佐和加奈子の一日 拍手お礼 4
五階小会議室。
企画課が管理しているエリアにある為、セキュリティチェックを通る必要がある。
故に、人が来ることは少ない。
先ほど会議室を使う旨、企画室に許可を取りに行ったら美咲と間宮しか在室していなかった。
小会議室に入った佐和は給湯室で入れた紅茶を前に、真崎の持ってきた新しい資料と口頭での報告を、ノートパソコンを駆使して資料として作り上げていた。
「本社企画課と被ってる取引メーカーがいくつかあったんだけど、うちで新規開拓できたところがあって。変更箇所は……」
真崎はもともと会長に報告するために作ってきた資料を元に、佐和に口頭で伝えていく。
流石の柘植会長も会議の段取りを整えておかないと、資料に目を通してすぐの会議は辛いだろう。
佐和は画面に視線を固定したまま、キーボードをたたいていく。
その動きはとても滑らかで無駄がなく、真崎は佐和の斜め後ろの机に腰を降ろして上から覗き込みながらビジネスモードでその様子を観察していた。
実際、佐和と仕事をしたのは広報部での一年間のみ。
直属上司として、きっちりと仕事は教え込んだ。
プライベートでは冷たく突き放されていたけれど、仕事上では申し分のない部下だった。
飲み込みは早く、同じミスは絶対に犯さない。
外回りに出れば真崎の一挙手一動足を見逃さず、資料作りは取引先にも絶賛されていた。
そう、育つ佐和が楽しくて、……育てすぎたのがいけなかった。
一年で、あっさりと柘植会長に持ってかれた。
“明日から秘書課にもらうから”
たったその一言で。
美咲のことがなければ、すぐに手に入れたかった佐和。
自分の手で育てた部下を、あっさりと横から掻っ攫われた。
それは、社会人になって初めて感じるほどの不快感。
柘植会長とは、実は大学時代からの知り合い。
ゼミの教授と友人だった柘植会長が、たまに教鞭を取りに来ていたから。
しゃれで“柘植さんの会社、受けてみようかな?”と三年次のゼミの時に言ったら、“俺の会社で、実力でのし上がってみれば? 無理だと思うけど”そう言われて、負けず嫌いに火がついた。
……つけられたの方が、あってるかもしれないけど。
あぁ、見返してやりたくてね。
この会社しか、受けなかった。
今でも思うけど、よくまぁ受かったよ。ホント。
それから会社で会う度に思いっきり無視してくる会長に、いつか業績で声を掛けさせてやると、再び負けず嫌いに着火。
……うん、若かったな。僕ってば。
今から思えば、感謝だけどね。
おかげで、同期の中では出世頭。唯一の課長職
会長は、若手の中では僕に期待を向けてくれている。
向けさせることに、成功した。
そして、なんとなくお互いにライバル視している加倉井課長も。
「企画広報部で今のところ進めているのは、二つ。その外部マーケティングの結果がこれね」
口頭での報告を打ち終えたタイミングで、資料を数枚、キーボードに置かれた佐和の手の上に落とす。
佐和はそれを手に取ると、内容を確認してから横に置いた。
「……十分頂けます? スキャナーがないので、フォーマット起こしますから」
「うん、もちろん。その間、暇を潰してるよ」
佐和を見て。
「……」
俺の言葉に、ぴくりと佐和の綺麗な眉が微かに動いた。
けれど反応はそのままで、すぐに意識は資料に向かったらしい。
カタカタと、先ほどよりも早いタッチで佐和の指がキーボードの上を動いていく。
佐和も負けず嫌い。
この言い方をすれば、五分で終わるな。
真崎は紅茶を口に含みながら、佐和をじっと見つめていた。
佐和は真崎から渡された資料をPCに打ち込みながら、内心溜息をついていた。
この資料は、真崎自身が作ったものだろう。
覚えのある癖に、部下だった頃の記憶が呼び起こされる。
観賞魚のように扱われていた、入社当初。
親しく話してくる人は誰もおらず、あるとすれば下心や悪意ある人間ばかり。
仕方ないと、諦めていた。
仲のよかった友達もいたけれど、それは少ない。
中学生の時に色々あって、自分から親しくしようとすることを避けていた。
その中で唯一見つけた、なんのフィルターも通さず私自身を見て話して接してくれる美咲。
そして――
意識を、背中に向ける。
じっと見られているのが、雰囲気で分かる。
下心なく上司として私を育ててくれた、真崎先輩。
……嫌いなわけ、ない。
嫌いなわけが、ない。
飄々として掴みどころのない性格、けれどその甘ったるい笑顔に隠された洞察力と決断力、広報で仕事を進めていく企画力。
一緒に仕事をしていけばいくほど、惹かれずにはいられなかった。
美咲という、友達。
真崎先輩と言う、好意を寄せる人。
今までほとんど持った事のない感情に、私は幸せを感じていた。
そう、あの日までは。
真崎先輩が、美咲に興味を持った、あの日までは。
妹を見るようなその目は、私と同じだと思った。
私と同じ様な性格だから、美咲の傍にいると癒されるんだと。
その真崎先輩が、ラウンジで、美咲に“嫌い”だと告げているのを聞いてしまった。
それを言われた美咲が強がりを口にしてラウンジから出ると、そのまますぐ非常階段へと出て行ってしまった。
驚いた。
本当に、驚いた。
初めて見る、真崎先輩の感情のままの行動。
私では、見ることが出来なかった素の顔。
それを引き出した、美咲の存在。
それから――
真崎先輩は美咲に惹かれていって。
好意を持ち始めた。
一度に、失くす。
友達と、好意を寄せた人間を。
私は、美咲をとられたくなかった。
子供っぽい感情と言われてもいい。
初めて出来た、心を許せる人間。
それは、真崎先輩よりも大切だった。
だから――
初めて持ったその感情を、私は捨てた。