの眼鏡は、その美貌を親しみやすくするアイテムだ。それがない彼の真顔は怜悧としか言えない。冷め冷めとした暗い視線を寄越した彼は、徐にワイルドさんを見て————抱いた私を引き寄せた。
「どうして、ここにいるんですか?」
「は……はぁ?!それは俺が言いたいぞタカ!俺はオフ!」
「俺もオフです。じゃあこれで」
「待てよ。俺はそこの子に用事があるんだけど」
「俺には無いですよ。柚ちゃんにも無いです」
そんな言い合いより先にこの腕を!退かせてください!尭葵くんの艶っぽい声が耳元で聞こえて、私の目の前がグラグラした。
「たまたま知り合った相手がタカのデート相手とはなぁ、世間狭いわ。まったく」
「デートって分かってるなら、邪魔だては不要ですよ。ケンさん」
「あ、その子に自己紹介まだだった」
「俺が後でしておきます」
「なんだよお前……いやそーだとは思ってたけどさ」
依然放されない私は少しずつ呼吸を整えた。心臓は爆発するんじゃないかというほど跳ね回ったままだが、視界の揺れは収まる。
目の前の"ケンさん"は、尭葵くんの知り合いらしい。どこかで見たことあるのは、どこぞの芸能人に似ているからかな、と思っていたが、彼の知り合いであれば、声優仲間なのかもしれない。
(ケン……ケン……)
「お前ってあれだよなー大切なものとか好きなものとって置いて腐らせるタイプだったろ」
「ッ……それがどうかしましたか。人間は腐りませんけど」
「で、好きなものはどんな遠くても買いに行くタイプ」
「小さな頃はそんなに執着するものはありませんでしたけどね」
「その子は違うの?」
「違わなければ、こうなってはいないでしょう」
「そのイケメンで、その執着っプリ。詐欺だな、今流行りのヤンデレ?彼女が可哀想だわ」
「ケンさんには関係ないですよ、俺がヤンデレだろうと、なかろうと!」
話はさっぱり見えないのだけれど(分かるのは尭葵くんが好きなものは大切にし過ぎて腐らせるタイプだということくらいだ。悪いけど可愛い)、彼はどうもワイルドさんを遠ざけたいらしい。確かにオフまで仕事仲間と会うのは、ってことだろうか。でもこの応酬を見ている限り、気の合う仲良しのように見えるけれど。
「まぁまぁ!ここでずーっと話してるのもなんだしさ。その子も恥ずかしそうだし?飯でも食いにいこうぜ。ここ上に美味いとこあるから」
「…………はぁ、柚ちゃん。いい?」
「勿論。まだ誰か分かってないですけど……尭葵くんの友達?」
「先輩かな。面倒見良い人だよ」
ワイルドさんの先導に従って、エスカレーターで昇る。飲食フロア、渋谷の街並みがキラキラと眼下に眩しい定食屋さんに連れて行かれた。
「ここー。全国のご当地定食があって美味いんだわ」
壁に並べられた椅子の数は、普段からこの店の混雑ぶりを見て取れる。幸運なことに5分程の待ち時間で席に通された。私は焼きシャケ定食を頼んで、水を飲む。チクチクと視線が痛い。お客さんも店員さんもこちらを見ていた。
(あやちゃんじゃないけど、この人もすごいかっこいいからか……美形の見過ぎで目が肥えそう)
「えっと自己紹介からな。俺は江口賢人っていいます」
「ご丁寧に。吾妻柚希です」
「柚希ちゃんは、こいつの仕事知ってるの?」
「はい。声優さんですね」
「俺もそうなの。まぁタカよりちょっと歴が長いくらいだけど、そんなに変わんねぇよ。柚希ちゃんはタカの彼女?」
「ええっ?!」
盛大に驚いた。まさか尭葵くんと私がそう見えるだなんて。確かに顔は似てないから兄妹には見えないかもしれないが、彼が一緒に遊んでくれるのは、その親愛の情に他ならないというのに。
「そんなおこがましいです!尭葵くんはお兄さんみたいな存在で」
「血縁じゃないんだ。へーかわいそ…………タカ……お前な……あからさまだろ……」
私を見ていた江口さんが、遠くを見るような目をした。遣った視線の先は尭葵くんで、それを追いかけたが、私がみた彼はいつもと変わらずにっこり笑って、頭を撫でてくれた。尭葵くんの手が好きだ。骨張っているのに大きくて、私なんかの手であれば握り込めてしまう。触れる掌はいつも温かかった。
「長期戦覚悟でしたから。でももうそういうの止めました。彼女の兄からも許可を分捕ったので」
「……分捕ったって……何、馴れ初めは?」
「ケンさんに会うより前から出会ってましたよ。柚ちゃんの兄と同じクラスだったんです」
「えーとよく話に出てくる?弁護士の面白い人?」
こんなところまで兄が有名だった。やっぱり対外的にも面白い人なんだろう、私の兄は。ていうか、江口さんの口調が新婚夫婦を問い質すかのようなそれで、大層困ってしまう。
尭葵くんは、"お兄さん"だ。
そう、在らなければならない。
それ以上の感情は、——怖い。
それは、嫉妬を受けて虐められることか?見えない彼の心か?それとも——預けた想いを返してくれるとは限らないからか?
それを言葉にする術を、私は持たない。
その蟠りに相応しい名前を付けられない。
傍から見れば、滑稽かもしれない感情を何というか、私は知らない。
それでも私にとって、この考えは筋が通っていて、何故か焦燥感があった。
止まらなくなる前に、引き返せなくなる前に、そう、思わなければならないのだと。
「お待たせいたしました」
店員さんが各々の定食を持ってきたことで、パチリと思考が止まる。尭葵くんは私と同じ焼きシャケだ。江口さんはホッケを頼んでいた。
「いただきまーす!あ、そうだ柚希ちゃん?」
「はい」
「やっぱりメルアド教えて!タカの面白話リークするからさ」
「な、ケンさん」
「構いませんよ、後で、是非」
尭葵くんの面白話なんてちょっと興味あるに決まっている。二つ返事でオーケーした私に尭葵くんは咎めるような視線をくれた。多少は警戒しろということだろうか。でも他の誰でもない彼の同僚だし。
「そーいや柚季ちゃんは何歳なの?」
「もうハタチは超えてますよ。大学4年生ですけど」
「へぇ。将来は?お嫁さん?」
「相手がいませんね」
考える間もなく答えると、江口さんはニヤリと笑った。
「じゃあ俺は?」
「……ケンさん?」
「おお怖。別にいいじゃねぇか。心は自由だぜ」
「恐れ多いです。江口さんカッコいいから、それに、ファンの方たちもいますし」
「俺だっていづれ結婚するさ。それはファンかもしれないし、そうじゃないかもしれない。そこはさ、俺が好きになったら関係ねぇよ、な?タカもその点に於いては一緒だ」
「……そうですね」
私はその声色が優しかった気がして、尭葵くんを見た。彼はこちらを見ていて、微笑んでくれる。
江口さんだって、兄だって、尭葵くんだって、いづれ恋をして、結婚するだろう。それは私もだと思う。働いてもいない今、大学のあの子ができちゃった婚をしただなんて噂は聞くけれど、現実味は無い。尭葵くんは、違うのだろうか。
「結婚、したいんですか?」
「まぁ、……いづれはね」
そう言う彼は酷く優し気だった。
だけど、私はなんだか心の奥の奥に、重いものが降り積もった気がする。それは時々、知れずに重なっていて、その重さに私は驚く。それを取り除くためにはどうすれば良いかすら、分からない。
私は曖昧に笑ってその場を濁した。そのあとは、江口さんとアドレスを交換して他愛無い話で終わったし、尭葵くんは親切に私を家まで送ってくれた。
江口さんは、"俺たちだって"と言う。人気のある人だって、普通に恋愛して結婚したいのだと。それでも、やはり尭葵くんが普通に結婚するとは思えないのだ。
いつかキラキラの尭葵くんは、キラキラの誰かと恋愛をするのだろう。
そのとき、私にかかった、魔法の時間は終わり。鐘が鳴って、シンデレラは、灰かぶりに戻る。
『はい。とりあえず、タカと俺のオフの話なんだけど』
『聞きたーい!』
『聞きたくないです!』
『いや俺ね、次やる予定の某漫画の原作を大量に持ってた訳よ。それが、紙袋で、お約束のバッサー!ってやっちゃったのね』
『ドジくないですか?』
『祐樹に言われたくないっス。んで、そしたら一緒に拾ってくれた人が親切にもトートバッグくれて。話し込んでたら、向こうからタカが来るんだよ。それで』
『なんでここにいるんですか?』
『そう、そう言われましたよ!オフだからいいじゃんね?んで、俺のオフを邪魔しないでください的な氷の微笑だよ……怖いよねイケメンの凍てつく顔』
『タカさんの凍てつく顔とか見たくないです、怒られてる気分になります』
『あの日は友人といたのでああなっただけで、普段は違いますよ』
『普段のタカさんはほんと優しいですよ!紳士ですよリスナーの皆さん』
『祐樹くんがいいフォローをしてくれたところで、一曲目のお時間です』
『話し足りなーいー!』
『あとで聞いてあげますから!では、ゲーム"こえのおうじさま!"オープニングテーマ……』
いま、声が聞こえる、スピーカー。電波にのる、彼の声。距離を隔てて聞こえるそれは、電話のようでとても違う。私の声は、どんなに叫んだって、いまの彼には届かない。
尭葵くんの私の距離のようだ。この、越え難い距離は。