17 身を清める・前編(ティス、香梅)
Scene Character:ミオソティス(ティス)、香梅
Scene Player:貴様 二太郎 様、石川 翠 様
火の精霊ヴェスタが大喜びで湯沸かしに向かった後。
一人佇んでいたトーマスの前に、香梅がツカツカと近寄って来て、そっと袋を差し出した。
「これ、あなたの分。ティスが真心込めて作ったのよ。このクッキー」
「僕の分まで? お心遣い、ありがとうございます」
彼女の言い分から察するに、袋の中身は先ほどのジンジャ―ブレッドなのだろう。
トーマスは表面上にこやかに、袋を受け取った。
「『グリソゴノ』さんを疑う要素は、今のあたし達にはないわ。『彼』の言い分を信用するならば、四人が協力しなければここから出られないらしいし。あなたが内心どう思ってようが構わないけれど、利害は一致してるハズ。そこは最低限、意識して欲しいわね」
「困りましたね。ずいぶんと警戒されているようだ」
ふわりとした言葉を放つ仮面の下の美しい顔には、まるでもう一枚仮面があるような。
「……これは『取引』よ」
「もちろん協力するつもりですよ」
トーマスは香梅の能力を確信した。
自分と同じく、無から有を生み出す力。石人の屋敷に厨房や食材が出現した事でそれは明らかになった。
(俺様と同じ力を持つ者が他にもいる……という事態は気に食わんが。
重要な事は『能力』そのものではない。それをいかに使いこなすか、だ)
香梅が立ち去った後、トーマスは袋の中身を確認し……双眸を僅かに歪ませた。
トーマスの姿を模したジンジャ―ブレッドクッキー。だがさらにもう一枚。
随分と歪なデザインだが、赤い髪と黒装束の人型クッキー。『ゲツエイ』だ。
(……!
あのガキがゲツエイの存在に気づくというのはありえない。香梅とやらが放り込んだのか)
影なる存在にも気づいているという、香梅なりの警告か。
トーマスはクッキーの袋から手を離し、地に落ちたそれを踏みつけた。ザクリ、と不快な足ざわり。粉々に砕けたクッキーと靴の汚れを能力で消し去り、彼もその場をあとにする。
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浴室のお湯が沸いた旨がヴェスタより通達され――まずはミオソティス、香梅ら女性陣が入浴する事となった。
「わあ、姐姐の身体、昔読んだ本の絵画みたい……」
更衣室にて、慣れ親しんだ東国衣装をはだけた途端――石人の少女から歓声が上がった。
白磁器の如き艶やかな素肌が露になり、容积・平衡共に申し分ない、西国一の妓女に相応しき肢体が惜しげもなく晒される。
「極夜国の石人にだって、姐姐みたいに綺麗な人はいなかったかも!」
「……面と向かって褒めそやされると、ちょっと照れるわね。
そういうティスだって素敵よ。吸いつくような瑞々しい玉の肌――まるで本物の宝石のよう」
光届かぬ極夜の住人であるはずのミオソティスの肌は――月明かりめいた白さの中に、暖かさを連想させる血色の良さだ。
香梅のように蠱惑の色気こそ乏しいものの――虹彩異色の瞳や射干玉色の髪も相俟って、幻想的な御伽話の住人のようであった。
香梅はミオソティスに先に湯船に入るよう促すと、桶に湯を汲み取り、化粧を落とす作業に没頭した。
(夢の中なんだし、例の力を使えば化粧だって、一瞬で落とせるのかもしれないけれど)
そうは言っても、先刻の厨房や食材を生み出した際の疲労を考えると、せっかくの入浴でより消耗する事になりかねない。
それなら少々時間はかかっても、いつも通りのやり方を通した方がマシだと彼女は考えた。
(グリソゴノさんは『霧を掃うため』身を清める必要がある、と言っていたけれど。
森に漂っていた濃い霧は、そうまでして洗い落とさなければならないモノだったのかしら――)
香梅はふと疑問に思った。
確かに霧の中を歩き続け、夢の中にも関わらず焦燥が募っていく感覚はあった。
(ティスが屋敷の霧を掃う時、『感情』があると言っていた。
霧には感情が、意思がある――この森を閉ざそうとする意思が)
「……ティス。霧は掃われる時、どんな感情を持っていたの?」
化粧を落とし終えた香梅の問いに、ミオソティスは湯船の中で頬を紅潮させつつ答えた。
「どれもいい感情じゃあなかったわ。嫉妬や悲しみ、羨望……
あの場にあった霧の感情は、過去の石人たちのものだった。
『半身』を見つけられなかった人たち。せっかく一緒になれたのに、片割れに半身が見つかってしまい、捨てられた人たち……」
石人たちの言う「半身」は、人間の世界の愛し合う夫婦と似ているようでまるで違う。
ひとたび出会ってしまえば抗えない。互いに求め合い、ひとつとなる欲求に逆らえない。
共に生き続け、惹かれ合う事を望み、そして……半身が死ねば、もう片方も後を追うようにして、死ぬ。
(あたしも雨仔と引き裂かれるなんて、考えたくもないけれど……
何故かしらね? 『半身』という言葉、そしてその在り方。それまで大切だった人や、自分の子供すらも放り捨ててまで求めてしまうのは……正直、怖い)
「でも一番強かった感情は……『諦め』だったわ」
「諦め……?」
「そう。あの人は半身と出会ってしまったのだから、仕方がない……とか。
私は穏やかな生涯を過ごせたけれど、半身と出会えなかった事が心残り、だとか」
ミオソティスの悲し気な言葉の響きにも、その「諦め」の感情が混じっている――香梅はそんな気がした。
石人にしか分からない気持ちなのだろう。半身の結びつきの強さと、悲しさと、その絶対性は。
「グリソゴノさんも、半身がいるの?」
「いいえ。あの人は妻はいたけれど――半身ではなかった、と記録にはあるわ。
彼は結局、半身と出会う事なくその生涯を終えたけれど、穏やかな人生を過ごした」
「ティスはどうなの? 半身が欲しい?」
「……欲しくない石人なんていないわ。だって素敵じゃない?
出会って必ず一緒になれる運命の人なのよ? 死が二人を分かつまで――いいえ、死すらも半身を引き裂く事は叶わない。
私もきっと、そんな人と出会う。出会いたい……私の忘却の力をものともしない、運命の人と共に在りたい」
湯気と暖かな湿気の中、ミオソティスの美しい頬は熱っぽい色を帯び、愛らしい唇は夢を語る。
そんな彼女の様子に香梅は「そう……出会えるといいわね」とだけ答えた。
「この森を出るために、霧を何とかしなくちゃね。ティスの半身に出会うためにも」
「ええ。それに……私の忘却の力を、グリソゴノさんの言うように役立てられるなら。
過去の石人たちの暗い感情を鎮める事ができるんだったら……協力したい」
直に霧の感情を読み取った影響からか、ミオソティスの中には過去の石人たちへの共感や同情心が芽生えつつあった。
やがて二人の入浴は終わり――身を清める「儀式」はつつがなく進んでいく。
(つづく)