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前編

目が覚める。


身体が沈み込むほど柔らかな寝具。


天井には細かな彫刻。


窓の向こうには、朝日に染まる街並みが広がっていた。


高層階。


静かすぎる部屋。


……ホテルか。


それも、一泊では到底払えそうにない部屋だった。


寝台から起き上がると、部屋の隅に立っていた男が一礼する。


黒いスーツ。


白い手袋。


表情は薄く、背筋だけが真っ直ぐだった。


「朝食のご用意ができております。」


「……あんたは?」


「本日、お客様のお世話を担当いたします。」


名前は名乗らない。


それ以上も話さない。


男は一歩下がり、道を譲った。


案内された食卓には、湯気の立つ料理が並んでいた。


艶やかな肉。


香草をまとった魚。


琥珀色の酒。


皿も、グラスも、触れるのをためらうほど美しい。


一口運ぶ。


美味い。


舌がそう告げる。


もう一口。


やはり美味い。


それなのに。


喉を通った瞬間から、何かが欠けている。


満腹になるほど食べても。


胸の奥だけが、空っぽだった。


部屋のチャイムが鳴る。


「失礼するぞ。」


入ってきた男は、俺を見るなり安堵したように息を吐いた。


「……元気そうで安心した。」


「知り合いか?」


男は一瞬だけ固まり、それから苦く笑う。


「親友だろ。」


高そうな酒瓶を掲げる。


「飲もう。」


断る理由もなかった。


「乾杯。」


グラスが鳴る。


「……変わらんな。」


「そうか?」


「いや。」


男は苦く笑う。


「変わったよ。」


それ以上は言わなかった。


男は何度も俺を見た。


何かを言おうとして、そのたびに酒を口へ運んだ。


帰り際。


肩へ手が置かれる。


「……お前が決めたことだ。」


静かな声だった。


「だから俺は何も言わない。」


少しだけ笑う。


その笑顔だけが、どこか寂しかった。


「また飲もう。」


扉が閉まる。


静寂だけが残った。


時間を持て余し、鞄を開く。


着替え。


財布。


腕時計。


古びた文庫本。


「俺、本なんか読む趣味あったか……」


違和感を覚えながら本を開く。


一枚の写真が床へ滑り落ちた。


拾い上げる。


写っていたのは男女だった。


男は俺。


隣には、笑う女性。


知らない顔だった。


それでも。


胸が締めつけられる。


息が浅くなる。


ぽたり、と。


涙が写真へ落ちた。


「……なんで。」


知らない。


会ったこともない。


それなのに。


どうして。


「どうされましたか。」


振り返る。


世話係が、いつの間にか部屋に立っていた。


「この人……誰だ。」


写真を差し出す。


男は一度だけ視線を落とし、淡々と答えた。


「お客様の奥様でございます。」


思考が止まる。


「……は?」


「お客様は契約に基づき、奥様に関する記憶を売却されました。」


「俺が?」


「はい。」


男は端末へ目を落とした。


「契約内容を確認します。」


数秒。


「奥様に関する全記憶。」


「感情。」


「生活記録。」


「契約通り売却済みです。」


初めて会った日も。


一緒に笑った日も。


喧嘩した夜も。


抱きしめた温もりも。


最期の日も。


そのすべてが、もう存在しない。


写真の女性は笑っている。


その日。


専属シェフが料理を運ぶ。


演奏家がピアノを奏でる。


ソムリエが静かにワインを注ぐ。


誰もが俺を満足させようとしていた。


それでも。


視線だけは何度も机の上の写真へ戻ってしまう。


誰かわからない。


思い出せない。


知らない。


それでも、何度も見てしまう。


「記憶屋に連絡しろ。」


世話係は無言で端末を操作する。


壁のディスプレイに白衣の男が映った。


『ご不便をおかけしております。』


「不具合だ。」


「摘出したはずなのに苦しい。」


「胸が痛い。」


「契約と違う。」


白衣の男は手元の資料へ目を落とした。


『契約は正常に履行されております。』


「じゃあ、この痛みは何だ。」


『残滓です。』


「残滓?」


『私たちは、認知できない記憶の欠片と呼びます。』


数秒の沈黙。


『記憶は摘出できます。』


『しかし、人が長い年月をかけて刻んだ痕跡までは商品ではありません。』


『あなたは思い出せない。ただ、失ったことだけを身体が覚えています。』


『なお、契約書第七条に基づき、感情残滓は保証対象外となります。』


通信が切れる。


誰も喋らない。


世話係は何か言おうとして、


結局、口を閉じた。


時計の秒針だけが、


静かな部屋に響いていた。


俺は写真を見る。


名前は知らない。


声も知らない。


何を話したのかも。


どんな人生を歩いたのかも。


もう俺の中にはない。


それでも。


写真の中で笑うその人だけは、どうしようもなく愛おしかった。


俺は知らない。


知らないはずだ。


名前も。


声も。


思い出も。


何ひとつ残っていない。


それなのに。


この人を失ったことだけは、


身体だけが覚えていた。


写真の端は、


涙で少しだけ滲んでいた。


写真の中の彼女は、


幸せそうに笑っていた。


その笑顔の意味を、


俺だけが知らなかった。

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