【第19章】素敵
夜になって、やっと名前が呼ばれた時、待ち疲れしている自分がいた。
いつものようにぼんやりできなかった分、途方もなく長い時間を待っていた気がする。ひどく疲れてしまった。
「こちらへ、どうぞ」
彼は明るい笑顔で私を迎え、一番奥の椅子に案内した。
美容院での彼はいつも私の前にいる彼ではない。
それは変わらなかった。
今日は深緑色の大きめのパンツに、水色のデニムジャケットを着ている。その中には、いろんな色の絵の具が飛び散っているデザインの厚手のカットソーが見える。
鏡の前にある回転する椅子に座ると、私の後ろに立った彼が鏡越しに訊ねる。
「今日は、どうしましょうか?」
私はうつむいたまま、彼の方を見ずに「短くして下さい」とだけ言った。
その時、彼がどんな顔をしたのかは分からなかったけれど、しばらく考えたあとで「かしこまりました」と何かを決意するように言った。
失礼しますと言いながら、彼は私の襟足と洋服の間にタオルを挟む。その後、カットクロスを広げて被せる。首の後ろでマジックテープを調節して、苦しくないですかと訊ねる。
私は、大丈夫ですと無表情のまま答える。
彼に髪を切ってもらうのは初めてだ。触られるのも初めてだ。
でも、その時の私にはとにかく感情がなかった。
私が最初にここへ来た時は、ロングヘアーに重たいぱっつん前髪だった。
アイドルとして絶対に必要不可欠だった、その髪を切り落とすのは苦しくて痛くて、私は泣くのをこたえていたのを思い出す。
今日も同じだと思っていた。
準備が整うと、彼は迷いなく髪にハサミを入れる。
しかし、そのハサミは私の髪をバッサリとは切り落とさなかった。
彼は櫛とヘアクリップを巧みに使いながら、器用にハサミを動かしていく。髪の長さや動きを見ながら、調整していくようだった。
潔くて思い切りがいい。的確に切っていくその腕は、とてもスピーディーだった。
私はいつの間にか目線を上げて、鏡に目をやる。その時、彼と私との間に会話はなかった。
ただ、こんな真剣な眼差しの彼を見るのは初めてだった。
私の後ろの髪を何束か取って、真上にあげたかと思うと、ハサミを斜めに動かしながら切っていく。
そうしているうちに、毛先は軽くふんわりとした形を作り、パーマをかけていないのに全体にウェーブが掛かったような動きをカットだけで出していった。
シャンプーをしてくれたのも、彼だった。
これもまた気持ちのいい力加減で、私はうとうととしてしまった。
ああ、この人がなぜ人気なのか納得がいった。
髪を乾かす時は、ドライヤーと櫛で更に綺麗なウェーブを作り、家でのブローのやり方まで教えてくれた。
私は、見違えるほど綺麗になった。
自分で綺麗というのはおかしいけれど、重たいボブヘアーは毛先を遊ばせた動きのあるショートヘアに。ぱっくり分かれていた前髪は、毛先がくるんと丸く薄めに下ろしてある。
大嫌いな自分を切り捨てたくて、髪を切りにきた。
でも、「私って、こんなに素敵になれるんだ」と素直に思った。
彼が大きな鏡を持って、後ろの髪を見せてくれる。
「こんな感じになりました、どうですか?」
私は声が出ず、代わりに深く頷いた。
それを見て、彼は安堵の表情を浮かべた。
支払いを済ませて、コートと鞄を受け取り、彼が店の扉を開ける。
外は、すっかり冬になっていることに気づく。
彼は「また、お待ちしています」と笑う。
いつもこんな笑顔が見られたらいいのに。そう思わずにはいられなかった。
私は彼にお辞儀をして、店を出た。
吐く息が白くなる。
失恋の時に髪を切るのは、自分を傷つける行為なのか。それとも、新しい自分になって、過去を吹っ切るためなのか。
私は失恋した訳じゃないから、本当のところは分からない。
でも、今日の私はそのどちらでもなかった。
髪を切ったのは、自分を好きになるため。そして、傷ついた心に優しくするためだった。
自分は自分が思うよりもっと素敵な人なんだと知るために、私は今日ここに来たのかもしれない。
それを教えてくれたのは、彼だった。




