50羽 「会える、と思う」②
そして。
「漕げ! 漕げ!」
コンガみたいな胴長太鼓が、リズムよく叩き鳴らされる。そしてそれに合わせた笛の音。異様な熱気と、汗と糞尿と吐瀉物が混ざったような、悪臭。
表向きのキレイな場所からは、まるで想像もつかない、船の暗部。
いろいろあって僕は、遊覧船の甲板から、船の漕ぎ手たちの階層へと転げ落ちてしまった。
「漕ぎ止め!」
指揮を取るための音楽が後方まで響き渡るように、人ひとりが通れる通路は確保されている。漕ぎ手たちが掛け声に合わせて一斉に逆手でひとつ漕いで手を止めた。
鼻が曲がるって言葉は、まだ呼吸ができるレベルのときに使うんだな、と思った。ここには空気がない。音を振動として伝えるだけのものはあっても、呼吸のための酸素が。
「――ボウズ、なんでこんなところへ来たんだ。さっさと、その梯子から上に行け」
太鼓を打ち鳴らしていた音頭取りの男性が、息を切らしながら言った。手前の漕ぎ手たちの視線が痛い。わずかな光の中見えたみんなの姿は半裸で、髪の毛を短く刈っていた。そして一様に左腕に引っかき傷の形をした入れ墨が入っている。僕は……この人たちが『作業』をさせられる階層の人たちだと、確信した。
「お話し、できませんか」
「できるわけないだろう。さっさと行け。おまえがここに来たことで、罰を受けるのは俺たちなんだから」
それを聞いてぎょっとして、僕はあわてて梯子から上階へと出た。幸い、その梯子があるのは物陰だったから、出て来たところをだれにも見咎められずにすんだ。よかった。
船の上をくまなく探索していたとき、梯子穴に気づかなくて足を踏み外して落ちたんだ。恥ずかしい。でもそうでもなかったら見つけられなかったかもしれない。だって、船尾までずらっと並んでいるであろう男性たちの間には、空気穴どころか採光のための隙間すらない様子だったから。知らずに詰めていた息のまま、僕はしばらくその場でぼーっとしていた。
「ヨータ、どうした」
ふと気づいたら目の前にイケメンの顔があった。我に返って僕は呼吸を思い出した。あたりまえにある空気をありがたいと思うなんて考えたこともなかった。
船は湖上で止まっている。ここでしばらく景色をたのしむのだろう。浮きなどの目印があるわけではないけれど、ちょうど湖の真ん中あたりで隣のグラ=ゾルムとの国境になるらしい。なのでその少し手前あたりで止まっているはずだ。ここからなら、対岸の街の様子がなんとなくわかる。
さっき停止の音頭を取っていたのは、僕が落ちたからではないとわかってほっとした。勝手なことをしたら、きっと怒られてしまうだろうから。
「……ちっちゃいころのタルクも、落ちたのかな」
「なにが」
「さっき、そこの穴に落ちた。船を漕いでいる人たちの場所だった」
僕は、木製のコンテナや樽が乱雑に、けれど計算されて置かれているところを指さして言った。タルクは目を見開きその場所を確認して、僕を振り返った。
「なにか、話せたか」
「ぜんぜん。僕が入っちゃったこと、バレたら中の人たちが罰を受けるって言われたから、あわてて出てきた」
船上は涼しくて、爽やかな風が心地よかった。でもさっきの場所を見てしまったら、なんだかその清々しさも、眺められる美しい景色も、かえってグロテスクに思えた。
その場所から離れがたく感じたけれど、船員さんに怪しまれたら困ると思って、タルクとともにイムロのところへ戻る。イムロは観光客の若い女性ふたりとにこやかに会話していた。僕たちの姿を見るとあいさつして別れ、こっちに来る。
「いいの? まだお話ししていてもよかったよ」
「守りの強いお嬢様たちなので、このくらいがちょうどいいです」
「そう……」
攻略法いろいろあるんだ、と思ったけど聞かなかった。
甲板に並べられた丸テーブルの席をひとつ陣取って、僕らは小声で今後どうするか話し合った。ちっちゃいタルクがかつて見て、今僕が見てきたように、ひどい環境で働かされている人たちは本当にいる。接触して、そしてどうするかだ。
「……あの方たちでも番号を取得できるのか、した人がいるのか、聞きたいけれどね」
「煽ってると思われそうですよねー。話のもって行き方、考えなきゃならんですね」
なんかそういうの、ぜんぶイムロに任せた方がうまく行きそうって思うんだけど、当の本人は「俺の唇は女性のための言葉を紡ぐものなので」と大真面目な顔で言った。初志貫徹していて立派だな、とうっかり思った。まあ、正直イムロは警戒されそうだよね、とは思う。
接触するなら船に乗っている間に、と思ったけれど、それはとても難しいとわかった。この遊覧船は客に美しい景色を見せるために運行している。彼らの存在を匂わせることすらしていない。なので、下船してからだ。
「あの人たちが、降りてきたときめがけて……話しかけてみよう」
「たぶん、深夜とかっすよねー」
「そうだね。これが岸に戻るのって夜だもんね」
それまでの間、僕はあの隠された穴に、いい風がたくさん吹き込めばいいな、なんて思いながら過ごした。船上の夕食はおいしかったけれど、おいしいからこそ気分は複雑だった。






