10 渡り鳥の舞(香梅)
Scene Character:香梅
Scene Player:石川 翠 様
封玉廟の異変にいち早く気づいたのは香梅だった。
月長石の直感に頼るまでもない。心がざわつく、泥土のような負の感情が膨れ上がっていくのが見える。
「……そんな、ティスッ……!」
石人の少女の身を案じ、悲痛な声を上げかけた香梅であったが……
負の感情に飲み込まれているミオソティス。しかし完全に屈していた訳ではなかった。
(あれはッ……黒玉……?)
ミオソティスの左眼に宿る守護石が、膨大な負の感情を次々と忘却の力で掻き消している。
少女の意識は感じられない。彼女は半ば恍惚状態となり、流れに逆らえずぐったりと漂っている。つまり……今、黒玉はミオソティスの意志とは無関係に、彼女の身を守っているのだ。
その様子を見て、香梅は少しだけ安堵した。
普段から制御できず、ミオソティス自身からも疎まれている黒玉の力だが、いざという時には石人を護る「守護石」としての役目を全うしようとしている。
(弱気になっている場合じゃ、なかったわね……
石ですらティスを守ろうと頑張っている。あたしが手をこまねいててどうするって言うのよ……!)
黒玉の忘却の加護は凄まじい。荒れ狂う圧倒的な負の感情から次々と記憶を奪い去り、荒ぶる霧を鎮めている。
しかしそれも一時の効果に過ぎない。記憶を奪われた無数の感情たちは、いずれまた狂ったルーフスの碧玉に干渉され、再び負の尖兵と仕立て上げられてしまうだろう。
(何か、切り替えなくちゃ……恨みや諦めなんて、益体もない感情じゃなく。
忘却させた感情を埋め合わせ、彼らを安らげるような。そんな楽しい記憶を……)
香梅は意を決し、前に進み出る。
重苦しい霧の、負の感情が全身にまとわりつく。だが意に介していられない。
(月長石……これが最後の頼みよ。お願い、力を貸して)
香梅の強い意志に呼応するかのように、胸元の首飾りが輝きを増した。
刹那……彼女の周囲の景色が一変する。薄暗い地下の石畳ではなく、穏やかな雰囲気の春めいた農村の風景――そこは香梅の故郷だった。
(懐かしいわね……思い出すわ。子供の頃に見た、故郷の祭り)
香梅の衣装もまた、薄紅色の美しい衣に変化していた。袖が長く垂れ下がり、両手を振り回すたびに風になびく。鳥の羽のように。
(踊りましょう。祝いましょう。あなた達に必要なのは、絶望でも恨みでもない。
万重の山を越えてゆくこの風であり――陽光に彩られるあの雲なのよ)
香梅は舞った。自然と身体が動く。体験したのは十年以上も前の筈だが、完全に覚えている。
彼女が舞い、踊り、両腕を振り動かし、薄紅の袖が軽やかにたなびく度に、周囲の景色は美しく咲き乱れる。爽やかな風が心地よく頬を撫で、暖かな太陽が天頂に輝く。
それは周囲の漂う霧たちにとって――極夜の地にて一生を過ごした石人たちにとって、まるで見た事のない絶景であった。
香梅が故郷で見た、旅芸人たちの舞。名こそ伝わっていないが、それは雁が美しく大空を舞う様を表現したものと言われている。極北にあると伝わる幻の地・雁道を住処とする彼らは、冬の訪れと共に香梅の故郷へ渡り鳥としてやってきて――やがて春が芽吹くと同時に北へ帰っていくのだ。
(大雁たちの飛び立つ姿は、人々を魅了し――春の訪れを喜び、感謝を示す祈りの舞として残った)
香梅自身も妓女となってから、度々舞を披露する機会があった。
西国にて舞う際に脳裏によぎるは、あの日見た故郷。もう帰れぬ村を懐かしみ、舞う時――彼女の両腕にも見えざる翼が宿る。渡り鳥たちのように、故郷の記憶へと還るために。
舞を通じて、霧たちに喜びと笑い、楽しさと幸せの感情が染み込んでいく。
石人たちが体験した事のない記憶ではあるが、香梅の確かな過去がそこに在り――黒玉の忘却で消え去った負の感情を容易く塗り替えていった。彼らはまるで、最初から香梅の故郷の一員で――共に祭りを、彼女の美しき舞を楽しむ人々であるかのように、踊りの輪に加わっていく。
幸せを司る正の感情は、負の感情などより遥かに伝播しやすい。どんな人間でも求めるものだ。不幸とは寂しさであり、疎外感であり、孤独である。ならば誰かと繋がり、共に喜びを分かち合う事ができれば――幸福の連鎖は自然と広がっていく。水を伝わる波紋のように。
香梅が生み出した幸せの記憶は、大きなうねりとなり、暖かな風となって全てを覆い尽くした。
先刻まで荒れ狂う台風のようだった負の奔流が、嘘のように包み込まれ、洗い流され、霞んでいく。
やがてそれはミオソティスにも届いた。聖母のような慈愛に満ちた感情が、優しく彼女の全身を包む。
「…………姐姐…………?」
「気がついたわね、ティス……もう、大丈夫よ」
精神も身体もヘトヘトに疲れ切っている筈だが、不思議と香梅の気分は穏やかだった。
楽しい夢から覚めたような、微笑みを浮かべるミオソティスを抱き締め――香梅もまた薄く笑った。
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『流石は香梅さん。美しさもさる事ながら、あの場において最適解の行動を取り、霧を鎮めてしまわれた』
グリソゴノが握りしめる楔石から、ウィリディスのお道化た声がした。
まるでこうなる事が、最初から分かっていたかのような口ぶりである。
「彼女だけではない。ミオソティス殿、ジェレミア殿、トーマス殿――それぞれが期待以上の役割を果たしてくれた。
……だがあの状態は長くは保たんぞ。『呪いの瞳』は一時で浄化しきれるものではない。
ウィリディス。事ここに至っては――儂や彼女たちに協力してくれるのであろうな?」
念を押すような黒衣の老人の言葉に、ウィリディスは「やれと言われればやりますよ」と請け負う。
「僕の守護石・楔石の加護は『永久不変』……彼らに新しく刻み込まれた幸せの記憶を、色褪せないように残しましょう。
但し、しばらくの間はこの森の――封玉廟を封鎖しなければならない。
この幸せの記憶は守護石に色濃く影響を与える、言うなれば麻薬のようなものだ。記憶が彼らに定着する前に、部外者が足を踏み込めば二度と森を出られない廃人と化してしまう恐れがある」
「…………そうか」
グリソゴノは頷くと、歩き出した。
己の寿命が差し迫っている。彼は「眠り」が長くなっていた。石人は死期が近づくと、眠りにつく時間が少しずつ長引いていく。そしてある日、二度と目覚めなくなる。文字通り永眠し、石人はその生を終えるのだ。
「『眠り』が我を支配する前に、為すべき事ができたな」
大きく息を吐く黒衣の老人。だがまずは、霧を鎮めてくれた外来者たちに感謝と、そして帰還の儀式を施さねばならない。
「摩訶不思議」の加護を持つアーテルの黒曜石の力を借り、再び「迷いの森」を、本来あるべき姿に戻さねばならぬ。彼らには――元来た「道」に帰る時が迫っていた。
(Ending Phase へつづく)
《 選択肢 》
(全員共通)
これよりエンディング・フェイズとなります。
各プレイヤーの皆様に最後の選択肢です。
各キャラのエンディングにてそれぞれの居場所へ帰る訳ですが、別れ際にどのキャラクターと絡みたいか、あるいは絡む事なく帰るか希望をお書き下さい。
最後にどんな会話をしたいか等、具体的な話もあればどうぞ。