4.香梅(シャンメイ)・後編
香梅は自宅にて、よく茶会を開いている。昼間、女性限定の会合である。
本来なら、ゆったり一人で飲むお茶が彼女の好みであるが──茶会には西国の上流階級の貴婦人方を招いている。
彼女たちとの関係を良好に保つのは、宰相たる夫の立場を守る事に繋がる。
また国内の不穏な兆候は、いつだって女たちの他愛ない噂に上るのが常。人の口に戸は立てられぬ。ましてや噂好きの女性の口となれば、尚更の事なのだ。
そんな訳で今朝、香梅は茶会に着ていく衣装を見繕われている訳だが。
着付けを手伝うのは下女ではない。夫の雨仔だ。彼自ら進んで申し出て、朝必ず世話を焼くのである。
「ちょっと、胸が窮屈な気がするのだけど」
「致し方ない。貴女のためだ」
今着せられているのは、妓女時代よりも胸元の開きが控え目な東国衣装。
使用人時代の名残か、格式ばった物言いの宰相だが──その実、香梅の豊満な双丘を鑑賞するのは自分だけでいい、と考えているのは明白だ。
「いやここはやはり……ああすまない、宝貝。苦しいだろうか?」
帯を締めながら、歯の浮くような呼びかけをしてくる夫の脳天に、無言の妻の鉄拳が飛ぶ。
(だから、きつく締めすぎなのよ! それに赤ちゃん言葉を使うなって、いつも言ってるでしょ!)
恥ずかしさの余り頬が紅潮したのを自覚し、思わずそっぽを向いてしまう。
夜伽のあった翌朝はいつもこうだ。優先順位が完全に自分に移ってしまっており、何かと理由をつけて仕事に行きたがらない──というより、香梅から離れたがらない。
百日通いの頃、遠慮がちに節度を守っていた面影はどこにもない。
明らかに浮かれている。聞いた話では、いつぞや「屋敷の中に執務室を作ろうか」と真顔で呟いていたという。
「もういいから。さっさと仕事に行きなさいよ、雨男!」
過剰なまでに愛されている事自体は、とても嬉しく思う。
しかしいくら何でも、少々鬱陶しい。仕事と家庭とどちらが大事なの? と本来とは逆の意味で尋ねたくなってしまう。
今の浮ついた状況では即答で自分を選び、本気で宰相の業務から逃避してしまいかねない。香梅の「待て」は今でも有効で、「忠犬」はきちんと聞き入れてくれるのだが──彼女の歯止めが無かったら、今頃どうなっていた事か。
名残惜しげに屋敷を出る間際「しばしのお別れです、わたしの女神」などと気障ったらしい台詞を吐いたため──本日二度目の香梅の拳が飛んだ。
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西国における、茶の歴史はまだ日が浅い。
東国街にいた頃はそこまで気にならなかったが、西国ではつい百年ほど前まで、茶葉じたいが普及していなかったらしい。
東国の王による間接統治の時代になってから、徐々に東西の交易が盛んになり。香梅もこうして茶会を開く事ができた訳だが。
それでもまだまだ、東国産の紅茶や緑茶は、西国全域に浸透しているとは言い難かった。
(東国のお茶は庶民の嗜みだったのだけど、西国では未だに貴族の娯楽なのね)
色街にて大勢の男たちから情報を集めていた頃から、茶に関する認識の落差は、東西で驚くほど隔たりがあった。
そんな背景もあるのだろうか。香梅が主催する茶会には、こぞって大勢の貴婦人が参加に名乗りを上げる。半分は統治者である宰相との縁を深めるためもあるだろう。
「本日は東国より取り寄せました、特別な茉莉花茶をご用意させていただきましたわ。
美肌と健康に特に効果があり、現地においても女性に親しまれておりますの」
現在は西国においても茉莉花茶は普及している。雨仔も好んでおり、南国から取り寄せた茶葉を常備している程だ。
しかし今回のモノは、従来の茉莉花茶ではない。最も香り高いとされる、東国は東端沿岸の温暖な地域で採取された高級茶葉を使用している。
館の執事たちが茶を運んでくると、途端に室内に心地良い香りが漂ってくる。貴婦人方から感嘆の声が漏れた。
茶会を開くようになって間もない頃、香梅は幾分か緊張していた。
西国一の妓女としての矜持はあれど、元は身分卑しき自分が宰相の妻として、上流階級の貴婦人方と上手くやっていけるだろうか。そんな不安がどうしても拭えなかった。
茶会の始まる直前まで雨仔が着付けの世話を焼くせいで、夫が出仕する様は出入りする婦人方の目に留まる。
そんな時の夫は、まるで従僕であるかの如く香梅に礼を尽くす。
仮にも王都を差配する権力者が、献身的に妻を立てている様は──女士优先を風習とする西国の貴婦人たちにとって、羨望と賞賛の的であった。
夫とのやり取りを繰り返すうち、香梅は緊張がほぐれ、自然と物怖じしなくなり──もともと妓女として教養の高かった彼女が、貴婦人たちと打ち解けるのにさほど時間はかからなかった。
(もしかして──日頃しつこいくらい仕事に行こうとしなかったのって。あたしを勇気づけようと?)
ふとそんな事を考えてもみたが。蹴飛ばしたくなるぐらいだらしない夫の笑顔を思い出すと、買いかぶりとしか思えなかった。
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「──お悩みかな?」
突如、香梅は声をかけられた。
ひどく嗄れた、年老いた女の声だ。今この場にいるのはいずれも、妙齢の高貴な婦人ばかり。少なくとも老婆の域にいる女性はいない。
一人の婦人と目が合った。彼女はコクリと頷き、部屋を離れようとする。
普段なら気にも留めなかったろうが──香梅は自然に足が動き、奇妙な雰囲気を持つ婦人の後を追った。
「ああ、済まないね。別に取って食おうって訳じゃないよ」
婦人は、見た目の瑞々しさにそぐわないしわがれ声を上げた。やはり最初の声の主だ。
「婆も若作りするのは嫌いじゃないが、どうしても声だけは長く保たない。
顔や肌は綺麗に化粧できるけど、声はそうはいかないだろ? それと同じなのさ」
「あなたは、一体──?」
「東国ではちょっと名の知れた程度の、ただの占いおばばだよ」
その言葉を聞き、香梅は思い至った。
彼女は直に会った事はないが、夫から聞いた事がある。気紛れなのが玉に瑕だが、占えばいかなる物事も必中と噂される、凄腕の老婆。
まさに伝説級の占術師。かつて雨仔の兄に、末の弟が伴侶を連れて戻ると予言し、見事的中させた逸話は今でも語り草だ。
「あなたの噂は聞いた事があるけれど。こんな所にどうして?」
「なぁに、深い意味はないよ。故郷が懐かしくなる、素敵なお茶をご馳走になったからね。礼がしたくなったのさ」
悪戯っぽく笑う占い師は──怪訝な顔を隠せない香梅に、どこからともなく取り出した枕を放って寄越した。
手触りは柔らかく、さぞかし厳選された羽毛を使っているのだろう。注意深く調べると、枕の中央に何やら硬いものが埋まっている感触がある。
「そいつは『邯鄲の枕』といってね。まるで現実のような夢を見せてくれるのさ。
あんたが今抱えている悩みの正体。その枕を使えば──明らかにしてくれるだろうよ」
邯鄲とは、古代東国に興った王朝の街の名。その故事は香梅も知っているが。
余りにも突拍子もない話だ。困惑の色を隠せない彼女を後目に、占い師は「信じる信じないはあんたの自由さ」とだけ言い残して──忽然と姿を消した。
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話を丸ごと信じ切った訳ではない。夫にも打ち明けられなかった。
しかし──自分が密かに悩みを抱えている事を、あの老婆は見抜いた。
胡散臭い枕だが、仮に使ったところで、夢を見るだけ。現実に害はない──筈だ。
香梅はその日の夜、老婆から受け取った「邯鄲の枕」を寝床に敷き──眠りに落ちた。
ふと気がつくと、香梅の意識は──霧の漂う薄暗い森の中にあった。
(つづく)
《 キャラクター紹介 》
名前:香梅
出典:梅の芳香、雨の音色~あなたに捧げる愛の証~ http://ncode.syosetu.com/n6217ea/
年齢:不詳
性別:女性
特徴:元高級遊郭のナンバー1妓女。一人称「あたし」。滅多に笑顔は見せない。煙管好き。
備考:舞や歌、楽器など芸事は超一流。数カ国語を流暢に話す。