後編
店内は静寂に包まれていた。
足音さえ吸い込む深い色の絨毯。
柔らかな間接照明が黒檀の展示台を照らす。
その上には、一つひとつ独立したガラスケースが等間隔に並んでいた。
ケースの中で眠るのは、宝石でも時計でもない。
小さな記憶媒体だった。
ケースの足元には、小さなプレートが添えられている。
『英雄として死んだ日』
『復讐を遂げた日』
『20年の初恋』
『母になった日』
『愛する人との記憶』
どれも、この世に一つしか存在しない。
誰かが手放した、一度きりの人生。
店内に会話はない。
客は値札を見るようにではなく、展示品を眺めるようにガラスケースの前を歩く。
店員も必要以上に口を開かない。
誰一人、無駄な音を立てない。
男はゆっくり歩き、一つ、また一つとガラスケースを見て回る。
その眼差しは、蒐集家が逸品を吟味するように静かで、慎重だった。
急ぐ理由はない。
選ぶ時間さえ、この店では愉しみの一つだった。
やがて男の足が止まる。
ガラスケースの中。
眠る一つの記憶媒体。
プレートには、
『愛する人との記憶』
男は小さく笑った。
「今日は、これにしよう。」
店員は一礼する。
男は端末へ眼を添えた。
認証。
決済完了。
男は金額を見ることもなく歩き出す。
店員は白い手袋をはめたままガラスケースを開ける。
壊れ物を扱うような丁寧な所作で記憶媒体を取り上げ、男を店の奥へ案内した。
重厚な扉が音もなく開く。
その先には、一脚の椅子。
全身を包み込む流線形の筐体。
深く身体を預けるシート。
頭部を覆う大型ヘッドユニット。
医療機器と高級マッサージチェアを融合させたような、豪奢な装置だった。
男は慣れた様子で腰を下ろす。
椅子が身体へ沿うよう形を変える。
固定アームが腕と脚を固定する。
店員は記憶媒体を装置へ挿入した。
小さな電子音。
「同期を開始します。」
ヘッドユニットがゆっくりと降りた。
視界が闇に溶ける。
春。
桜が舞う帰り道。
「また明日。」
振り返る。
相手も振り返る。
不意に、目が合う。
笑う。
夏。
背を向ける。
閉まる扉。
長い沈黙。
夕暮れ。
片手には、小さな花束。
相手の手には、小さなケーキの箱。
「……ごめん。」
「私も、ごめん。」
目が合う。
思わず吹き出す。
秋。
買い物袋を提げて並んで歩く。
「夕飯、何にする?」
「何でもいいわ。」
「それが一番困るんだ。」
顔を見合わせて笑う。
洗剤を買い忘れた。
卵も切れていた。
「また行かなきゃね。」
「そうだな。」
冬。
白い天井。
消毒液の匂い。
冷たくなっていく手。
唇が震える。
伝えられなかった言葉。
零れ落ちる涙。
別れ。
名前は思い出せない。
それでも胸だけが痛い。
理由もなく涙だけが溢れ続ける。
「再生を終了します。」
電子音が響く。
ヘッドユニットが上昇し、固定アームが開いた。
男はしばらく動かなかった。
頬を伝う涙を親指で拭う。
胸に残る痛みを、ゆっくりと味わう。
深く息を吐く。
「……素晴らしい。」
短い沈黙。
「これだから、本物はやめられない。」
男は席を立つ。
変わらぬ静寂が迎えた。
ガラスケースの中には、無数の人生が眠っている。
『英雄として死んだ日』
『20年の初恋』
『最初の我が子を抱いた日』
『親を看取った日』
『親友を裏切った日』
『2度目の親殺し』
『愛する人との記憶』
店員が口を開く。
「いかがでしたか。」
男は微笑んだ。
「夏が良かった。」
男はまた、歩き出した。
「次は、何にしようか。」




