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硝子の森と霧の夢  作者: LED
Opening Phase
3/43

3.香梅(シャンメイ)・前編

Scene Character:香梅シャンメイ

Scene Player:石川 翠 様

 ここは西国の王都。

 何年か前、強大なる王の率いる東国が昇竜の如く台頭し──西国はその勢いになす術もなく飲み込まれた。


 しかし東国の王は思慮深かった。征服によって無辜の民の血が流れる事を、直接統治によって不必要な軋轢が生まれる事を嫌った。

 東国の王の妻が、元は西国の王であった事が幸いした。東西を統べる王位は、二人の為した子に継承される事となったのだ。

 現在、西国の統治は幼い王子に代わり──東国の王の兄が宰相として派遣され、一手に取り仕切っている。


 西国の王都、宰相の屋敷にて。

 そこに住まう宰相の妻の名は、香梅シャンメイといった。

 その名からも察する事ができるが、東国人である。

 彼女はもともと、西国の色街でも随一の妓女ぎじょと持て囃され、白雪公主スノウ・ホワイトと称されたほどの美女だ。


**********


 妓女ぎじょの世界は熾烈であり、美貌一本槍でのし上がれるほど生易しい業界ではない。

 一晩呼び出すだけでも高額な花代のかかる彼女たちの相手は、おのずと身分の高い貴族や王族、権力を持つ裕福な商人などになる。文芸や教養に秀でていなければ話し相手も務まらない。

 香梅シャンメイも例外ではない。色街一の妓女の名に相応しく、鈴が転がるような蕩ける美声の持ち主。その口から語られる瀟洒しょうしゃな文言は、知識層ぶった男たちを容易く手玉に取れるほどの話術であった。

 加えて白魚の如き透き通る美肌。芳醇なる実り豊かな両の果実。艶やかな紅に縁どられた、塞がずにいられぬ肉厚の唇──なるほど男として生まれたならば、斯様な花と実を携えた美妓に夢中にならない筈がない。


 そんな彼女の心を射止め、伴侶に迎えるという難事を見事成し遂げた──西国の現宰相であるが。

 この男、政務に関しては類まれなる才を持つ。荒事から手芸まで、一通り教わりさえすればできぬ事などないのではないか、と噂されるほどの人物でありながら。

 信じ難い事に香梅シャンメイと巡り合うまで、こと色恋沙汰に関してとんと無縁だった。


 店で初めて出会った時のこと。

 雨に降られて濡れ鼠のようになっていた彼に、雨仔ユイザイと名付けたのは他ならぬ香梅シャンメイだ。


 当てつけのつもりだった。


 三年前。振り向いてはくれぬと分かっていても、己の全てを捧げてもいいと思えるほどに、恋焦がれたあの男──東国の覇王──との思い出。

 決して恨んでなどいない。あの時取った自分の行動に、一切の後悔はない。

 彼から受け取った黄金の玉璽ぎょくじいさかいの火種になりかねないという主張はもっともであるし、返却して欲しいというならやぶさかではない。

 それでも。苦い失恋の記憶を、憚る事なく無遠慮に掘り返すきっかけを作った──この男の第一印象は最悪であった。


 三年も経てば冷静になれる。燃え盛っていた情熱もいつか鎮まり、過去の一部となる。

 そう分かっていても、香梅シャンメイは現宰相に関して、からかい半分に無理難題を言ってやりたくなった。


 曰く、自分を妻として迎えること。

 曰く、百日の間、欠かす事なく店に通い続けること。

 曰く、その間、自分の身体に一切触れぬこと。


 そもそも最初の一つ目からして現実的ではない。いかな西国一の妓女とて、所詮は金で買える女なのだ。

 自分でも無茶だと思える高い要求をまずつきつける。そこからじっくりと話し合い、落としどころを探る。外交術としては初歩である。

 この現宰相とやらも、実務能力に優れた東国人。困った顔をしながらもあれこれ値引き交渉を始めるだろう。そう思っていたのだが──


 なんとこの男、愚直なまでに上記の要求に全て応じ、やり遂げた。繰り返す。「全て応じ、やり遂げた」のだ。

 そこに至るまでの百日、紆余曲折あった。言葉遣いや他の女に対する態度に関する苦言。日々の贈り物の中に秘められた、ささやかな愛への気づき。政務や夜会も放り出し、自分との逢瀬を優先したため起きた騒動──そして──


 その結果どうなったか。香梅シャンメイは新たな居場所を手に入れた。


 最初はいけ好かないと思っていた、女性の扱いの「いろは」も知らぬような雨仔ユイザイに。

 三年前恋に落ちた、彼の弟とは似ても似つかぬこの男に。

 香梅シャンメイはいつしか夢中になっていた。長年慣れ親しみ、離れたくないと思っていた色街を巣立ってもいいと思えるほどに。


**********


 それまで仕事一辺倒だった雨仔ユイザイは、傍目には人が変わってしまったかのように映った事だろう。

 何せ今まで、宰相に取り入ろうと必死の西国貴族たちが送り込んだ、選りすぐりの令嬢たちに目もくれなかった男だ。

 それが色街出身の妓女に入れ込み、あろう事か正妻に迎えるとまで宣言したのである。騒動にならぬ筈がない。


 その時のひと悶着──どころではなかったが──については、いずれ語る機会もあるだろう。


 西国の王都を預かる宰相の館は、広大な敷地に整然と偉容を放つ。

 一見して質素。だが建築の知識を少しでもかじっている者から見れば──意匠を凝らしながらも、実用性に富んだ造りである事が伺える。

 雨仔ユイザイが言うには──派手なのは好みではない。しかし仮にも宰相として振る舞うからには、最低限の雰囲気づくりが必要であり、仕方なく金をかけているそうだ。


 挙式後、宰相の館に入った香梅シャンメイだったが──彼女の方から「許可」を出すまで雨仔ユイザイは動かなかった。

 酷く呆れた。確かに百日通いの時、自分に指一本触れるなと要求はしたが──すでに時効であり、結ばれた後まで律儀に誓いを守る必要はない筈なのだ。


 しかしもっと呆れる事態が、この後起こる。新婚初夜の時である。

 彼は女人と交わった経験がないのではないか──と噂されていたのを、香梅シャンメイは知っている。

 燃える太陽の如き印象のあった弟と比べ、この兄は流れる雨のような銀髪と灰色の瞳を持つ。物静かではあるが女性を虜にするに十分な容貌であった。

 故に、自分にここまで入れ込んでくれた美しきこの男が。仕事一徹とはいえ、今まで誰ともまともに肌を重ねた事がないなどとは──


 噂は事実だった。香梅シャンメイはその夜、嫌と言うほどそれを思い知る事となった。

 最初はおっかなびっくり触れてきて、じれったいにも程がある。そこで発破をかけるつもりで、彼女は求める声を上げた。

 それが分水嶺だった。「許しを得た」彼の、今までの静かな印象があっけなく覆った。

 人を相手にしている気がしなかった。躊躇いがちだった愛撫が、香梅シャンメイの言葉に応じる度に力を、精度を増していく。


 それまで百日以上「待て」と命じられ、律儀に守っていた「忠犬」が。

 妻の許諾を得た途端、荒ぶる「狼」へと変貌を遂げた。

 香梅シャンメイは身体で理解した。出会った時からこの男は、思慕の念をくすぶらせつつ店に通い続けていたのだ、と。

 三ヶ月以上もの間、堰き止められていた情熱が一気に噴き出したのだ。その激しさたるや推して知るべし。


 初夜が終わる。飢えた獣に貪られ、息も絶え絶えになった西国一の妓女は、雨仔ユイザイの順応の速さに驚愕した。

 本当にこの男、自分が最初に抱いた女だったのか? そう疑問に思わずにはいられない。


 雨仔ユイザイは謝罪してきた。この日の為に兄弟から話を聞いたり、色事に関した書物を取り寄せて懸命に予習したそうだが──やはり練習と本番は違う、と。向こうも必死だったのだと思える告解に、香梅シャンメイは怒る気力も失せてしまった。

 しかし二度目以降。実践を通して学習したのか、現宰相殿の夜伽の問題点は飛躍的に改善されていく。

 何でもそつなくこなす男だとは思っていたが、歴戦の妓女たる香梅シャンメイを以てしても──腹立たしいほど舌を巻く適応能力の高さである。


 伴侶を得てから、自ら率先して妻の身の回りの世話を焼き始める宰相を見て、周囲の人々は噂した。

 堅物で知られるあのお方も、遊女の色香に惑わされてしまったか──


 半分は正しい。だが香梅シャンメイは知っている。

 雨仔ユイザイは出会った頃から、何一つ変わっていない。ただ全力で尽くしているだけなのだ。

 愛情の矛先が、それまでは長兄であったり、仕事であったりして──今は自分に向けられている。それだけに過ぎない。


 しかし情愛を注ぐ余り、国政まで疎かにされて──自分が傾国と後ろ指を差されては敵わない。

 今朝もまた、甲斐甲斐しく己の着る衣装の着付けを手伝う夫を見て、香梅シャンメイは密かに思い悩むのだった。

(後編につづく)

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