3.香梅(シャンメイ)・前編
Scene Character:香梅
Scene Player:石川 翠 様
ここは西国の王都。
何年か前、強大なる王の率いる東国が昇竜の如く台頭し──西国はその勢いになす術もなく飲み込まれた。
しかし東国の王は思慮深かった。征服によって無辜の民の血が流れる事を、直接統治によって不必要な軋轢が生まれる事を嫌った。
東国の王の妻が、元は西国の王であった事が幸いした。東西を統べる王位は、二人の為した子に継承される事となったのだ。
現在、西国の統治は幼い王子に代わり──東国の王の兄が宰相として派遣され、一手に取り仕切っている。
西国の王都、宰相の屋敷にて。
そこに住まう宰相の妻の名は、香梅といった。
その名からも察する事ができるが、東国人である。
彼女はもともと、西国の色街でも随一の妓女と持て囃され、白雪公主と称されたほどの美女だ。
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妓女の世界は熾烈であり、美貌一本槍でのし上がれるほど生易しい業界ではない。
一晩呼び出すだけでも高額な花代のかかる彼女たちの相手は、おのずと身分の高い貴族や王族、権力を持つ裕福な商人などになる。文芸や教養に秀でていなければ話し相手も務まらない。
香梅も例外ではない。色街一の妓女の名に相応しく、鈴が転がるような蕩ける美声の持ち主。その口から語られる瀟洒な文言は、知識層ぶった男たちを容易く手玉に取れるほどの話術であった。
加えて白魚の如き透き通る美肌。芳醇なる実り豊かな両の果実。艶やかな紅に縁どられた、塞がずにいられぬ肉厚の唇──なるほど男として生まれたならば、斯様な花と実を携えた美妓に夢中にならない筈がない。
そんな彼女の心を射止め、伴侶に迎えるという難事を見事成し遂げた──西国の現宰相であるが。
この男、政務に関しては類まれなる才を持つ。荒事から手芸まで、一通り教わりさえすればできぬ事などないのではないか、と噂されるほどの人物でありながら。
信じ難い事に香梅と巡り合うまで、こと色恋沙汰に関してとんと無縁だった。
店で初めて出会った時のこと。
雨に降られて濡れ鼠のようになっていた彼に、雨仔と名付けたのは他ならぬ香梅だ。
当てつけのつもりだった。
三年前。振り向いてはくれぬと分かっていても、己の全てを捧げてもいいと思えるほどに、恋焦がれたあの男──東国の覇王──との思い出。
決して恨んでなどいない。あの時取った自分の行動に、一切の後悔はない。
彼から受け取った黄金の玉璽。諍いの火種になりかねないという主張はもっともであるし、返却して欲しいというならやぶさかではない。
それでも。苦い失恋の記憶を、憚る事なく無遠慮に掘り返すきっかけを作った──この男の第一印象は最悪であった。
三年も経てば冷静になれる。燃え盛っていた情熱もいつか鎮まり、過去の一部となる。
そう分かっていても、香梅は現宰相に関して、からかい半分に無理難題を言ってやりたくなった。
曰く、自分を妻として迎えること。
曰く、百日の間、欠かす事なく店に通い続けること。
曰く、その間、自分の身体に一切触れぬこと。
そもそも最初の一つ目からして現実的ではない。いかな西国一の妓女とて、所詮は金で買える女なのだ。
自分でも無茶だと思える高い要求をまずつきつける。そこからじっくりと話し合い、落としどころを探る。外交術としては初歩である。
この現宰相とやらも、実務能力に優れた東国人。困った顔をしながらもあれこれ値引き交渉を始めるだろう。そう思っていたのだが──
なんとこの男、愚直なまでに上記の要求に全て応じ、やり遂げた。繰り返す。「全て応じ、やり遂げた」のだ。
そこに至るまでの百日、紆余曲折あった。言葉遣いや他の女に対する態度に関する苦言。日々の贈り物の中に秘められた、ささやかな愛への気づき。政務や夜会も放り出し、自分との逢瀬を優先したため起きた騒動──そして──
その結果どうなったか。香梅は新たな居場所を手に入れた。
最初はいけ好かないと思っていた、女性の扱いの「いろは」も知らぬような雨仔に。
三年前恋に落ちた、彼の弟とは似ても似つかぬこの男に。
香梅はいつしか夢中になっていた。長年慣れ親しみ、離れたくないと思っていた色街を巣立ってもいいと思えるほどに。
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それまで仕事一辺倒だった雨仔は、傍目には人が変わってしまったかのように映った事だろう。
何せ今まで、宰相に取り入ろうと必死の西国貴族たちが送り込んだ、選りすぐりの令嬢たちに目もくれなかった男だ。
それが色街出身の妓女に入れ込み、あろう事か正妻に迎えるとまで宣言したのである。騒動にならぬ筈がない。
その時のひと悶着──どころではなかったが──については、いずれ語る機会もあるだろう。
西国の王都を預かる宰相の館は、広大な敷地に整然と偉容を放つ。
一見して質素。だが建築の知識を少しでもかじっている者から見れば──意匠を凝らしながらも、実用性に富んだ造りである事が伺える。
雨仔が言うには──派手なのは好みではない。しかし仮にも宰相として振る舞うからには、最低限の雰囲気づくりが必要であり、仕方なく金をかけているそうだ。
挙式後、宰相の館に入った香梅だったが──彼女の方から「許可」を出すまで雨仔は動かなかった。
酷く呆れた。確かに百日通いの時、自分に指一本触れるなと要求はしたが──すでに時効であり、結ばれた後まで律儀に誓いを守る必要はない筈なのだ。
しかしもっと呆れる事態が、この後起こる。新婚初夜の時である。
彼は女人と交わった経験がないのではないか──と噂されていたのを、香梅は知っている。
燃える太陽の如き印象のあった弟と比べ、この兄は流れる雨のような銀髪と灰色の瞳を持つ。物静かではあるが女性を虜にするに十分な容貌であった。
故に、自分にここまで入れ込んでくれた美しきこの男が。仕事一徹とはいえ、今まで誰ともまともに肌を重ねた事がないなどとは──
噂は事実だった。香梅はその夜、嫌と言うほどそれを思い知る事となった。
最初はおっかなびっくり触れてきて、じれったいにも程がある。そこで発破をかけるつもりで、彼女は求める声を上げた。
それが分水嶺だった。「許しを得た」彼の、今までの静かな印象があっけなく覆った。
人を相手にしている気がしなかった。躊躇いがちだった愛撫が、香梅の言葉に応じる度に力を、精度を増していく。
それまで百日以上「待て」と命じられ、律儀に守っていた「忠犬」が。
妻の許諾を得た途端、荒ぶる「狼」へと変貌を遂げた。
香梅は身体で理解した。出会った時からこの男は、思慕の念をくすぶらせつつ店に通い続けていたのだ、と。
三ヶ月以上もの間、堰き止められていた情熱が一気に噴き出したのだ。その激しさたるや推して知るべし。
初夜が終わる。飢えた獣に貪られ、息も絶え絶えになった西国一の妓女は、雨仔の順応の速さに驚愕した。
本当にこの男、自分が最初に抱いた女だったのか? そう疑問に思わずにはいられない。
雨仔は謝罪してきた。この日の為に兄弟から話を聞いたり、色事に関した書物を取り寄せて懸命に予習したそうだが──やはり練習と本番は違う、と。向こうも必死だったのだと思える告解に、香梅は怒る気力も失せてしまった。
しかし二度目以降。実践を通して学習したのか、現宰相殿の夜伽の問題点は飛躍的に改善されていく。
何でもそつなくこなす男だとは思っていたが、歴戦の妓女たる香梅を以てしても──腹立たしいほど舌を巻く適応能力の高さである。
伴侶を得てから、自ら率先して妻の身の回りの世話を焼き始める宰相を見て、周囲の人々は噂した。
堅物で知られるあのお方も、遊女の色香に惑わされてしまったか──
半分は正しい。だが香梅は知っている。
雨仔は出会った頃から、何一つ変わっていない。ただ全力で尽くしているだけなのだ。
愛情の矛先が、それまでは長兄であったり、仕事であったりして──今は自分に向けられている。それだけに過ぎない。
しかし情愛を注ぐ余り、国政まで疎かにされて──自分が傾国と後ろ指を差されては敵わない。
今朝もまた、甲斐甲斐しく己の着る衣装の着付けを手伝う夫を見て、香梅は密かに思い悩むのだった。
(後編につづく)